中内頼子の住む家はパート先のケーキ屋から私鉄の駅を三つ隔てた閑静な住宅街にあった。一戸建ての二階屋で狭いながらも庭があり、周囲を塀で囲まれている。自宅は数年前に死別した夫のもので、頼子は一人暮らしだった。娘夫婦は関東の方で所帯を持っている。

 夕刻だった。ケーキ屋を出るとき、念のためもう一度電話をしてみたが、やはり留守電だった。ここへ来るまでに頼子から何か連絡が来るのではと僅かな望みを抱いていたが、何も連絡はなかった。

 熊切明美は玄関に続く門に取り付けてあるカメラ付きインターホンのボタンを押した。呼び鈴の音が鳴り、しばらく待つと「はい…」という生気の無い頼子の声が聞こえた。

「あたし。入るわよ」

「どうぞ…」

 いつでも入れるように明美と頼子はお互いの自宅の合鍵を持っていた。明美は門を抜けて玄関まで行くとハンドバッグから合鍵を取り出してドアを開け、中に入った。薄暗い廊下の向こうにダイニングキッチンから漏れている明かりが見える。明美が廊下を通ってそこへ行ってみると、薄紫のトレーナーの上下を着た頼子がテーブルで両手を組み、その上に顎を乗せていた。

「ケーキ屋に行ってみたわ。いったいどうしたの?」

 明美の問いに頼子は無反応だった。虚ろな視線がテーブルの上に置かれたティーカップに注がれていた。カップには半分ほど冷めた紅茶が入っている。室内はエアコンが効いていて暖かかったが、なぜか明美は寒気を覚えた。

 髪は乱れ、メイクもしていない。ふだんは若く見える頼子の顔が年相応どころか十歳以上も老けて見えた。

「何かあったの?」

 明美は頼子の両肩に手をかけ、強引にこちらを向かせるときつく頼子を抱きしめた。そのまま唇を合わせようとすると、頼子は顔を背けて激しく抵抗した。逃げようとする彼女を無理やり押さえ付け、明美は頼子の耳元で囁いた。

「あたしがいるからもう大丈夫よ。言って。何があったの?」

 不意に頼子は顔をひきつらせながら動かなくなった。それから消え入りそうな声で言った。

「来たのよ。が」

「誰よ、って」

 嫌な予感を覚えながらも明美は頼子の言ったことを確認しようとした。

「言ってよ、誰が来たの?」

 頼子は声を震わせながら昨夜のことを話し始めた。――

 その夜、勤めの終わった頼子はケーキ屋を出て自宅へ向かおうとしていた。午後九時になんなんとしていて、いつもならラッシュ時を過ぎた時間帯なのだがクリスマス間近のせいなのか忘年会シーズンだからなのか、夜遅くなるほど電車が込むようになっていた。

 頼子は電車の駅へと急いだ。信号機付きの交差点が見え、歩行者信号の青いランプが点滅している。小走りに横断歩道を渡ろうとしたとき、下半身が妙に粘るような感覚を覚えた。

 大量のチューインガムが足の裏にへばり付いている。そんな感じがして頼子は足元を見た。ブーツを履いた足はびくとも動かず、ブーツが地面にくっついているというよりかは地面からブーツが生えているかのようだった。

 とりあえずブーツを脱ぐために頼子はしゃがもうとしたが、どうしたわけかしゃがむこともできなかった。それどころか下半身全体が動かなくなってしまっている。

 地面から何か物質を硬化させる薬剤が滲み出てそれがブーツから足へ、足から下半身全体へと這い上がってきている。そんな気味の悪い感覚におびえ、悲鳴を上げようとした頼子だったがその薬剤はいつのまにか彼女の上半身にまで這い上がってきているらしく、声を出すことすらできなくなっていた。

 地中深くまで根を張った灌木のように頼子は立ち尽くしていた。そこはコインパーキングのそばで、ゲートから離れた位置だったから良かったようなものの、そうでなければ車の入庫や出庫に差し障りがあり、下手をすれば自動車に轢かれてしまうところだ。

 「最初の入庫から24時間800円」と記された看板の横に誰か立っていた。看板の脇にある照明灯で逆光になっているのでわかりにくかったが、目を凝らすとベージュ色のハーフコートを羽織り、灰色の厚手のセーターと黒いズボンを身に着けた男だということがわかった。

 見覚えのある男だった。昨日、予約無しで十号のホールケーキを買いに来た男だ。どこと言って変哲のない三十代ぐらいの男だったが、伏し目がちな目は弱々しく、声に張りがなく猫背だった。そのくせこちらの顔を窺い、何かを確認するかのようにしていた。

 はるか昔、自分が女子中学生だった頃に沢渡和史というクラスメートが居た。頼子に興味を示し、四六時中、彼女の顔に見とれている初な男子だった。頼子は彼のことを何とも思っていなかったが、冗談交じりに熊切明美に彼のことを話した。

 そのころから頼子は明美が自分のことを単なる友達以上の存在として付き合っていると薄々感づいていた。独占欲が強くて怖いもの知らずのスケバンだった明美がどんな行動に出るか想像はついたが放置した。自分の中に棲む小悪魔に唆されたのだ。

 男の自信なさげで臆病で、それでいて無意識のうちに大胆さを見せるような雰囲気があの沢渡和史に似ていた。コインパーキングの看板の脇に立つその男は現に今も、同じ雰囲気を放っていた。気弱なくせに、それとは裏腹なこだわりの強い目で男は頼子を見つめていた。

 尾行されていたのだろう。ケーキ屋の近くで待ち伏せし、パート勤めを終えた自分が出て来るのを待っていたのだ。不意に頼子は恐怖を覚えた。身動きができない今、もしあの男に何かされたらどうしよう。

 年齢が五十代後半でも安心はできない。最近の若い男は熟女が主役のアダルトビデオを好んで見るという話を聞いたことがある。明美といっしょに炉端焼きの店へ行ったとき、近くの席で酒を飲んでいた若いサラリーマンの男たち数人が酔眼をギラギラさせながらそういう話をしていた。オバサン二人が仲良く酒を楽しんでいるのを見てからかいたくなったのだろう。品性下劣な連中だった。

 唐突に男は看板のそばを離れると、交差点へ向かって歩き出した。

 頼子は悲鳴を上げようとした。さっきまで地面に根っこを張っているかのように動かなかった足がいきなり前へ進み始めたのだ。自分の意志とは無関係に動く足に頼子は化け物じみたものを感じた。

 足は男のあとを追って横断歩道を渡った。交差点の歩行者信号はちょうど青だった。男と付かず離れずの距離を保ちながら、男に引きずられるようにして歩いていた頼子は街灯の明かりによって地面に映った自分の影を見た。

 彼女の影には男の影が寄り添い、繋がっていた。四足歩行の生き物を連想させる不気味な形をした男の影は、頭部にあたる部分から舌のような細い影を伸ばしていた。男の影と頼子の影はその細い影で繋がっていた。

 まるで獲物を捕らえたカメレオンの舌のようだった。――





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