「ほんま、ワシも困ってるねん」

 ケーキ屋の店主はショーケースの向こうから不機嫌そうに言った。そばには店主の女房なのか急遽雇ったパート店員なのか、白いベレー帽とコックコートで身を固めた中年女性がぎこちない仕草でケーキの箱詰め作業をおこなっている。

「今日はクリスマスイブやで。一番忙しい時や。そんなときに無断欠勤やなんて殺生な話やがな」

 昨日、頼子は通常通り出勤していたらしい。ところが今朝、店の始業時刻になっても姿を見せず、ケータイや自宅の固定電話に連絡を入れても電話に出ないのだという。

 明美より少し年上の店主はジロジロと無遠慮に彼女の方を見た。その視線に少なからず好色なものが滲んでいるのを感じた明美は無言でケーキ屋をあとにした。

 相手がもっと若い二十代ぐらいの女性なら、貧相なプライドや世の流れを気にして絶対にあんな目つきはしないだろう。自分と同年代の年増だからと見下し、スクラップ置き場から砂金を漁るような感覚でわずかに残った色香を楽しもうとしていたに違いない。

 不潔な目をしただった。一応、調理師か食品衛生責任者の資格を持っているパティシエなのだろうが、あんな目つきをする男が作るケーキを食べたらたちどころに腹を下してしまいそうだ。サイドビジネスのターゲットにしてやろうかと思った。

 何か只事ではないようなことが頼子の身の上に起こったような気がした。頼子の自宅へ行ってみようと思い、明美はタクシーを拾った。

 頼子のことが心配だったが、なぜかタクシーに乗ってからもさっきのケーキ屋の店主のおぞましい視線の記憶が頭にこびりついて離れなかった。それはやがて明美の脳裏に押し込んでいた忌まわしい記憶を蘇らせることになった。あれは小学六年生だったころ、クリスマスイブの夜だった。

 眠っていた明美は物音で目を覚ました。明美の家は平屋ではあるものの一戸建ての住まいだった。そして一応、四畳半ほどの部屋が一人娘の明美のためにあてがわれていて、明美はそこで寝起きをするようになっていた。

 日常的に家族に暴力を振るうような父親がいる家庭ではあったものの、クリスマスの朝には必ずプレゼントが枕元に置かれていた。もっともそれはいつも母親が気を利かせて置いてやっているものだったが、明美はサンタクロースという優しいおじさんが本当にいるのだと信じ込んでいた。サンタクロースの正体などとっくにわかっているはずの年頃だったが、父親の存在が恐怖と邪悪さの象徴でしかなかった明美は本気でそう信じ込んでいた。

 自分の家にサンタクロースが来たのだ。絶対に子供には姿を見せないサンタのおじさんに会えるかもしれない。寒いのを我慢して布団から出た明美は襖戸を静かに開け、音がする方へ忍び足で向かった。サンタのおじさんが気づいて逃げられると困るからだった。

 音は台所のある部屋の方から聞こえた。部屋を出て廊下を挟んだすぐそばにその部屋があり、部屋と廊下を隔てるものは何も無い。天井からぶら下がっている蛍光灯のナツメ球の明かりと部屋の隅っこに置いてある電気ストーブの光のせいで赤く染まった部屋の様子がぼんやりと見て取れた。流し台のそばに安っぽい木製の食卓があり、そこに黒くて大きなものがかぶさっていて食卓のきしむ音と細いうめき声が規則的に聞こえてきた。明美が目を覚ますきっかけとなった音の正体はそれだった。

 よく見ると黒いものの下に花柄を散らした白いものが見える。母親が寝る時に着ているパジャマの柄だ。白いパジャマの上にかぶさっているのは黒っぽいスーツを着た男だった。

 男は明美の父親だった。その下にいるのが自分の母親だということは明美にも容易に想像できたが、その不条理な光景に彼女は全身から血の気が引くのを覚えた。DVを繰り返す父親がいる家庭という生活環境が常態化していながらも、そのとき明美が感じた混乱は筆舌に尽くしがたい物があった。足元の床が崩れて地の底に呑み込まれそうな不安定感が彼女を包んでいた。

 残業があるのか会社の飲み会に参加するのかわからないが、クリスマスイブの夜、父親はいつも不在だった。そのためイブの夜に一家三人で食事をしたりケーキを食べたりしたことなど一度もなかった。だが明美はむしろ母親と二人だけで過ごす平穏なイブの夜が楽しかった。

 そんな静かであるべきイブの夜に明美は母親が父親に背後から抑え込まれ、苦しそうな声を上げている姿を目にした。二人とも腰から下が露わになっていて、食卓の下にはクリスマスプレゼントと思しき赤い包み紙の箱が無造作に転がっている。

 寒さとは別の震えが全身から湧いてきた明美は来たときと同じように忍び足で自分の部屋に戻った。眠ることなどできず、夜明け頃にようやくウトウトし始めた。

 翌朝、目を覚ました明美は食卓の下に転がっていた赤い包み紙の箱が枕元にひっそりと置かれていることに気づいた。その赤い箱を見たときから明美はサンタクロースなどいないということを悟った。もしいるとしたらそれは平穏な夜を地獄に変える黒いスーツ姿のサンタクロースだった。

 それからの明美は父親を始めとする男性全般に対して敵意を抱くようになった。中学生となり、体も心も成長し、あのイブの夜に両親が何をしていたかを知るようになった明美は、自分に対してときおり父親が向けてくる視線に強烈な憎悪と嫌悪を感じた。父親が台所の部屋で母親に対してやっていたようなことを自分にもやろうとしているのだと思った彼女は荒れた。不良の構成要件となるようなことを一通りこなし、暴力によって相手を屈服させる癖がついた。

 そんな明美に対して両親は距離を置くようになった。今までさんざん暴力を振るっていた父親も実の娘の荒れ具合を見て指一本触れようとしなくなったが、明美にとっては物足りなかった。何か仕掛けてきたら渡りに船とばかりに今までの礼を利子付きで返し、片輪にしてやろうと思っていたのだ。

 暴力が父親の虐待に対する抑止力として有効だと気づいた明美は綺麗事などクソ喰らえと、これみよがしに武勇談を積み重ねていった。その派生効果で父親は母親にも手を上げることがなくなったが、荒れに荒れる明美の姿を悲しんだ母親は病んでいた精神の状態がなおさらひどくなり、やがて精神科の病院に入院することとなった。

 そうなると明美もさすがに限度というものを意識し始めた。中学を卒業後は親戚が経営する飲食店で働くようになり、少しずつではあるが素行も性格も穏やかになりつつあった。父親との間には依然として大きな溝があったが、父親が自分を見る目に何の下心も無いのだということを認めるだけの余裕が生じていた。父親も以前のように暴力を振るうことはなくなり、毎週のように入院中の妻の見舞いへ行く父親の姿を見ているうちに、父親の視線に対して感じていた禍々しさは自分の勘違いだったのだろうと思うようになったのである。

 飲食店で働いていた明美は二十歳になった。常連客の中に彼女に交際を申し出る若い男性が現れ、ぎこちないながらも明美はその男性と付き合い始めた。交際は順調に進み、結婚話も持ち上がった。

 だが、結局その結婚話は実を結ばなかった。クリスマスイブの日、再びあの黒いサンタクロースが現れたのである。





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