12
今では父親は自分の娘が嫁いでいくことに寂しさを感じて、あのような行動に出たのかもしれないという可能性を考えるだけの余裕もある。だがあのときの明美にはそんな可能性など微塵も考えられなかったし、たとえそうだとしても父親として決して許されることではないだろう。SNSが一般社会に浸透し、誰もが匿名で「我こそは」と強気な物言いをする昨今、「そんな形でしか娘に対して自分の気持ちを表現することができない父親だった」などとアクロバティックな擁護をする連中もいるだろうが、自分の孤独さや悲しさや悔しさやみじめさの捌け口として女性を、それも自分の娘を利用するなど万死に値する重罪なのだ。
自分はその重罪に対する罰を与えたのだ。今もその思いに変わりはない。警察に逮捕され、殺人事件の被告人となって法廷に立ったとき、弁護士だった野上千代子の父親に説得されて明美は反省や後悔の念を口にしたが、心の底からそう思ったわけではなかった。――
殺してやる。頼子をこんな目に遭わせた男を必ず見つけ出し、殺してやるのだ。重罪を犯した極悪人を処罰しなければならない。野上千代子に協力してもらおう。自分にとって大切な女性が男に人間としての尊厳を踏みにじられたのだ。彼女ならこの気持ちをわかってもらえるだろう。サイドビジネスに関して野上千代子が持っている人脈やネットワーク、ノウハウや資金を使って男を探し出し、報いを受けさせるのだ。
「頼子」
虚ろな目であらぬ方向を見つめている頼子に向かって明美はいたわるように声をかけた。
「お願いだからあたしに教えて頂戴。どんな男だったの? 服装とか顔とか、何か特定できる特徴があれば言ってほしいの。今はとてもそんなことが言える気分じゃないだろうけど」
頼子は明美から視線を外したまま言った。
「この前も言ったでしょ。沢渡くんに似てたわ……」
「沢渡くん? ああ、そう言えばそんなこと言ってたわね。でもそれは雰囲気や印象の話でしょう? どんな色のどんな服を着ていたとか、ヘアスタイルとか身長とか、目や鼻や口がどうだったとか、具体的に教えてほしいの」
「そうねぇ」
不意に頼子は明美を真正面から見据えると言った。
「こんな感じよ」
こちらを見つめる頼子の表情が変わった。
明美はそう感じたが、変わったのは表情ではなく、頼子の顔の造りそのものだった。彼女の細面の顔がまったく面識のない何者かの顔に変じたのである。
よく見るとそれは特徴に乏しい三十代半ばぐらいの男性の顔だった。白髪が混じった頼子のセミロングの髪も黒一色のショートカットに変わっていた。
何が起きたのかわからない。さっきまで明美に話しかけていた頼子が別人に変わっている。しかしそれでも明美が取り乱したり動じたりしなかったのは、彼女が野上千代子のサイドビジネスの実務を長年に渡ってこなし続け、場数を踏んだという一般人とは異なる経験を積んできたからだろう。
身構えながら明美は頼子、いや頼子だったものから後ずさった。
見知らぬ男の顔を持つ頼子は椅子から立ち上がった。明美は反射的にコートのポケットに入れていたスマホに手を伸ばした。
電源ボタンを力いっぱい押し、イヤホンジャックからチタン鋼の針が飛び出たスマホを逆手に持つと、明美はためらわず男の首筋に真横から叩き付けた。
夢中だった。何が起きたのか、何をなすべきかということよりも本能的に体が動いていた。実の父親を手にかけたことによって明美の中で覚醒し、野上千代子のサイドビジネスによって磨かれた本能だった。眼の前にいる得体のしれない存在に対して身の危険を察知した明美はその本能のままに行動した。
だがスマホから突き出たチタン鋼の針は男の首筋には届かず透明な大木に突き刺さったかのように宙で静止した。明美は強引に透明な大木を貫いて男の首筋に針を叩き込もうとしたができなかった。
しかもそのスマホを持つ手を引こうとすることさえもできず、そればかりか明美は体全体が硬直して動かなくなっていることに気づいた。
男の足元には影があった。ダイニングキッチンの床に映っている男の影の肩にあたる箇所に、小さな影の塊があった。
その塊は地を這う爬虫類の輪郭を有していた。尻尾の部分が男の影の肩にあたる箇所と繋がっており、見ようによっては男が肩に小さな爬虫類を乗せているようにも見える。
民家に棲み着くヤモリのようなその影は口から細い舌を伸ばして明美の影に潜り込んでいた。潜り込んだ影が明美の影を制御しており、明美は影を制御されることによって肉体も制御され、呼吸や視線以外、何一つ自らの意思で動かすことができなくなっていたのである。
混乱しながらも明美は状況を把握し、理解し、対処のすべを考えようとした。恐怖は感じていなかった。催眠術か薬物が使用されたのだ。冷静に呼吸を整え、意識をはっきりさせようと努めた。
だがそんな彼女の努力も虚しく、肉体は木偶人形のように動かなかった。そして突然、首の骨に荷重がかかった。激痛が首筋を襲い、意識が遠のいていく。
ろうそくの灯ったケーキが見えた。母親と二人だけで過ごす平穏なクリスマスイブだった。
夫に暴力を振るわれ、メンタルに不調を抱えながらも、母親はクリスマスイブには必ず手料理を作り、ケーキを買ってきて明美に食べさせてくれた。ケーキに植わったろうそくの灯り越しに嬉しそうにこちらを見つめる母親の顔が明美の目の前に浮き上がった。
その顔は意識が完全に消失する直前、唐突に消え去った。
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