東京へ出張した熊切明美は夜半過ぎに仕事を済ませ、大阪市内の自宅のマンションに昼ごろ戻って来た。

 中内頼子にメッセージアプリで連絡した。「今夜会えない?」というメッセージを入れるとすぐに既読が付いたが、返事はなかった。

 今日はクリスマスイブだったことを明美は思い出した。ケーキ屋の仕事がよほど忙しいのだろう。

 土曜日だったので会社には出勤する必要がなかった。もっとも、明美がサイドビジネスの実務を完了したあとは、いつも丸一日休暇を取っていいことになっていた。

 テレビのスイッチを入れた。土曜の午後、しかも二時前という中途半端な時間帯でNHKのニュース番組も流れていない。明美はスマホのブラウザアプリでポータルサイトを閲覧した。

 そのニュースは速報扱いになっていた。匿名掲示板の元管理人で実業家の男性が東京都内のタワーマンションの自室で遺体となって発見された。男性は四十歳で実業家としての顔の他にネットやテレビ、ラジオにおいてタレント活動をおこない、飄々とした雰囲気で人気の高い毒舌コメンテーターとしても知られていた。

 遺体の損傷がひどいためDNA鑑定による確認が必要だが、身に着けていた服装や持ち物、発見された場所からこのタワーマンションの一室を事務所代わりに使っている実業家にほぼ間違いないとのことだった。

 警察は他殺とみて捜査をおこなっているが、セキュリティの厳重なタワーマンションで犯人がどうやって被害者を殺害し逃走したかは、まだ現時点では目撃者も遺留品も見つかっていないため、皆目わからないらしい。

 明美はブラウザを閉じた。はずだった。野上千代子は明美が頼んだ通りに段取りを整えてくれていたし、自分もミスはしなかった。

 あのタワーマンションには玄関とエレベーターと住戸の三か所に渡ってオートロックが備わっている。来客はコンシェルジュから借り受けたカードキーがなければそれらのロックを解除できないようになっていた。建物内には要所要所に防犯カメラがあり、もちろんエレベーター内にも防犯カメラはある。

 「納期」に余裕があればタワーマンションの清掃担当員、あるいはマンション内にあるラウンジや喫茶店の従業員として潜り込むつもりだったが、時間がなかったので「正面突破」をせざるを得なかった。

 野上千代子は海外のハッカー集団とコンタクトを取り、日本国内のセキュリティシステムへ恒常的に不正アクセスをおこなっているハッカーを雇った。そして高額の報酬と引き換えにターゲットの住むタワーマンションのセキュリティシステムを乗っ取らせたのである。

 さらに野上千代子はマンションの出入口やエレベーター、各住戸に自由に出入りができるマスターキーのようなカードキーをハッカーに偽造させ、明美に渡した。そのカードキーを使ってコンシェルジュが居ない深夜、マンションにまんまと侵入した明美はターゲットの男の部屋に忍び込み、酔って帰宅したその男を襲った。

 普段は用心深い実業家の男は忘年会で飲んだ日本酒とビールのチャンポンによって強かに酔い、常に人から恨みを買うような言葉を発しているという自覚に基づいたいつもの警戒心がゆるくなっていた。キッチンの食器棚の陰に隠れていた明美はミネラルウォーターを飲もうとして冷蔵庫を開けた実業家の背後から忍び寄り、スマホを振り上げた。

 スマホのイヤホンジャックは仕込み針になっており、そこから飛び出たチタン鋼の細い針が実業家の男の延髄に食い込み、男は即死した。それから明美はキッチンにある色々な道具を使い、眼球をくり抜き舌を切断し鼻と耳を削ぎ落としたあと、男の部屋を出てタワーマンションから立ち去った。

 明美の一連の行動はタワーマンションのセキュリティシステムに記録されるはずだったが、明美の行動と同時進行で野上千代子の雇ったハッカーがダミーのデータを上書きしていた。そのため明美の存在は記録には一切残らなかったばかりか、マンションに入ってからも防犯カメラの映像を監視しているハッカーが明美にスマホを通じて指示を与え、人目に晒されない安全な動線上に彼女を誘導した。このようにして明美は誰にも見咎められることなく、任務を遂行することができたのである。

 野上千代子には仕事の直後にメッセージアプリで連絡を入れていたが、明美はポータルサイトのニュースを見てもう一度、野上千代子に連絡を入れた。笑顔の絵文字とともに「お疲れさま」という返信が来た。

 今回の仕事は千代子本人からの依頼だった。ビジネスではなく、有り体に言えば彼女の私怨を晴らすためである。それもあの男の言動が気に食わないという極めて感情的なものだった。

 事あるごとに女性は無能だの頭が悪いだのと吹聴し、ジェンダーフリーの知識人を攻撃してぐうの音も出ないほどにやり込め、ミソジニスト女嫌いたちの称賛を浴びるあの男に対して明美も激しい不快感を覚えていた。しかし殺してやりたいと思うほどではなかった。

 野上千代子は筋金入りのミサンドリスト男嫌いだった。結婚する前はそれほどでもなかったが、二年で終わった結婚生活が彼女を変えたのである。明美も千代子に負けないほどのミサンドリストだったが、彼女が殺意を覚えるほど憎悪するのは言葉で女性を愚弄する男ではなく、肉体的暴力によって女性を蹂躙する男だった。千代子の父親に弁護を引き受けてもらうようなことになったのも、そういう男を手にかけたからだった。

 野上千代子とは長く深い付き合いだが、「気に食わない」という理由だけで人を殺めるという彼女の心理に明美はあらためて底知れない恐ろしさを感じた。千代子がこんなふうに個人的で感情的で短絡的な理由で明美に仕事をさせるというのはこれまでに無かったことだった。

 沈着冷静な経営者である彼女にも老いが訪れたのかもしれない。これ以上、彼女と一蓮托生の関係でいるといずれ何か深刻な破滅的結末を迎えるような気がする。

 野上千代子とはもう縁を切るべきなのだ。やはり今が辞め時なのだろう。だが辞めるとしたら頼子の身の安全も考えてやらなければならない。頼子は明美のサイドビジネスのことや野上千代子の裏の顔をまったく知らないのだ。

 明美はスマホに目をやった。依然としてメッセージアプリに頼子からの返信は無い。電話をかけてみたが留守電に繋がった。

 時刻は午後二時過ぎ。ケーキ屋の閉店時間まで六時間近くあるが、妙な胸騒ぎを覚えた明美はケーキ屋まで行ってみることにした。





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