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どの案件についても入念な準備が必要だが、今回の案件は納期までの時間が短いのでそのぶん準備に手間がかかる。また情報量についてもクリアファイルに入っていた資料だけでは不十分だった。熊切明美は追加の準備作業や情報収集について野上千代子と念入りに打ち合わせをした。そのため打ち合わせが終わったのは日付が変わる少し前だった。
なぜか激しい疲れを感じた。もう辞め時だろうかと思った。野上から請けるサイドビジネスのことだった。認めたくないことだが、自分ももう歳だ。更年期は通り過ぎたが、あと数年もすれば還暦だった。サイドビジネスに差し障りが出るだろうし、残された人生のストックを有意義に使いたいという思いもある。
一度だけ野上千代子に引退をほのめかしたことがある。五十歳を間近にひかえた頃だった。もし自分が辞めてしまったら何か差し障りがあるだろうかと遠回しに訊いてみた。千代子は軽く小首をかしげながらうろたえる様子もなく、かと言って突き放すわけでもないような口ぶりで「そうね。あなたが辞めたいというのなら仕方ないわね。後任を探すわよ」と微笑んだ。
ハードルは低かった。だがそのハードルを越えた先に深い落とし穴や鋭いトラバサミがある可能性を考えないほど明美は愚かではなかった。
「池上商店」というのは野上千代子が営んでいるサイドビジネスの符牒だった。それも軽々しく口にできるような類の符牒ではなく、そんな符牒を使わなければならないようなサイドビジネスの後任が最初に手掛ける仕事は、いろいろと知り過ぎている前任者の口封じとなる可能性が高い。それがよくわかっているからこそ、明美は辞めるとか引退とかいう言葉は自分の方からは口が裂けても言わないように心がけていた。
このまま年齢を重ねて自ずと辞めざるを得ないようになるのを待つしか無かった。それがもっとも安全な方法だろう。その頃には野上千代子自身も引退を考えざるを得ないはずだ。
二人ともほぼ同い年だった。三十年ほど前、刑事事件の被告人となった明美の弁護を千代子の父親が担当した。千代子の父親は弁護士で、明美が女子刑務所を出所後、明美が就職するときの身元保証人になった。それが縁となり、明美はパラリーガルとして父親の事務所で働いていた千代子と出会ったのだった。
その後、千代子は父親が病死したのをきっかけに弁護士事務所を閉め、小さな貿易会社を興した。それと同時に千代子は出所して町工場で勤めていた明美に声をかけ、自分の会社の社員にした。
野上千代子の会社は輸入雑貨を取り扱っていた。インテリア小物や文房具をはじめとして食器や家電品、小さな家具や食品、飲料品など、その商品構成は多岐にわたっていた。しかもそれらの商品以外に千代子の会社は法的にグレーゾーン、場合によっては明らかにブラックなものも扱っていた。
そんな会社の経理係として働いていた明美は、千代子のビジネスに反社会的な性質を持った裏の顔があるということを薄々感づいていたが、それを然るべきところへ通報しようという気にはならなかった。本質的に千代子と気脈を通じるところがあったのだろう。いつのまにか明美は阿吽の呼吸でそういった千代子の裏の顔に慣れ親しんでいき、やがて経理以外にも会社がおこなっているサイドビジネスの実務担当としての顔を持つようになった。
その実務には特殊な技能と才能が必要だった。野上千代子はその技能を習得させるために明美を東南アジアに在住する経験者のもとへ向かわせた。そこで明美は一年かかって身に付くものをわずか半年で習得した。
野上千代子は自分の目に狂いはなかったと確信した。技能は学べば身に付くものだが才能はそうはいかない。彼女のサイドビジネスにおいて明美はその才能を遺憾なく発揮した。仕事もきれいだった。
二人はこうして一蓮托生となった。とはいえ明美は千代子に対して一定の距離を置くことを常に忘れてはいなかった。
千代子の人脈や金脈には何か得体のしれないところがある。なぜそんな人間と付き合いがあるのだろうかとか、そんな情報をどこでどうやって手に入れたのだろうかとか、どこからそんな大金を調達したのだろうかとか驚愕するようなことが何度もあった。
彼女のサイドビジネスの実務担当者である自分の方が幼気な子供に思えるほど、野上千代子には底しれない恐ろしさがある。致死性のある猛毒の牙を持った羊のような不気味さだった。
だからこそ迂闊に引退話を切り出すことはできない。野上千代子が中内頼子という女性の存在やその女性と自分との関係を知っていたとしたら場合によっては自分ばかりか頼子にまで危険が及ぶだろう。
野上の会社が入居しているビルを出た明美は底冷えのする深夜の街を歩いた。繁華街に近い場所でしかもクリスマスシーズンだったので、十二時を過ぎても人の行き来が多かった。
毎年この時期になると街は賑やかになり、テレビやラジオやネットはサンタクロースやクリスマスツリーの独壇場になる。だが自分にとってこの時期に感じるのは常に忌まわしさだった。もうじき六十路を迎えようとする今でもそれは変わらない。
どうしても頼子に会いたくなった。メッセージアプリではなく、直接電話をかけることにした明美はスマホを取り出した。
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