第3話
居間に入ると、ラファエルがソファで寛いでいる。
「ルゴーなんて一日中ここにいるわけじゃない、忙しくなんやかんや仕事で走り回ってる奴なのに、初めてうちを訪問した時にあいつと鉢合わせるなんて、君相当運が悪いんじゃないの?」
何となく、初めて会った時から感じていたことだが、仲良くなれなそうなタイプである。
「上官としてお前が諫めてくれ」
「ヤダ。あの子諫めるとものすごい労力使うんだもん。疲れちゃうよ」
女性が入って来た。フェルディナントにも紅茶を淹れてくれる。
「おはようございます。どうぞ」
「アデライード。この方が神聖ローマ帝国軍のフェルディナント将軍だ」
「そうですか。アデライード・ラティヌーと申します」
穏やかに、礼儀正しく会釈をしたアデライードには、フェルディナントも騎士の所作で一礼する。
「朝早く訪問して、大変申し訳ありません」
「いいえ。どうぞ遠慮なさらず、こちらへ」
アデライードがフェルディナントをラファエルの対面のソファに案内する。彼女はすぐに場を外した。
「で? ネーリのことって何かな? 俺は君と世間話する気は無いけど、彼の話なら別だ。
卑怯な言い方するよねえ」
「そういう言い方をされたくないなら、自分の副官の手綱をちゃんと締めるんだな」
フェルディナントは冷たく返す。
ラファエルはソファの肘掛けに頬杖をついた。なんだってネーリはこんな冷血そうな軍人の側にいるんだろう。こいつがネーリを楽しませたり、幸せになんか、とても出来るように思えないけど。
「――お前と喧嘩をしに来たわけじゃない」
溜息をつき、フェルディナントは言った。
「良かった。俺は喧嘩は嫌いだから」
にこ、と笑う。
「城下で警邏隊が何人も殺されている事件が起きていることは……お前も知ってると思うが」
「朝から血腥い話。やだなあ。街の治安はそっちの仕事でしょ? そっちでどうにかしてよ。もしくは仲良しのイアン君も守護職だし、なんか頼み事ならそっちにしてくれる? 俺は戦うことが女の子より大好きな君たちとは根本的に作りが違うんだよ」
「ラファエル・イーシャ」
視線が合った。
「俺を嫌うのは構わない。だがこの話はネーリに関わってるからお前に話してる。大切なことなんだ。我慢して聞いてくれ」
数秒後、ラファエルは溜息をつき、ソファの背もたれに背を重く、預けた。
「いいよ。わかった聞こう。なに?」
「これはいずれ報告書として王宮に上げる話なんだが、今は調査中だから詳しいことは話せない。ヴェネトの有力貴族について、お前に聞きたいことがあるんだ」
「有力貴族?」
「お前は王宮で、そういう人間達ともよく知り合っていると思うが」
緩やかに波打つ金髪を、指で撫でて、ラファエルは足を組み替えた。
「まあ君やイアンよりは、そうだろうね」
「シャルタナ家の人間に会ったことがあるか?」
「シャルタナ……ヴェネトの六大貴族の一人じゃない。知ってるよ。王宮の夜会でよく見る」
そうか、やはりこいつは知ってたのかとフェルディナントはここに来たのは正解だった、と思った。他の人間に聞くと、貴族のことを神聖ローマ帝国の人間が嗅ぎまわっているなどと密告されかねない。ラファエル・イーシャもその可能性が無くはないが、ネーリに関わることだから黙っていてくれと言えば、抑止力になることは確かだった。
「どんな人物だ?」
「どんな人物って……まあヴェネトの公爵位を持つ、実力者だよね。トルチェッロ島の領主の血筋で……ヴェネトは公爵家ってのはすごく少ないんだよ。六大貴族と、あと一つか二つくらいだったはず。あとはほとんど伯爵なんだ。公爵家は王家に申告しないで大型船を造って、港の出入りも自由なんだってさ。船を出航させるのも、公爵以外は申告しなければヴェネトでは許されないの。だから公爵家は少ないんだよ。知ってた?」
知らなかった。そうなのか。
「いや……」
「へえ、知らないんだ。一番大きな違いは多分それだと思うよ。公爵家はつまり、自由に海を行き来できるし、他国との交易も出来る。許されてる。でも彼ら以外は全て、ヴェネト王が決定する国としての方針に従わなければいけない」
「じゃあ、ヴェネトの造船所で船を作ってるのは、公爵家だけってことか?」
「それと王家だね。まあ公爵家に依頼する形で、名義はそっちだけど、船を所有させてもらってる伯爵家とかはあるみたいだけど」
「そうなのか。捜査途上で造船所なんかも調べたんだが、作ってる船の依頼人の名は絶対に教えてもらえなくて」
「そりゃそうだよ。ヴェネトの風習なんだ。作りかけの船の持ち主の名前なんか、言うはずない」
「?」
「昔はね、もっと誰でも気軽に船を作れたらしいんだよ。でもそうなると、利権とか絡んで、作りかけの船が燃やされたり壊されたりする事件がヴェネトでは多発したことがあったんだって。前の王様より、もっと昔の時代のことだよ。だからヴェネトは、造船所では依頼主の名を隠すようになったんだ。作りかけの船が燃やされると造船所も損害を一部負わなければならないから、死活問題なんだよ彼らからすると。だから、船の依頼主を聞かれて、造船所の人間が話すはずがない。彼らは依頼主との間に取り決めをして、暗号や偽名で全てのやり取りをしているんだ。ヴェネト独特の方法でね」
暗号や偽名……。
フェルディナントはふと、尋ねてみる。
「船だけか? 例えば……美術品とかは?」
「美術品? さぁ……まあ美術品は船ほど利権には絡まないと思うけど……ただ交易都市だからね、元々は……今は見る影もないけど。風習として、高額な金銭のやり取りには、そういった方法が取られることはあるのかも。なに? こんな金の話がどうネーリに結びつくわけ? 今のところ殺人事件と金の話で全然ネーリに結びつかない話題ばっかりなんだけど」
あのリスト。
あそこにも、暗号や偽名が隠されているのだろうか?
確か、リストではネーリが美術品を競り落とした、という記録になっていたはずだ。
「その暗号とか、偽名とか……使い古された紋章だとか、言い回しとかなんだろうか」
「まあ造船所や仲介者とかは、昔馴染みの関係だったら、自然と暗黙の了解のようになってるのかもね」
「……そうか。話を戻すが……シャルタナの当主は、どういった人物だ?」
「んー……まあ六大貴族の中じゃいたって普通の貴族って感じかな。国務の大臣努めてる家とかもあるから、それに比べるとシャルタナ家の人間は、あくまでもヴェネトの有力貴族って感じ。政に関わる会議とかでは見たこと無い。見たことあるのは社交界だね。
本拠になるトルチェッロ島ではもうちょっと政治的な意味合いを持ってるのかもしれないけど。王都ヴェネツィアではもっぱら遊んで楽しんでる感じ。でも国庫にも多大な貢献をしてるから、王家との繋がりは強いね。
妃殿下は非常に人間に対して分かりやすい反応をする人だ。
俺はあの人が人間と会う時、どういう顔をするかでどう思ってるのかを確かめるけど、微妙な顔をする人、笑顔で迎える人、会いたくない顔をする人、かなりはっきり分かれる。
彼女の特徴は、人間に会う前に、かなりどういう顔をするか、自分で決めてる節があるところだ。もちろん会って、イメージより悪い印象ではなかったから好きになるとかもあるとは思うけどね」
「確かに、俺とは会った瞬間に嫌いなんだよって顔を見せてたな」
「うん。そお。多分竜を飼ってる国ってのが駄目なんだと思うよ。だって海に浮かぶ孤島にとって、一番の天敵じゃない。空から飛来して襲うなんて。だから、多分君のことは神聖ローマ帝国軍の人間ってだけで嫌ってるから、そんなに気にしないでいいと思うよ。誰が来たって嫌ってただろうからね。城に乗りつけたのが気に食わないって言ってたけど、あの感じじゃ国のどこに竜が降りてても腹立ててたよきっと。竜を置いて来て船できたら、仲良くなれたかもねえ」
「そこまでして仲良くなる必要はない」
ラファエルはくすっと笑った。
「いや、確かに。竜をヴェネトに持ち込んだ時点で、君は上手くやったと思うよ。一度持ち込んじゃえばこっちのもんだし、確かに妃殿下には竜は嫌いだから国に帰せと言える権限はあるけど、君は『贈物』という概念で竜をここに持ち込んだ。様子するに、貴方のものだよ、ってことだから、王妃としては冷遇するだけ損をする。
プライドの高い竜騎兵団が、あの王妃に我々をどのようにでもお使いくださいと遜れるかが問題だったけど、君はそこは軽くクリアしたからね。大したもんだよ。賭けは賭けだけど、城に直接竜で乗り入れたのもいい判断だ。あんなもの礼儀正しく港だとか城下だとか駐屯地とかに竜を置いて来たって、会わずに送り返せと言われるだけだよ。でも君は自分が嫌われてどれだけ罵られるのも覚悟して、竜を直接王宮に乗り入れさせた。そして不興を買って、申し訳ありません贈物の竜でしたのでとその場で竜の存在を認めさせた。まあ最善の策だよね」
フェルディナントは敢えて無言だった。
ラファエル・イーシャはフランスの大貴族で、その背景ただ一つで総司令官になった貴族の坊やだと思っていたが――今の話を聞く限り、彼は神聖ローマ帝国がこの地に竜を持ち込んだ意味を、正しく理解してるようだ。それは少し、意外だった。
「それで嫌われながらも結局王都の守護職を任され、海上だけだが飛行演習も許可された。
僕が国で待つ皇帝陛下なら、今のところ大満足の働きぶりだよね」
「……。それで、シャルタナは……当主のドラクマ・シャルタナは王妃にとってどういう人間だ?」
「仲良し。王と仲が良かったらしいよ。王の学友だし、元気なころはいつも城に来て、狩りやカードもしていたらしい。彼が病床に倒れてからは、妻である王妃を何かにつけて元気づけたり、王妃の名で開かれる夜会や茶会には足しげく通ってずっと友好的な関係だ。
彼が現われると、いつも王妃は笑顔で数分二人で話し込んだりするからね。夫の友達という感じだよ」
「どういうことを話してるか分かったりはしないだろうな」
「あのねえ……イアン君といい君といい、僕は君たちのスパイじゃないんだけどなあ」
笑いながら、頬杖をつき直し、ラファエルは頷く。
「僕は同席も許されることがあるから分かるよ。別に変哲もない、世間話。でも王妃からすると、自分の前でああいう普通の話が出来る人間と言うのは、もはや数少ないんだろう。
シャルタナ公もなかなかの人だ。馬鹿と思われないでも、普通の世間話を三十分ほどして、いい印象を与えて早々に王宮から帰って行く。社交界や王家の人間の扱いを、彼はよく分かってる。服や装飾品もオシャレだよねー。なかなかセンスがいいよ」
「服……?」
そんなもの何の意味がという顔をしたフェルディナントに、ラファエルは呆れる。
これだから軍服を纏っていれば誇らしいみたいな顔をする軍人は嫌いだ。
「あのねえ。君たち軍人にとって、武器や戦術が価値あるものだとする。戦場で役立つものだと。それで言うと貴族にとって身につける服や装飾品が、社交界という戦場で役に立つ真実のものなんだよ。立場が大きく違う人間を理解することは僕にだって難しいことだけど、そう簡単に馬鹿にするもんじゃない」
「別に馬鹿にしたわけじゃない。そういうことは……ちゃんと分かってる。……ネーリに会うまで、俺は確かに画家という人間を、……軽視してたよ。自分が芸術を見る目がないから、それを作り出す者たちも価値がないと、思い込んでた。でも彼の絵を見て、感動したら……世界の見え方が変わったんだ。
ネーリは描きたい絵を描く時、本当に、寝食を忘れて描いてるよ。
命を懸けて、描いてる。
俺は貴族的じゃないけど、貴族にとって服や装飾品が大切だというなら、そうなんだろうと思う」
フェルディナントは見なかったが、ラファエルはその時だけは、いつもフェルディナントを冷淡に眺める青い瞳に、少しだけ優しい表情を見せた。
こんな頑固そうな軍人でさえ、ジィナイース・テラは絵を描く『だけ』で世界を変えてみせた。
(僕もあの子供の日、ジィナイースに会った『だけ』で世界が変わった。だからその気持ちは分かるよ。例えソリの合わない人間のものでもね。
絵を描くこと、
色を愛すること、
美しい景色を好むこと、
その感性が、彼の口から数多くの輝く言葉を生み出すこと……
全てが繋がっているのさ)
その全てが、ジィナイース・テラという人間の魅力だ。
つまり、そのどれか一つに出会った時、すでに全ての彼の魅力に触れている。
強力に結びつき、彼の生き方に浸透したその才能と魅力に触れるから、彼は一目会っただけでも多層的な印象を受ける。
普通の人間の印象はもっと薄い。或いはたった一枚だ。
彼が絵を描き続け、それに必要ないかなる感動も否定せずに、受け入れる人だから、そんな風になっていったのだと思う。
人は普通、何かを憎む。
何かを受け入れられないと思い、
何かを嫌うものだ。
それは万物に共通するものだから、ジィナイースの中にもきっとそう思う瞬間もあるのだと思う。でも彼はそれよりも、愛する気持ちや喜びを描きたい気持ちが圧倒的に強い。
例えば彼の描く絵のように、塗り重ねられ隠れた色は確かに存在するが、それにすら意味を持たせ、大切に扱えば、美しい色合いとなって浮かび上がってくる。
――ラファエルは、聖職者というものをあまり神聖だと思ったことがない。
彼らは人間的な醜さを、あまりに隠そうとするから白々しく見るのだ。
そういうものを隠そうとする気持ちが間違ってるとは言わないが、彼らは「無い人間」になろうとしているから、不自然に映る。
あの世界観だ。
否定をせず、それよりも愛するものや幸せなもので自分の世界を満たす。
ジィナイースの、この十年の孤独を指摘した時、彼は涙を零した。
いつも何かを愛して大切にしている人は、嘆きや弱さでも人の心を打つ。
だから弱さは、持っていてもいいのだ。
全てが悪しき色になるわけじゃない。
ラファエルにとって神聖なものは、清濁併せ呑む豊かさを持つ魂だった。
全ての色を描ける魂。
「……それで……ドラクマ・シャルタナは、では服や、装飾品に拘る男だった?」
「ああ、彼の話ではそういうわけじゃないようだよ。実は彼自身は身を飾ることには、本来無頓着らしい。洒落ているのは妹の方だ。十歳くらい歳の離れた妹がいるらしい」
「レイファ・シャルタナ?」
「うん。そう。その女性だ。彼女は相当、装飾品には目が肥えていて歳の離れた兄の身だしなみには五月蝿いらしい。自分が妻を取らないのは妹が出来過ぎてるせいだと、笑いながら文句を言ってるよ。王妃様もそういう話に笑ってるね。
そんなことを言っても、仲はいい兄妹のようだよ。
どちらも独身だし、裕福だから結婚なんてその気になればいつでも出来るんだろう。
ドラクマ・シャルタナは若い頃に一度結婚していて、すでに息子もいる。妻と別れた後は再婚はせず、気の合う妹がいてどこにでも二人で遊びに行くらしいから、無理に結婚する必要ももうないんだろう。
僕は好きだなあ。そういう生き方も。楽しそうだ。
そんなこと言ってたら僕のことも気に入ってくれたらしくて、夜会でもよく声を掛けてくれるようになったよ。
レイファもとても面白い人だし、審美眼もすごい。
教養があり、溌溂として、魅力的な女性だ。僕は好きだけど、きっと君は苦手なタイプな女性だろうねえ。
彼女は身に付けるものに拘るし、目も相当肥えてる。
金は使うけど、一流のものに散財してるよ。貴族らしい貴族の女性だ。
ああ……彼女が見る目が一流なのは、装飾品だけではない。人を見る目もあるね。と言っても、人間の内情じゃない。彼女が見てるのは人間の表面だ。彼女は人間の容姿に、非常に興味を持ってるらしい」
「人間の容姿?」
「要するに、見目の良さだ。ヴェネツィアにある、彼女の私邸で開かれた夜会に出たことがあるよ。流行をふんだんに取り入れた、彼女が女主人として全てを取り仕切ったとてもいい雰囲気の夜会で、面白かった。屋敷の給仕たちには共通点があってね。みんな若い、見目のいい青年なんだ。彼女が集めてるけど、彼女はそういう青年を集めて、着飾って遊ぶのが好きらしい。
あ。それ悪趣味だなって顔かな?
いいんじゃないかな? 彼女の場合、一流の装飾品も、絵画も、美術品も集めてる。何事にも優れた審美眼を持つ彼女が、人間だけに興味が無いなんて、かえって嘘だよ。彼女は美しいものは何でも好きな人なんだ」
さすがに詳しい話が聞けた。フェルディナントもシャルタナのことは調べたが、ここまで具体的な話と、妹のことは全く知らなかった。
話を聞いた限りだと、兄は凡庸だが、妹の方は非常に独特のようだ。
一瞬、ヴェネツィアの街角で彼女を見かけた時のことを思い出した。
「それで? まだネーリのことを聞いてない」
「……。君はシャルタナと親しいらしいから……余計なことを言いたくはないが」
「別に親しいわけじゃない。真実を聞かせてくれればいいんだよ。あとのことは僕が僕の感性で判断することだ」
確かにな。
フェルディナントは頷いた。
「実は連続殺人事件の捜査途上、ヴェネツィアのある家を調べていたんだが、そこから証拠になり得るものが出た。後日、ネーリとそこを通りかかった時、五分くらい現場を見に行った時、彼を街の方で待たせたんだ。事件のあった場所だから、あまり近寄らせたくなくて」
ラファエルは頷く。
「彼は美しきものを描く画家だ。酷いものを見せたくないという配慮には感謝するよ。まあ当たり前のことではあるんだけれども。それで?」
「実際彼女かどうかは分からないが、ネーリが街で絵を描いてる時、レイファ・シャルタナらしき女性に彼が声を掛けられた。ドラクマが肖像画を描きたがっているから、夜会に来ないかという話だった。正式に招待状をもらった、不審なものじゃない。ネーリはあまり興味を引かれなかったようだから、結局その夜会には行かなかったが」
「ネーリに声を掛けた有力貴族だからどんな奴か知りたかったわけ? 随分口煩いママみたいなことを考えるんだねえ」
ラファエルは呆れた声で言ったが、足を組み替えた。
「……いや違うな。君のことはネーリから多少聞いてたけど、君は軍人めいてる軍人だけど、国じゃ公爵位を持ってる。つまりヴェネトの公爵なんか、気にする身分じゃない」
「そうとは限らないんじゃないか?」
「今、誤魔化しただろ。それに君の剣の腕前は我らがルゴー君も毛嫌いするような神速だ。あっという間に人を殺せるから、金も剣の力も持ってる人間は、単なる貴族なんか恐れる理由はない。君のような人間が一番恐れるのは、目に見えない不穏だ。軍人は民衆の反感を一番嫌う。陰謀や、自分の手に余る、どうにも出来ない不穏な流れ」
フェルディナントは腕を組む。
「イアンは随分お前を軽率な人間だと見てるようだが、案外物事を分かってるな」
「彼は何でもかんでも軽い人間だと思ってるんだよ。脳みそまで筋肉だからねえ。……つまり君がシャルタナを気にする理由は、不穏な流れが彼の周囲にあると知っているからだ。
――そういう人間がネーリに声を掛けたことを気にしてる。
教えてもらえないか? 彼は僕にとって、とても大切な旧友なんだ。折角こうしてヴェネトで再会出来た。変なことに巻き込まれて欲しくない。その気持ちだけは君と同じだ」
「……。」
「僕は王妃側の人間だから信用出来ないかな?」
フェルディナントは立ち上がった。窓辺へと歩いて行く。
「お前が王妃の側にいるから王妃側の人間だというのなら、ヴェネトに来て王妃の下で部下のように働いてる俺だって、神聖ローマ帝国の人間からすれば、竜騎兵の誇りもない腰抜けだろうよ」
「なるほど。そうかもね」
「……ネーリが言ってくれたよ。ヴェネツィアの民衆は、俺たちの仕事を評価してくれてるって。そこにいるのが誰かじゃなく、自分たちにとって何をしてくれたかだと。
ラファエル・イーシャ。
これは、もしかしたらネーリの命に関わることかもしれない。シャルタナのことを今から話すが……城や別のところで彼を見かけても、何もしないでほしい。いいことも悪いこともだ。地の利では、遥かに向こうが俺たちより有利だ。こちらの行動を読まれれば、証拠を消される可能性もある。お前に情報を与えることで、先走って動かれると、非常に困るんだ。そのことで、ネーリに危害が及ぶことになったりしたら、さっきお前の補佐官が死ぬほど心配していた妄想が、現実になるとはっきり忠告しておく」
「いいよ。聞いても動かないってのは僕は最近、わりかし得意なんだ。君と約束をし合うような仲にはなる気はないけど、ネーリの命が関わることに関しては誠実を持って接してあげよう」
「……。ある画廊で、リストを手に入れた。高額の美術品を競売する、オークションのリストだ。購入者の名前が記録されてるが、そこに俺の部下がネーリの名前を見つけて、押収した。リストを押収していたそもそもの理由が、シャルタナに結びつく何かを見つけたかったからだから、偶然発見したものなんだが……。
今このリストに載っている人間たちを調べてる。
ネーリは美術品を購入したことはないと言ってるから、リスト自体がでたらめである可能性を探ったが、載ってる人間の多くが行方不明になっていたり、殺された事件の被害者なんだ」
「そこにネーリの名があったのか?」
さすがにラファエルが眉を顰める。
「……ああ」
「載っていた人間達の素性は?」
「それは……」
「僕はフランス王弟オルレアン公の息子だ。大切な友を危険に晒すような嘘はつかない。」
「……。ヴェネツィア聖教会の、若い修道士も何人か載っている。司祭になる前の修行中のことだから、行方不明になってもあまり追及されなかったようだ。あとは、役者なども多かった。敢えて共通点を上げるなら、若い人間が多い」
「…………。イアン・エルスバトはこの件にどう関わっている?」
「詳細は話していないが、連続殺人事件の調査で、リストに載ってる人間の詳細を、軍の記録から調べてもらってる。国の守護職についてるからな」
「君が今日ここを訪れたのは、シャルタナ公の人となりを聞きに来ただけか?」
「それは話ながら考えようと思っていた。お前が信用出来るなら、一つだけ頼みたいことがある」
「ふぅん。で、どうする?」
フェルディナントは持ってきた鞄から書類を取り出した。
「これが、そのオークションのリストだ。要するに、事件の被害者たちが載っているが、他に何か彼らの共通点があったら探し出したい。名前と一緒に書かれてるのが、彼らが競り落としたと記録されている骨董品や美術品だ。例えば、ネーリの場合は首飾りを競り落としているとなっている。だけど彼はそんなものは買っていないから、もしかしたらその商品に何か意味があるのかも。
日付もあるから、お前には何かこの日付の日に、美術品やオークションで何か特別な取引や出来事が無かったか調べてもらいたいんだ。くれぐれも事件の話は外には出さないでくれ。勘付かれることすら、困る」
ラファエルはしばらく考えた。
紅茶を一口飲み、頷く。
「いいよ。僕は王との謁見が叶い、妃殿下に君たちより信頼されて、最近はこの屋敷にいるより王宮で寝泊まりをしている。私室も与えられているから、その部屋をヴェネトの素晴らしい芸術品で飾りたいから、などと言えば苦もなくヴェネトの美術界の情報は仕入れることが出来る。何が出るかは分からないが、調べてあげるよ。ネーリの為に」
ラファエルが手を差し出したので、フェルディナントはリストを手渡した。
「くれぐれも慎重にやってくれないと困るぞ。俺たちが探られていると悟られるだけでも駄目なんだ」
「僕は夫のいる貴婦人と寝たって、夫に気付かれず仲良く笑い合ってカードも出来る人間だ。こういうことには慣れてる」
「……それはそんなに威張ることじゃないと思うが」
「うるさいなあ。有力貴族ではちょっとした情事なんて遊びと一緒だよ。夜会で会って一曲踊るのと同じさ」
イアンが社交界にネーリを連れ出したら、お前が死ぬまで命を懸けて面倒を見てやれとあんなに怒っていた理由がよく分かった。こんな奴らの巣窟なんだ。それはしっかり見ておいてやらなければならないに決まっている。フェルディナントは溜息をつく。
「お前を信用するぞ。お前がこの件で俺を失望させたら、ネーリは神聖ローマ帝国に即刻連れ帰る。警邏隊殺害事件は先日も起きた。これ以上、こんな危険なことが起きるヴェネトにあいつは置いておけない」
それもいいかもね。ラファエルは思った。
別に神聖ローマ帝国経由で、ネーリをフランスに連れて行くことは容易い。ヴェネトにいると、ネーリに何か悪いことが起きないか心配だという気持ちは、フェルディナントと彼は奇しくも一致した。
「いいよ。ではこの件では協力し合おう」
ラファエルは微笑んだ。
「俺と君が仲良しだ、なんて思われるのは困るから、ここにはもう来ないでくれ。後日このリストはアデライードに、ミラーコリ教会に届けさせる。彼女は僕の異母妹だ。ネーリにも信頼された女性だから、信じていいよ。リストに目を通してからそっちに返す。そうだ、四日後に舞踏会が宮廷で行われるからその時に王宮に顔を出すといい」
「俺はあまり宮廷には」
「大丈夫。その舞踏会は仮面を付けなきゃダメだから、お互い誰だかなんか分かんないよ。
君ならいくら妃殿下に嫌われてても、神聖ローマ帝国総司令官殿。招待状無しで城には入れるだろう? あとは仲のいいイアン君にでも案内してもらって。彼も今は城にいて、暇を持て余してるだろうからね。
舞踏会に来たら、俺が世間知らずな君に、ヴェネトの貴族を紹介してあげよう。シャルタナ公の顔は、君もちゃんと見ておいた方がいい。あれ? それはあれかな? そんな面妖な舞踏会に出たくないなあ、の顔?」
「……よく分かったな」
「分かるよ。だってイアンもこの話出た時『そんな面妖な舞踏会に出るなら死んだ方がマシ』みたいな顔してたもん」
ラファエルが笑っている。
「いいか、ラファエル・イーシャ。これは遊びじゃないぞ」
「分かってるさ。貴族連中というのは、たかが自分が気に入らないくらいで人を殺すこともあるし、自分と同じ血を引いてるだけで、子供だって殺すこともある。遊びじゃないさ」
フェルディナントは険しい顔を見せ「確かにな……」と呟いた。
「夜会では、シャルタナは現われると思うか?」
「毎年やってる華やかな夜会だよ。彼が見逃すはずがない。妹もね」
「……ではどいつかを教えてくれ。顔を一致させておきたい」
「一致って言っても仮面舞踏会では仮面外すの基本的にダメだから見れないと思うけど」
「夜会では、だろ? 城から出た後をつけて確かめる」
「神聖ローマ帝国ってのは公爵位を持っててもよく働くんだねえ。まあいいよ、血腥いことは君たちに任せるし。あと夜会、じゃなくて舞踏会だよ。君って踊れるの?」
「踊れるように見えるのか?」
冷淡に告げると、フェルディナントは歩き出す。
「リストは証拠品だ。決して無くすなよ」
そう告げて、彼は出て行った。
「踊れるように見えるのか? ってそこそんなに威張ることじゃ無いと思うけどなあ」
窓辺に寄り、フェルディナントが馬で颯爽と去って行く姿を見送る。
ヴェネツィアの複雑な曲がり角に彼の姿が消えると、ラファエルは窓辺に腰掛けて、窓ガラスに頭を預けた。
シャルタナ……。
ヴェネトの六大貴族の一人だ。
他にも政に関わる者達はいたので、彼は人畜無害な分類にしていたが、妹のレイファがネーリに声を掛けていたというのは、由々しきことだった。
(ヴェネト王宮はジィナイースにとって悪しき場所だ)
本来は彼はそこにいるべき人間だが、今はそうじゃない。
王妃は彼の命を狙っている。積極的には動かずにいるが、完全に支配下に置くか、そうでなければ命を奪う方がまだいいと考えるだろう。
だからヴェネトの有力貴族がネーリに興味を持つのはまずい。
レイファが王妃に彼の話をすれば、例えそれが茶飲み話だとしても、ネーリが王宮に関わって来るなどと、王妃が誤った印象を受け、一層彼を警戒するかもしれない。
ラファエルはレイファの顔を知っていた。話も何度かしている。美しく若い青年を好む、優雅な独身貴族だ。
(まったく、次から次へと……)
ネーリ・バルネチアの容姿なら、彼女が興味を持つのも無理はない。恐らくネーリは城下町で歩きながら絵を描いているので、そのいずれかの時に彼女が見かけたか、噂を耳に入れたのだろう。街の者に、特別見目のいい青年がいたら教えるよう、金を払っているのだと聞いたことがある。
ネーリは本来王宮にいるべき人間なのに城下にいて、非凡な才能と容姿を持ちながら、一切供回りのようなものも付けず、無防備に、無心でヴェネトの絵を描いている。
ある意味今までが幸運過ぎたのかもしれない。
早くこんな国から彼を連れ出したいよ、とラファエルは溜息をついた。
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