泊まっているビジネスホテルの一室にケーキを持ち帰り、自分一人きりになった沢渡和史は、室内の床に映っている自分の影に目を向けた。

 その影を見つめながら、沢渡は意識の重心を影の方に移動させた。

 俺が影を動かしてるんじゃない。影が俺を動かしてるんだ――

 そんなふうに思うと同時に、沢渡は全身が痺れていくのを感じた。肉体が他人のものになっていくような生暖かい触感が体の隅々にまで行き渡り、同時に足元の影が頼り無げに蠢いた。影はやがて大きな生き物の形を整えた。床に這う黒いヤモリだった。

 いったん像を結んだヤモリの影は再び揺らめき始め、今度はヤモリから人間の形へと変わった。五十代後半の中年男の影だった。その影に倣って沢渡の肉体も変化を遂げる。ナチュラルヘアの髪は毛根へ向かって減退して禿げていき、顔には年相応のシワやたるみが生じた。

 地味で目立たないながらも三十代半ばの若さを保っていた男は、あと三、四年もすれば還暦を迎える中年男性へと変貌した。顔立ちも面長で表情に乏しい感じだったものが、頭が大きくて顎の尖った神経質そうな印象に変わった。

 沢渡は影使いだった。

 影の形を変えることによって自分の肉体をその影の主と同じものに変えることができるのである。警察から追われている逃亡者の彼はそうすることによって追跡から逃れていた。

 さっきまでの三十代の男性の肉体は動画投稿サイトにアップされているミュージックビデオに出演していたエキストラ俳優のものだった。ビデオの演出効果として、その俳優の影が鮮明に映っていたので、自らの影をその影と同じ形に変え、その俳優と同じ顔貌と肉体を手に入れたのである。特徴に乏しい顔の男だったので逃亡生活にはちょうどいいと思い、その男を選んだ。

 影の形を変えることによって変化するのは肉体だけだった。服装や持ち物までは変わらない。そのため沢渡は洋服店へ行くと、その年代や容姿に相応しい服を選んで着替えた。

 そうやって他人になりすましていた沢渡は、中内頼子が勤めているケーキ屋でケーキを購入すると泊まっていたビジネスホテルに帰り、影の形を自分本来のものに戻した。そうすることによって顔貌と肉体も本来の自分のものに戻したのである。

 影がヤモリの形に変わったのは、彼がそういった影使いとしての力を発揮する時に特有の現象だった。

 部屋に設えてある姿見を覗いた沢渡は、頭部の両側はフサフサとしているのに、中央部の地肌が露わになっているのを見て、まるで農夫や残党狩りに追われる落ち武者のようだと思った。体も猫背で姿勢が悪く、三十代男性が着るような衣服とのギャップのせいで、なおさらみすぼらしさが目立った。

 だが、これが本来の自分の姿だった。来年で五十七歳になる自分の姿なのだ。

 さっきの三十代の俳優の姿のままでずっといようかと思う時がある。その方が肉体的にも精神的にも活動的で、体中にエネルギーが満ち溢れているから、むしろもっと若くてもいいだろうとさえ思う。

 だが逃亡生活を続けている以上、実際の年齢との食い違いが言動や身のこなしに現れるとまずい。せいぜい三十代半ばというのが不自然に思われないためのギリギリのラインだと自分では思っていた。もっとも、時が経てばいずれ三十代半ばの姿でも言動に不自然なものが生じてくるようになるかもしれない。

 沢渡はテーブルに置いたケーキの箱からケーキを取り出し、コンビニで弁当を買う時に貰った割り箸を使ってケーキを食べ始めた。

 少年時代からの取るに足らない夢が叶う瞬間だった。箸でケーキを食べるのは結構むずかしかったが沢渡は食べ続けた。だが箸の扱いよりも、むしろ食欲の限界が沢渡を苦しめた。

 十号ぐらいのかなり大きなホールケーキだった。パーティーかイベント用に作ってあったものがキャンセルになったのだとケーキ屋の店員の中内頼子は言った。沢渡が予約無しで手に入れることができたのはそのせいだった。

 沢渡の記憶の中にあるヒーローが食べていたものもそのぐらいの大きさだった。ヒーローも全部食べきれずに半分ぐらいは残していたようだったが、沢渡は三分の一ぐらい食べたところでギブアップしてしまった。

 元の姿に戻ったせいかもしれない――沢渡はそう思った。何もわざわざ五十代後半という元々の年齢に戻らなくても良かっただろう。三十代半ばの男性の胃袋でも、その大きさのホールケーキを完食するのは無理だったかもしれないが、七割ぐらいは食えただろう。少なくともあのヒーローと同様に半分は食べきることができたはずだ。

 直径三十センチもあるホールケーキをたった一人で箸を使って食べるなど、傍から見れば実に馬鹿げたことだった。しかも沢渡は、五十代後半という自分本来の年齢に戻ってその馬鹿げたことをおこなおうとした。そういったどうでもいいことにこだわるという妙な癖が沢渡にはあった。

 小さなビジネスホテルの一室でテーブルの上に乗ったケーキの残骸を見ているうちに、後悔の念がひしひしとこみ上げてきた。食べ物に対する罪悪感を伴ったその後悔は、やがてやり場のない苛立ちへと変容した。自らの愚かさが招いた失敗から目を背けようとしたが、幼い頃から親に言い聞かされて身に染み付いていた「食べ物を粗末にするな」という訓戒が容赦なく沢渡を責め立てていた。

 こんなことになったのは自分のせいだ。だが直径三十センチもあるケーキを食べ切れるかどうか確認もせずに売ったケーキ屋もどうかと思う。そんな身勝手な理屈で自分を納得させようと思ったが、沢渡の苛立ちは治まらなかった。

 中内頼子の笑い声が聞こえたような気がした。こんなに大きなケーキを一人で食べられるわけ無いじゃん。沢渡君っていくつになってもお馬鹿さんなのね――

 教室で彼女の顔に見とれていたとき、まともに目が合ったことがある。何度も中内頼子の顔に視線を向けていたので相手も感づいていたようだった。何かを飲みくだすような仕草をしてから中内頼子はクスクスと笑い始めた。そのときはなんとも思わなかったが、あとから猛然と恥ずかしくなった。

 そのあとだった。体育倉庫に呼び出されて熊切明美から脅し文句を聞かされたのは。熊切明美が中内頼子と友人同士だということは知っていたが、中内頼子の顔に見とれていた自分に脅しをかけてそれをやめさせようとするとは夢にも思っていなかった。

 恐怖と屈辱が彼の心にトラウマを刻みつけ、それっきり中内頼子の方に視線を向けることはなくなった。そしてそれ以来、彼の内面に女性への盲目的な畏怖と不信感が居座ったのである。女性恐怖症になったわけではないが、女性とコミュニケーションを交わすことが著しく苦手になってしまった。

 女性が自分と同じ人間であると心底思えるようになったのは、成人して社会人になった沢渡が妻となる女性と出会ってからのことだった。

 ケーキを食べきれなかったという後悔の念が長年にわたって封印していた恐怖と屈辱を蘇らせた。自分がそうなったのは中内頼子のせいなのだ。そしてケーキを食べ残してしまったのも彼女のせいなのだ。そんな一方的な思い込みによって、沢渡は食べ物を粗末にしてしまった自己嫌悪を無意識のうちに塗り潰した。

 中内頼子に報いを受けさせなければならない――

 沢渡の中に暗い情熱がたぎり始めた。





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