トートロジーシンドローム
寸刻み
トートロジーシンドローム
トートロジー(英: tautology, 希:ταυτολογία, 語源はギリシャ語で「同じ」を意味するταυτοから)とは、ある事柄を述べるのに、同義語または類語または同語を反復させる修辞技法のこと。同義語反復、類語反復、同語反復等と訳される。関連した概念に冗語があり、しばしば同じ意味で使われることもある。また、撞着語法はトートロジーの反対の技法である。
同語反復(どうごはんぷく)とは「私は私であり、君は君である」のように、等値を示す語によって同じ言葉を繰り返すことである。 文学、評論等、言語表現における技巧のひとつとして用いられる。
「AはAである」は、例えば「AはあくまでAであって他のものとは異なる」という注意喚起、あるいは「Aは所詮Aであってそれ以上ではない」という主張、等々の筆者(話者)の意図を含み得る。また同様に「AはAであり、BはBである」は、例えば「AとBを混同すべきではない」という注意喚起、あるいは「AとBは(ある文脈で)異質である」という主張、等々を含意し得る。
言葉遊びとしては、「非AとはAに非ざること也」「ABとはAをBすること也」といった、説明を避けて相手を煙にまく表現がある。
Wikipedia「トートロジー」の頁より引用。
0
ブァアアアッ。
地下鉄の駅ホーム。暗闇から強く鋭い光が差し込んだ。非常に速く、非常に力強く、肚の奥まで響き渡る揺れを起こしながら、その胴長な金属の塊は鼓膜を抉るような雄叫びを上げた。
近付いてくる。
線路が僕の足元を、末広がりに伸びている。
近付いてくる。
強すぎる光に遮られ、四角い影しか見えない。
ごうごうと、不快に響いてくる音を更に強くする。
近付いてくる。
徐々に、速度を緩めることなく。
徐々に徐々に、自分の目の前へと。
徐々に、徐々に、徐々に、徐々に、徐々に、徐々に、徐々に——。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
気付けば膝から崩れ落ち、冷や汗をだらだらと流しながら、呼吸を荒げていた。一体、これで何度目だろうか。一体、いつからなのだろうか……。
——電車を見るたびに、「轢かれたい」、と思ってしまうようになったのは。
1
「フゥン……成程……」
間延びした相槌。この先生の所に掛かるようになったのも、一体いつからだろう。思い出そうとしたが、どうしようもない吐き気に頭が回らない。
「症状は悪化もせず、ずっと同じだと? ……ずっと、ね」
「はい。薬も効かないというか、しっかり時間と容量を守ってはいるんですけど」
「真面目だねぇ。容量はオーバードーズになられても私たち医者が困るから、患者が守るのは義務ではないにしても当然として、時間までしっかり指定通りなのかい? 中々珍しいのではないのかな、昨今」
医者がそれを言うか。
「かく言う私も、時間はそこまで守った事は無いのだがねぇ」
「はぁ……」
この一見、ふざけている様にしか見えない女医——
「
「ええ」
「珍しい苗字だねぇ。可愛らしいじゃないか」
言われ慣れた言葉だ。
「まぁそんな事よりも、変わっているのは問診記録だ。今月……まだ月が始まって二週間も経っていないと言うのに、君は既に、十七回もここを訪れているねぇ」
そう、だったのか。
「何度か来ない日があったが、その翌日には必ず、日に二、三度来ている。私の事が好きなのかい?」
「えぇ、いや、嫌いではありませんけど……?」
「そういう答えを期待したんじゃないんだがね——まぁおふざけはここまでにしておこうか」
やはりふざけていたのか、この医者は。
「……直近何があったかすら思い出せない程の記憶力の低下、電車、車を見るたびに「轢かれたい」と望んでしまう無意識の自殺願望。表情筋は最低限の会話が可能な程度にしか動けるものではなくなってしまっているし、食欲減退は拒食へと変わり、一見しただけではあるが黒髪に白髪が多く混じっている——ざっと、これまた一見しただけなのだが、十三パーセントぐらいかな?」
白髪か。あまり気にした事は無かったな。ざっと見ただけでそこまで解るのか。
「「轢かれる」なんて酷い死に方に酷く「惹かれている」君に、一つの病名を提示しよう。これは症例も少ないし、つい先日、私が学界に提示したばかりの非公認のものだが、漠然とした、病気なのかも解らない不安感を募らせるよりはマシだろうね。あぁ、そうそう。これ病気なのかも解らないのだよ……定義としては、忌み嫌われる精神疾患の、その一つにカウントできなくもないのだが、症状の個人差がなさすぎるというか……。躁鬱病、強迫性障害、鬱病、解離性障害、同一性障害、その他精神疾患とは一線を画すと言うか、でありながら共通項が多すぎると言うか、特異性が特異的にもほどがあると言うか、その特異性すらも本当に特異なのかわからないと言うか……」
「えっと……それで、病名は……?」
「『反復性追求気質化症候群』。通称は『トートロジーシンドローム』」
反復……きしつ? なんだそれ……とーとろじー……シンドロームは、ギリギリ聞いたことがある。
「トートロジーの説明からかな。トートロジーは、例えば「頭痛が痛い」だとか、「水中の中」だとか、同じ意味を持つ言葉を繰り返すが、実際は意味のない、必要性の無い不毛な言葉遊びの事さ。強調しているわけでもないから、何かが明瞭になるわけでもなし。所謂、同語反復、というヤツだねぇ。ネットミームになる程の構文を編み出した某議員さんの十八番だよ」
ほう……?
「まぁ、『トートロジーシンドローム』を簡単に言えば、テンプレート化した日常に飽き飽きして、極端なスリルを求めてしまう疑似的なアドレナリン中毒さ」
なんとはなしに、この人の言いたいことが解ってきた。
「興奮物質であるアドレナリンが分泌されないような状態に脳が警鐘を鳴らしているのだろうが、古に感じた興奮感を掘り起こしたいが為に、全身にまでよろしくない症状が侵食していっているわけさ。実際、この病魔はかなりヤバいものでね……アドレナリン中毒自体は疑似的な物で、スリルに対する恐怖心や興奮感を、半ば強制的に打ち消すのが主な症状。質が悪い事に、他の食欲減衰等々症状はオマケなのだよ。戻るが、先ほど言った打ち消し症状から治療法なのだが……ハッキリ言おうか、要するに——」
「死ねば治る、と」
「……そうさ」
だから処方できる薬は、今日を以て無くなった。この世からも、可能性からも。もうこなくていいよ——その女医はそう言って、自分からパソコンへと、興味の対象を移した。
2
成程、それは病気と表現し辛い訳だ。現代社会人にかけられた、一種の呪いと言うべきだろうか。
慣れた道、慣れた風景。
人と人とが軽い挨拶を交わし、猫が鳴き、烏がゴミ袋を突く。
ここまで代わり映えがない日常に、最近は異様さすら感じてくる。
もう飽き飽きしてしまった風景は、今日も変わらず、平和を装っている。
こんなにも、何もなさそうな日常。
日常の裏では、知らない誰かが知らない誰かを騙し、知らない誰かが知らないのせいで泣き、知らない人の言葉や手によって、知らない人が死んでいる。
『だから処方できる薬は、今日を以て無くなった。この世からも、可能性からも。もうこなくていいよ』
つい三日前、あの女医——英票先生に言われた言葉。あれで医者なのだから、世の中は面白い。のかもしれない。
慣れた足取りで、見飽きた、日焼けで黄色くなった××駅の看板をコンマ数秒視界の端に捉え、改札へと歩を進める。ホームに着くまでは、大した事は無い。
ブァアアアッ。
烏に突かれ、袋が破れて雪崩出たゴミのように、人が疎らに散るホーム。今日も、暗闇から強く鋭い光が差し込んだ。
近付いてくる。
線路が僕の足元を、末広がりに伸びている。
近付いてくる。
強すぎる光に遮られ、四角い影しか見えない。
近付いてくる。
徐々に、速度を緩めることなく。
徐々に徐々に、自分の目の前へと。
徐々に、徐々に、徐々に、徐々に、徐々に、徐々に、徐々に——。
「~~~ッはァっ、ハぁッ、はァっ……」
喉の奥に丸めた新聞紙を捩じ込まれたかのように、気管が狭まり、呼吸が詰まる感覚。肺の奥をなぞられているような、気色の悪い感覚に吐き気がする。
落ち着くのもやっとの状態で電車に乗り、珍しく開いていた席へと座り込む。対面の車窓から暗闇を覗くと、つんざく様な車輪とレールの摩擦音を上げて電車が走り出した。
ぱち、ぱち、ぱち……。
明かりが右から左へ、右から左へと、焦点が留まることなく走り抜けて行く。
ドッ、ドッ、ドッ……。
まだ不安定に独り歩きしている心臓が、不規則に収縮を繰り返す。
最悪の気分。
そうとしか形容しがたい、不快感。
「——……スゥーっ、ふぅううううう……」
気付けば、自然と呼吸は整っていたが、肺の奥に染み渡る空気が気管の先の先を痺れさせてくる。
あー、本当に薬はないのか。風邪薬でも、胃薬でもいい。有効打になる薬はないし、手段は死ぬ事のみ。そりゃ、死にたいわけがない。オーバードーズになっている方が、幾分かはマシなのではないか。
最悪な気分で、最悪の事を考えている自分に、酷く嫌気が刺す。
レンズが灼ける程、眩しい日差し。
地上に上がったら、あと六駅。急行なら二駅だが、この時間帯に運航しているのは各駅停車だけだ。朝の通勤ラッシュの命ともいえる各駅停車を、自らの命で止める程、自分は落ちぶれてはいない——事実、未遂で踏みとどまっている毎日である。
とは言え、色々試しはした。
轢死——現に踏みとどまっている。
溺死——アパートの浴槽が狭くて無理だった。
飛び降り——単純に高所恐怖症であることを忘れていた。
首吊り——ネクタイで試したが引っ掛けていたドアノブが曲がったので止めた。
薬物中毒——薬局で大量の風邪薬を買おうとしたら薬剤師に普通に止められた。
その他、アル中やリストカット、背中にボールペンを刺したりしてなんとか死にたがっている自分。今隣の席に座っている中肉中背のお兄さんや、向かいに座っている眼鏡のお姉さんと比べれば、いくつかの死線(?)を超えて、今ここまで来ている。
息は出来るが、異様に浅い。
死んではいないが、それは本当だろうか?
生きているが、生きている気は一切しない毎日だ。
『だから処方できる薬は、今日を以て無くなった。この世からも、可能性からも。もうこなくていいよ』
薬もない。治療法は死ぬ事のみ。
『——もうこなくていいよ』
死ねば楽になれる。
『もう来るな』
邪魔だから。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
『邪魔だ』
うるさいよ……。
『邪魔なんだよ』
死ねよ。
「うるさいってば……」
死ね。
『死ね』
「死ねよ……」
『死ねばいいんだよ』
「死ねってばぁ……!」
僕の意識は一度、そこで途絶えた。
3
「う、うぅ……」
これ、は? ……僕の呻き声?
「電車の中でぶつぶつと何かを呟いていたよ? 全く、たまたま私が遅刻をしていて同じ電車に乗っていてよかったよ。感謝し給えよ」
「……英……票、先生?」
「君が何かを唱えながら目の前で急に立ち上がったと思ったら、そのまま気を失って倒れてしまってねぇ……電車の外に運ぶの、かなり大変だっだのだよ?」
白衣の似合わない、ふざけているような雰囲気の女医。
「すみ、ません……」
「はは、謝る必要はないよ。人命救助と言う名の職務遂行さ——給料は出ないがね」
謝り待ちだったのではないか。
「とは言え、半日だ」
「半日……?」
「半日も寝ていたんだよ?」
!?
ガバっと、勢いよく起き上がり窓の外を見る。
都内の、それも高層ビルに埋められる程度しかない高さの病棟にしては、よくもまあこんな綺麗な赤い星を望めるとは。反射して映る、左右反転した時計は九時半を示していた。
外の蒸し暑さとは裏腹に、この病室の空調の効きは驚くほどによく、かえって冷めた頭が記憶を鮮明にしてくれた。
そうか、行きの電車内で倒れたんだ……。
「私から、会社には説明しておいたよ。どんな状況だったか、君の病状と併せてね」
言ったんだ、『トートロジーシンドローム』のことを。
「誰だったかな、あの……部長? 課長? さん? が応対してくれたよ」
「えっと……蜂須賀さんですかね」
「あの人はパワハラ気質がありそうだねぇ。声を聞いただけでも解るよ」
「……そういうものですか」
「あぁ、解るよ。声色から四十代後半、小太りで背は少し高い180手前。全体的に見た目の威圧感があって、実際威圧的な、乱暴な態度が目立つけれども、実際誰よりも仕事はできてしまうから周りが何も言わない、言えないタイプの仕事人。とはいえ真面目。何よりも真面目。ただその真面目さを他人に強要するから面倒くさい」
「……すごいですね……その通りです」
「訴えないのかい?」
「えぇ、まぁ……そうですね……」
「曖昧な回答だねぇ」
「あの人がいなくなったら困るんですよね、業務効率的に」
「感情より業務か。実に現代社会人らしい考えだね」
私はそういう考え方を、心底嫌うよ——そう、怪訝そうなしかめっ面で空を仰ぐ女医。
「効率なんてもの、結果が出てこその考えだ……結果が出なければ効率云々以前の問題だものねぇ。過程をどれだけ省略できるかを追求する、それが効率だ。実に、「夜が来ない国」だとか揶揄されている日本らしい思考だよ」
「日本人全員がそういう思考な訳ではないと思いますけどね……」
例えば—例えずとも—英票先生、あなた自身はそういう思考ではないでしょう。
「本当に、この国の精神は根幹から腐っていると思うよ。君はどう思う?」
「どう、と、言われましても……」
「はは、寝起きにこれは難しいかな?」
茶化されているのか、そういう性格なのか。
「……腐っている、とまでは言いませんが、これに慣れてしまっている自分たち社会人は、どこか歪んでいると言うか、その歪みに気付いていないというか……何なんでしょうね……」
「何、とは、まぁ難しいね。歪んでる人間は歪みにさえ気づかない。社会的に、環境的に、歪みに慣れてしまっていると猶更ね」
「どこかで……歪んでないと思っていたいんですよね。ハラスメント、年功序列、マンネリ化した生活、業務、効率重視の取捨選択……完全に工場化してしまった制度の作成から使いまわし、そして撤廃まで。使い捨ての道具をいつまでも使ってしまうような人種だからこそ、その歪んだ風潮に気付けない……歪みなのかも解らない」
「……マンネリ化した生活、ね。それは君自身に対する皮肉として捉えても構わないかな?」
「どうなんでしょうね」
「また曖昧な回答だ。全くもってつまらない……もっとこう、心の底からの本音とか、やりたかったけどできていないこととか、そういう事を表に出せない環境への不満はないのかい? それこそ現代社会人に必要な物だと思うがねぇ」
「やりたい、こと、ですか……」
やりたいこと。
何をしたいんだろうか。
「まぁいい。その回答にも私は興味を向けられる程余裕はなくってね。これから検体の観察なんだ、こんなタイミングで悪いけれど、あとの話は看護師さんにでもしてくれ給え」
足早に、女医は去って行った。
検体と言ったが、精神科にサンプルというものが存在するのか——それこそ自分がそうであるように。
「やりたいことかぁ……」
——『トートロジーシンドローム』には、唯一無二の治療法がある。
「……!」
目を見開き、青年はベッドから飛び降りる。
「なっ、ちょっ、巫さんッ、起きたんならせめてコールして——キャッ!?」
彼らしくない乱雑さで看護婦を払い除け、その足をどんどんと速くさせる。
徐々に、徐々に、徐々に、徐々に、徐々に、徐々に——。
……。
どれだけ走ったんだろう。
途中息切れして走れなくなって、病院着のままだと言うことに気付いて冷静になって、キロメートルとまではいかないぐらいは走ったことにも気付いて、ふらふらと力なく、不安定な歩で、いつもの出社への道に着いた。
「あぁ、あ、あぁ……」
声が出ない。
「にゃ~ん」
猫の、声。
その慣れた道、慣れた風景。
「こんなに暗いのになぁ」
人と人とが軽い会釈を交わし、黒猫が鳴き、烏は電線に留まっている。
「星は……埋もれて見えないや」
ここまで代わり映えがない日常に、最近は異様さすら感じていた。
「こんなに……」
もう飽き飽きしてしまった風景は、今日も変わらず、平和を装っている。
「静かだったんだ……」
こんなにも、何もなさそうな日常。
「本当に、ここに、いろんな人が暮らしてるんだもんな……」
日常の裏では、知らない誰かが知らない誰かを騙し、知らない誰かが知らないのせいで泣き、知らない人の言葉や手によって、知らない人が死んでいる。
「……」
そっか、これでいて、この日常が好きだったんだ。
「…………まだ明るい……」
黄色く焼けた、駅看板。
靴の下敷きの裏に、もしもの時にと千円札を袋に閉じて入れてあった。
おじいちゃんが教えてくれたんだっけ。
切符なんて、久々に買うなぁ。
「……来た……」
近付いてくる。
線路が僕の足元を、末広がりに伸びている。
「何だ……」
近付いてくる。
強すぎる光に遮られ、四角い影しか見えない。
「何か、電車が、近い……?」
近付いてくる?
徐々に、速度を緩めることなく。
徐々に? 徐々、に、自分の目の前へと。
徐々に、徐々に、徐々に、徐々に? 徐々に、徐々に——次の瞬間、視界が揺らいだ。
ダッ、ダッ…………ダッダッダッダッ——タンッ。
「あぁ、そっか——」
限りなく圧縮された時間の中、巫は呟いた。
後悔はしていない。
これしか治療法はない。
死のうと思ったわけじゃない。
ただの自己満足。
周りの人間は、自分が迷惑をかけてしまったと思っていることすら知らない。そんなこと、他人からすればどうでもよいもの。どうでもいいのだ。
もう、どうでも。
そうとも思われてないなら、どうでもいいのなら、こんなちっぽけな、代わり映えの無い、大したものでもない人生だったけど、この位の迷惑で、誰かの脳裏に無理矢理遺るぐらい、いいよね。
「——ずっとこうしたかった!」
グジャッ。
濡れているようで乾いた、温度感の無い、無機質的な音。
一瞬の沈黙から一泊遅れ、駅構内が騒然とした。
走り出す、三分前の彼の居た位置の少し後方に、見知った影。
「やはり死んだか……まぁ素材にしては長く生きたか」
そう呟いたのは、虚ろな目の、白衣の似合わない女医だった。
「黙祷は……要らないか。彼は素材だ…………今までの(・・・・)彼ら、彼女らの様に……」
英票の姿は、人混みに呑まれて消えた。
電車が運転を見合わせたのは、言うまでもない。
4
『下がって! ホームドアから離れて!!』
駅員が声を裏返しながら叫び、腕を振り上げ、飛沫に濡れる線路を写す、スマートフォンの軍勢を遮る。
『都営××線、東××駅で人身事故の為、運転見合わせ。運行復帰まで、最低でも一時間はかかる模様』
当たり前の様に、小さいネットニュースになった。
5
「巫君はいい素材だったねぇ……思っていたよりも細かいデータが採れた」
彼女の勤務する、大学病院の屋上。
「……」
ウィンストン・キャスター・ホワイト・ワン・ボックス——彼女お気に入りの銘柄を一本手に取り、何故かライターではなくチャッカマンで火を灯す。ぶわっ、と、口からうっすらバニラの香る煙を吐き、虚ろな目で十数枚のA4用紙の束へと視線を落とす。
「ふぅーっ……」
空箱となったクリーム色の箱を、ぐしゃりと握り潰した。捩れた空箱と紙の束が乗った腹の高さほどの塀には、吸い殻が幾つも溜まっていた。
「甘い、のかな……? 久しく、と言うか数年は甘味を摂っていないから、解らなくなってしまっているねぇ……私レベルのスモーカーはヘビーって程ではないし、ここまで舌もバカじゃあない。やはり進行していたか——」
英票の肘に掛かるコンビニ袋には、ビタミン剤、乳酸菌錠剤などのサプリメントが所狭しと詰められていた。
「——味覚障害、食欲減衰、視力低下、著しい表情筋の衰え、そして…………はははっ、医者の不養生とはよく言ったものだねぇ……」
書類を纏めていたクリップを外し、白衣のポケットへと仕舞い込む。
「『トートロジーシンドローム』は存在する。これで証明が完了する——やっと……やっとなんだ」
バサッ、と、両腕を振り上げ、手に持っていた百数枚の紙—巫の命を以てして証明が完了した、彼女の人生を狂わせた、『トートロジーシンドローム』の存在事実—を空中へと放り投げる。バラバラと耳障りな音を立てて一枚一枚に分かれていき、煙の様に、高く広く吹雪いていく。
「私の母親を殺した、名前のない病……その存在を証明する為に、私自身が知るために精神科医になった。ここ二年は本当に短かくて、異様に長かった……」
虚ろな、もう映っているものも鮮明でない瞳の先で、一枚の書類が街路樹に引っかかっていた。
『
生年月日:平成11年2月29日(25歳)
住所:東京都××区東×× 〇‐△△‐□‐208
——病名:『反復性追求気質化症候群』
主な症状:・味覚障害
・食欲減衰
・幻覚・幻聴
上記の通り診断します。
診断日:令和6年8月30日』
「おや……いらないものまで……」
偶然にも見えたのだろう。
彼女は不意に、小さく微笑んだ。
「これは……薬さ」
つまらない私の人生の、つまらない日常に終止符を打つための薬。
「少年達には悪い事をした……なんて、思えないな…………ただひたすらに今は、理由はどうあれ、この私を、絶対に、絶対に憎んでほしい……憎んでいてくれ給えよ。その方が楽なんだ」
楽になりたい、楽になりたい。
いつでもそう願っていた。
「少し疲れたねぇ……ははっ……」
再び煙草を含む。
数秒蒸かした後、ふうっ、と、煙の筋を小さな唇から零した。
「憎まれていたい。そうでなきゃ、ここまでした結果とは不釣り合いなんだ。十二人、十二人だ……不釣り合いすぎる……十二人もの検体がなければ、存在すら証明できなかったんだ……憎んでくれ、私を……私を、憎んで…………」
鼻腔を、タールらしからぬ弱い刺激の薄ら甘い香りがくすぐる。しかし、今の彼女がそれに気付ける由もない。
「そっちに往けば、憎んでもらえるのかい……?」
骨張った指が、虚空を掴まんと震える。
「そんな事を言って、突き放さないでくれよ……存外、この仕事は寂しいんだ……未練は……ないと言えばウソになるねぇ」
ふらり、ふらりと、力無く。
「母さん、ずっと一人にしてごめんね……そっちは少し遠いのかな…………大丈夫さ、寝過ごしはしないよ——」
あぁ、違うや。
これで十三人目か——彼女はそう思い遺し、そこから静かに身を投げた。
トートロジーシンドローム 寸刻み @sunkizami
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