11
男は頼子の肉体を凌辱したあと、何も言わずに立ち去った。あまりの不条理さと理不尽さ、男が自分に対しておこなった口にするのもおぞましい行為にショックを受け、明美が訪れるまでずっと放心状態になっていたのだと頼子は言った。
明美は頼子が体の自由を奪われて男の意のままとも思えるような行動を取ったことについての不可解さを感じながらも、それを上回る激しい情念に全身を灼かれていた。
頼子が不憫だった。自分がサイドビジネスで東京へ行ったりしなければ、彼女はこんな目に遭わずに済んだはずなのだ。昨日の夜、頼子といっしょに過ごしていればこんなことにはならなかったのだ。あまつさえ心と体が深く傷ついているにもかかわらず、微に入り細を穿つように自分の身に起こった残酷な出来事を包み隠さず克明に打ち明けた頼子に身を切られるような哀れみを覚えた。
なぜクリスマスイブに自分はいつも忌まわしいことに遭遇しなければならないのか。クリスマスイブが呪われているのか、自分が呪われているのかわからないが、明美は生まれて初めて人間に対する目のくらむような殺意を覚えたときのことを思い出した。
あれは二十二歳のときだった。あの日もクリスマスイブだった。
二十歳のときから勤めていた飲食店の常連客と懇ろになり、その男との結婚話が持ち上がった。相手の男性は普通の真面目なサラリーマンだった。話は順調に進み、一ヶ月後には結婚式を挙げるまでこぎつけた。
クリスマスイブだった。二人で食事をすることになり、自室で明美は着替えていた。メークを済ませ、質素ながらも精一杯のコーディネートで身を包み、コートを羽織って出かけようとした。
台所のある部屋に父親が居た。椅子に腰掛け、食卓の上に乗ったガラスのコップを見つめている。
明美は父親が朝から酒を飲んでいることに気づいた。DV癖もすっかりおさまり、勤めのない休日に病院へ毎週通って入院している妻と面会をするのが習慣になっていた。その日も明美の父親は午前中から病院へ行くことになっていた。
病院へ行くとき、父親はいつも自家用車で出かけていた。それなのに酒を飲んでいては酒気帯び運転になってしまうだろう。電車かバスでも使うつもりなのだろうか。
「ちょっと出かけてくる」
気がかりだったがフィアンセとの待ち合わせに遅れてはいけないと思い、父親に声をかけると部屋の横の廊下を通って玄関へと向かった。テレビの天気予報で今夜は雨か雪が降ると知らされていたので、明美は靴箱の脇においてある傘立てからビニール傘を取った。それからパンプスに足を入れ、ショルダーバッグのストラップを持って外に出ようとしたとき、酒臭いにおいが頬を掠め、後ろから抱きすくめられた。
突然のことで何が起きたのかわからなかったが、相手が父親だということを悟った明美は恐怖で全身が萎えるのを感じた。父親は両腕で抱きすくめた明美の体を引き倒そうとした。不意を突かれたため、明美はバランスを崩して転倒した。傘を落とし、転倒した明美に馬乗りになると、父親は明美の服を乱暴に引き裂き、下着を剥いだ。
父親は五十路間近とは思えないような二十代並みの腕力を持ち合わせていた。それでも明美が悲鳴を上げ、死にものぐるいで抵抗すれば何とかできたかもしれない。だが騒ぎを知って駆けつけた近所の人になんと説明する? 騒ぎが大きくなって婚約者にこのことが知られたらなんと説明する?
小学六年生だったときのおぞましい記憶が蘇った。母親と二人きりで穏やかに過ごすはずだったクリスマスイブ。その大切な日を汚し、破壊した黒いサンタクロース。そして今からその黒いサンタクロースの餌食になろうとしているのは母親ではなくほかならぬ自分自身だった。
DV癖が治ったのも、甲斐甲斐しく病院に通っていたのも、どれも見せかけだったのだ。
そんな父親のうわべの姿を見て明美は父親は生まれ変わったのだと思っていた。ほとんど父親と口を利くことは無かったが、家を出て行こうとか徹底的に拒絶しようとか、そんなことは思わなかった。
しかしそんな自分の勘違いや寛容さがどれほど愚かなことだったかを今ようやく知った。父親は根っからの悪魔だった。女なら実の娘でもその体を蹂躙しようとするケダモノだった。娘が結婚してからもその本性は変わらないだろう。そして自分はそういうケダモノの血を引いている。そんな自分が男を愛し、男に愛され、家庭を持ち、子供を育み――
明美は悲鳴を上げた。悲鳴はやがて咆哮に変わり、明美は父親の体をはねのけて立ち上がると落とした傘を逆手に取り、父親の体を突いた。それでもわめき声を上げながら向かってくる父親に戦慄を覚えてもう一度突き、倒れ込んだところをさらに何回も突いた。
気がついたとき、父親は血溜まりの中で息絶えていた。鋼鉄でできたビニール傘の石突きはへし折れ、フィアンセと食事をするために着飾った明美の服は返り血を浴びて赤く染まっていた。
明美は警察に逮捕され、結婚話は流れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます