13

 沢渡和史は、崩折れた熊切明美の手からスマホを取り上げた。

 おもしろい仕掛けがあるスマホだった。

 電源ボタンを強く押すとイヤホンジャックに収納された鋭い針が飛び出るようになっている。針が飛び出た状態でもう一度電源ボタンを強く押すと針は自動的に収納される。

 さしずめ「仕込みスマホ」といったところだろう。暗殺用に作られたものなのだろうが、護身用としても役立つに違いない。

 だが影使いの沢渡にとってこんなものを使わなくても暗殺や護身には事足りている。飛び出た針を元に戻し、沢渡はそのスマホを明美の手に握らせてやった。

 沢渡はダイニングキッチンを出ると二階に上がり、寝室へと向かった。

 寝室にはベッドの上に腰掛けている頼子がいた。自らの影が沢渡の影による指示を受けているため、彼女は逃げ出したり大声で騒いだりすることができなくなっていた。化粧崩れを起こし、精神的ストレスに苛まれている頼子はひどく老け込んでいる。

 死にかけた老婆のような頼子のそばで沢渡は着ていた薄紫色のトレーナーを脱ぎ、ベッド脇のクローゼットの中に入れておいたハーフコートやセーター、ズボンなどに着替えた。それから沢渡は恐怖で顔を凍りつかせている頼子をじっと見つめた。

 昨夜、ケーキ屋から出て来た頼子を尾行していた沢渡は、この女に報いを受けさせようという暗い情熱が次第に色褪せてくるのを感じていた。そもそも中学生だった時に味わった恐怖と屈辱は頼子ではなく、彼女の友人であり、学校の内外で悪名を轟かせていた不良少女の熊切明美がもたらしたものだ。またケーキが完食できず、大部分を食べ残してしまったのは自分のせいなのだ。そういった単純な道理に沢渡が気づいたのは冬の夜の冷たい風が彼の頭を冷やしたせいなのかもしれない。

 そんな彼の頭に今度は中内頼子に対する好奇心が湧いて来た。五十代後半とは言え、今でも彼女には中学生だったときの美少女の面影が色濃く残っていた。沢渡はコインパーキングのところで頼子の影に触れ、その体を自分の支配下に置くと同時に彼女の影を覗いた。今どこに住んでいるのか、夫や子供はいるのか、趣味や食べ物の好み、好きな俳優、タレント――好奇心はやがて彼女の性生活にまで及び、沢渡が下世話な妄想に浸り始めたとき、冷めていた暗い情熱が再燃するものを沢渡は見つけてしまった。

 熊切明美だった。沢渡は頼子が今も熊切明美と親密な友人関係にあり、しかもそれが友人以上の関係であることを頼子の影を覗いて知った。そして中学生の時に体育倉庫で熊切明美に脅されたときのことを思い出した。

 恐怖と屈辱が蘇り、消えかけていた暗い情熱が一気に膨れ上がるのを感じた。あの女だ。あの女には是が非でも報いを受けさせなければならない。そう考えた沢渡は頼子を連れて彼女の家に向かった。頼子を餌にして明美を頼子の自宅におびき寄せるつもりだった。

 沢渡の言いなりに動く頼子とともに彼女の自宅へ上がり込んだ沢渡は寝室へ頼子を連れて行くとベッドに座らせ、自分もその傍らに腰を下ろした。頼子には食事もさせてやったし、トイレにも行かせた。ただし、彼女は逃げ出すことも大声で騒ぐこともできなかった。影をあやつることによって人間の動きをコントロールできる沢渡は頼子の影に指示を下していた。トイレと食事以外は何もできないように。

 沢渡は頼子の影を覗き、強姦されるのではないか、殺されるのではないかと気が狂いそうなほど怯えている彼女の心を冷ややかに観察しながら明美にどんな報いを与えようかとあれこれ夜通し考えた。手足の骨を折って肉体的苦痛を与えてやるか。それとも眼の前で頼子を凌辱して精神的ダメージを味わってもらうか。あるいはその両方か。――沢渡の暗い情熱は赤黒い炎となって燃え盛った。

 一夜明け、昼過ぎに明美からメッセージアプリで連絡が入った。その後もメッセージアプリや電話で明美から連絡が入って来たが、頼子からスマホを取り上げていた沢渡はそれらをことごとく無視した。頼子からの応答が無いことで明美を不安にさせ、心配した明美が頼子の自宅まで来るように仕向けようと考えたのだ。明美が来るまで何日でもここに居座って待ってやるつもりだった。

 沢渡は自らの影の形を頼子と同じものに変え、彼女になりすました。そして沢渡の思惑通り心配してやって来た明美の前で、男に凌辱されたという話をした。できるだけ明美を煽り、ショックを与え、苦しむように官能小説なみの臨場感がある表現でこれでもかとばかりに事細かく、その様子を伝えた。それは単なる妄想談だったが、そういう嗜虐的な話をしながら沢渡は明美の影に触れ、彼女の内面を覗いた。明美に精神的ダメージを与え、彼女の内面に生じる怒りや苦悶、困惑を楽しむためだった。

 案の定、明美は頼子が凌辱される話を聞いているうちにその内面に混乱と怒りを充満させていったが、やがてそれらは明確な殺意へと変わっていった。明美の影の中に充満したその殺意は、頼子を凌辱した男に対するものであり、それは闇の中に鋭くそびえ立つ刃物のような白い亀裂として現れ、ギロチンのように高速で落下してくるという動きを伴っていた。

 だが沢渡は違和感を覚えた。

 明美の殺意は頼子を凌辱した男の精神と肉体を徹底的に破壊し、あの世に送ってからも責め苛んでやろうという爆発的かつ妄執的なものではなく、安定した意志に基づく冷静で強固なものだった。明美の影の中を占めている殺意はどこか人間らしさが感じられない冷たく乾いたものだったのである。

 直感的に沢渡は明美が職業的に殺しをおこなっている人間だと悟った。

現に明美の影の表層には彼女が殺し屋であることを裏付けるような感情や思念や記憶が目まぐるしく行き交っていた。その一つ一つを追尾することはできなかったが、それらは今まで明美が奪ってきた人間の命が一つや二つではないことを物語っていた。

 この女は少年時代の自分に恐怖と屈辱を刻みつけ、長じてからは縁もゆかりもない人間を殺すモンスターへと変貌した。この女に与える報いは死がふさわしい。――沢渡は首の骨をへし折って明美を殺そうとした。

 だが、まさに明美の頚椎が破砕されようとしていた寸前に沢渡は気づいた。この女を殺せば不審死、ひいては殺人事件ということで警察が動く。女の裏稼業が明らかになればマスコミやネットが騒ぎ、警察が本腰を入れる大事件となる。警察に追われている自分としては不都合な状況を招来することになりかねない。――首の骨を折るのを急遽中止した沢渡は明美の影に指示を与え、彼女を急激な貧血状態にして一時的に意識を喪失させるだけにとどめておいた。

 目が覚めた明美が警察に駆け込む可能性は低いだろう。脛に傷を持つ身だからだ。問題は中内頼子だが、見知らぬ男に尾行されて金縛りになり、男の意のままに体が勝手に動いたというようなことを合理的に説明する唯一の理屈は夢か幻を見ていたということであり、その理屈によって事件は一件落着するだろう。しかも脛に傷を持つ熊切明美がその理屈に同調することは想像に難くない。

 沢渡はベッドに腰掛けている頼子の影に自分の影を伸ばし、頼子の影を操って彼女を立ち上がらせた。

 悲鳴を上げそうになった彼女を黙らせながら、一緒に階段を降りた。ダイニングキッチンまで頼子を連れて行くと、意識を失って倒れている熊切明美を見た頼子は大きく目を開いた。

 沢渡は頼子に対しておこなっていた影の制御を解除した。明美に駆け寄る頼子の後ろ姿を見届け、沢渡は用心深く後退りしながら玄関に向かった。半狂乱で明美を介抱する頼子の声を聞いた沢渡はドアを開けて外に出る。

 外に出た沢渡はふと立ち止まった。

 このまま何もせずにここから立ち去るのか。

 頼子を凌辱し、明美を殺害すれば少年時代の自分自身の愚かさと二人の女に対する恨みを清算することができたはずだ。特に明美に対しては多少のリスクを承知で殺してしまった方がよかったのではないのか。

 結局、自分は逃げたのかもしれない。だが、いったい何から逃げたというのだろう。あの屈辱と恐怖からもうすでに四十年以上も経ってしまっているのだ。四十年以上も――

 中内頼子の家から外に出た沢渡は電車の駅がある方角に目を向けた。この街から離れてどこか別の街へ逃げるためだった。

 十二月の下旬にも関わらず、夜の空気が生暖い。そんな空気の向こうにイルミネーションが瞬く街並が見えた。

 今夜はクリスマスイブだった。沢渡は気だるい視線を街並みの方に向けながら、駅へ向かって歩き始めた。





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黒いサンタクロース 木田里准斎 @sunset-amusement

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