我が神に捧ぐ
露刃
第1話
――この姿 ぴんと来たなら それ巫女です
そんなふざけた看板が至る所に設置されてから二日。片手に傘、片手に肉まんを持った男は、道端で眉間に皺を寄せていた。
面倒ごとが、やや前方にいる。指名手配されている巫女がいるのだ。これを面倒ごとと言わずになんと言おう。とりあえず、一般的には三つの選択肢があると思われた。
一. 庶民の義務として関所に通報する
二. 面倒に巻き込まれたくないので無視する
三. 珍しいので遠目に観察する
「……二だな」
つぶやいて、男は何事も無かったかのように歩き出した。
男の前方にある馬車停留所では、少女がこそこそと隠れるようにして周囲を窺っている。まだ男には気付いていないらしい。そこそこ強い雨が降っているので、雨音と水しぶきで見えていないのかもしれない。
家に帰るには、この道をまっすぐ行かなければならない。そうするとあの少女に見られるだろう。関わりたくない。面倒だが、引き返して違う道を行くか。しかし帰りが遅くなると、同居人に文句を言われる。それもまた面倒だ。すでにこの雨で、紙袋の中の肉まんは冷めかけている。
「………」
迷ったのは一瞬だった。
男は結局、まっすぐに歩くことにした。見ないふり、気付かないふりをすればいい。
少し歩くと、傘に当たる雨の音で少女は男に気が付いたらしい。ばっと馬車停留所の腰掛の陰に隠れた。まったく隠れられてはいないが。
気付かれていることに気付かないふりをして、男は馬車停の前を歩いていく。通りすがりに一瞬だけ停留所の方へ視線を走らせると、少女がずぶ濡れでいることが分かった。巫女の証拠である白衣と緋袴は泥で汚れ、裾が破れ、小さく震えていることも。青白い顔も。
……ずいぶんと昔、同じように雨に濡れ寒さに震える少女を見た。同じように、停留所で。その頃は、男もまだ少年だった。
男は舌打ちした。
面倒くさい。関わりたくない。
だというのに。
「――おい、そこの巫女」
意に反して、言葉が出ていた。
「誰が巫女じゃ!」
「お前だよ、そこのちっこいの」
「はっ、しまった、隠れていたのに!」
「残念ながら、丸見えだよ」
四本の柱に板を乗せただけのような簡易な腰掛だ。いかに少女が小柄であろうと、隠れられるはずがない。
「わらわは巫女ではない」
少女は堂々と立ち上がったが、その身長は男の腰ほどまでしかない。見下ろす方も見上げる方も首が疲れる身長差だ。
「巫女じゃないならなんなんだよ」
肩のあたりで切りそろえられた青みがかった黒髪に、透き通るような白い肌。黒い光を放つ大きな瞳。そして、白衣に緋袴。
この世界で巫女にしか許されていない着物を隠しもせず、少女は巫女ではないと言う。確かに、腰に手を当てて男をまっすぐ見上げるそのさまは、巫女が持っているはずの神々しさとか威厳とか荘厳とかには程遠いが。
「ふふふ。わらわはな、ちょっとした迷子じゃ」
「胸を張って言うことじゃねぇよ」
「なに? こういうのが普通の子どもではないのか? では普通の迷子はどうやって迷子であることを申告するのじゃ?」
「あー…。いや、いいか。面倒くせぇ。じゃあそこの迷子」
男は傘を少女の方へ傾けた。
「とりあえず、うちに来い」
「む、何故じゃ。いたいけな少女になにをする気か申してみよ」
「お前になにかするほど暇じゃねぇ。そんなずぶ濡れで震えてんの見過ごしたら、なんか気分が悪いだろうが。薄汚れやがって」
「なんじゃそなた。目つきはずいぶん悪いが、見かけによらずいい奴か?」
「いいや、俺は」
罪人だよ。
言いかけて、止めた。
「…俺のことはどうでもいい。うちに来るのが嫌なら手ぬぐいだけでも借りていけ。うちには女もいるから、それなら安心だろ」
言っている間にも、雨は降り続ける。古びた停留所の屋根からは雨が漏れて、少女の頬を濡らしていた。
まるで、涙のように。
ずいぶんと昔の、あの時と同じように。
「来ないなら関所に通報するぞ。どっちにしても迷子なら通報するのが義務だしな」
「くっ…。ならば仕方があるまい。お邪魔するとしよう」
悔しそうに顔を歪めてから、少女は男の方へと一歩踏み出し――べしゃっと倒れた。
「おい、どうした」
思わず傘を落としてかがみこんだ男の前で、少女は顔を上げる。顔に泥がついていた。
「…草履の鼻緒が、切れたらしい」
言いながら、右足の草履を脱ぐ。
「昨日今日と慣れぬ道をかなり走り回ったからな。無理もなかろう」
「ったく…。貸せ」
ため息をつきながら、男が草履を奪う。確かに鼻緒が切れていた。泥と雨に塗れてぼろぼろで、修復は出来そうにない。
「なんか鼻緒の代わりになるもんないのか」
「あいにく身一つじゃ。そなたは」
「持ってたら聞かねぇよ。……仕方ねぇな。ほら」
「おお?」
男は少女の腕を引いて乱暴に立ち上がらせ、そのまま片手でひょいと抱き上げた。慌てた少女が男の肩にしがみつく。
「なにをする!」
「暴れるな。仕方ねぇだろ、雨の中裸足で歩かせるわけにもいかねぇ」
「そうか、すまぬ。そなた、やっぱりいい奴ではないか。悪人のような顔つきじゃが、ただの照れ屋なのか? つんでれとかいう奴か」
「落とすぞ、クソガキ。いいからお前は傘持ってろ」
肉まんが入った袋を持つ左手で傘を拾い、男は少女に押し付けた。少女の草履は着流しの懐に入れた。冷たいが仕方がない。
「ほう。これが傘か。本物に触るのは初めてじゃ。重いな」
「そんな世間知らずなこと言ってると、本当に巫女認定するぞ」
「は、そうか。えーと。ならば…。そう、こんな重い傘を持つのは初めてじゃ。これでどうじゃ?」
その言い方が、すでに巫女であることを認めている。
数日前、神界(しんかい)を抜け出すという大罪を犯し、指名手配された巫女。似顔絵こそ公開されていないが、白衣に緋袴を身につけられるのはこの世に巫女しかいない。
少女は、本物の傘が珍しいのか柄の部分を両手でくるくると回して遊んでいる。やがて、そうじゃと声を上げた。
「そなた、名はなんというのじゃ?」
「名前?」
「うむ。おっと、しまった。他人に名前を聞く時はまず自分からが礼儀であったな。これはすまぬ」
「いや、別にいいけどよ」
「ふむ。わらわの名前か。ええと…。わらわは、そうじゃな…」
考え始めた少女を抱え、男は家路を急ぐ。長い間雨に濡れていたのだろう、少女の身体は冷たい。子どもの体温は高いはずなのに。
「そんな考えることじゃねぇだろ。周りの奴らはお前のことをなんて呼んでた?」
「周囲のものは、みこと」
「………。巫女と?」
「いやいやいや、違う! み、ミーコ! ミーコと呼んでいた! そう決めた! わらわのことはミーコと呼べ!」
「猫か」
思わず男は吹き出した。
「なにを笑っておる。ほら、わらわは名乗ったぞ。次はそなたの番じゃ」
「俺はシロ」
「犬か。ひとのことを言えぬではないか」
「ほっとけ」
「ふむ。シロというのは真名か?」
「いいや、通称だよ。周りの奴はみんなそう呼ぶ」
「そうか。ではシロ。ありがとう」
「あ?」
シロに向かって、ミーコはにっこりと笑った。
「実は寒くて参っていたのだ。そなたが通ってくれて助かった」
「そりゃどういたしまして」
「シロは背が高いのじゃな。見晴らしが良いぞ」
「お前がちびなだけだろ」
「雨が止んだらまたこうしてくれ。晴れていたらもっと気持ちが良さそうじゃ」
「知るかよ。背を伸ばす努力をしろ」
「ふふふ。雨が止むのが楽しみじゃな」
「お前ひとの話聞いてないだろ」
ため息をつきながら、シロは大股で歩いていく。肉まんを、もう一つ買ってくれば良かったと思いながら。
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