熊切明美が勤め先の社長から東京への出張を命じられたのは十日前のことだった。

 終業時刻になり、デスクトップパソコンの電源を切った熊切明美は帰り支度を始めた。経理の仕事なのでほとんど定時で終わる。ごくまれに五十日ごとびの前後に残業があるぐらいだった。

 今夜も中内頼子と会うつもりだった。巷は早くもクリスマスシーズンの喧騒で溢れていた。このところ連日連夜、頼子と会って肌を合わせている。巷に溢れている喧騒のせいだった。

 喧騒に同調するからではない。喧騒から逃げるためだった。頼子を抱き、その官能の中に没頭することでクリスマスにまつわる喧騒から逃れることができるからだった。

 頼子とは小学校高学年のころからの親友だった。二人とも平凡なサラリーマン家庭に生まれたが、頼子が至極真っ当な両親に育てられたのに対して、明美の親ガチャは「はずれ」だった。

 父親はおとなしくて気弱だという外面そとづらとは裏腹にDVが止まない二重人格者だった。何か気に食わないことがあれば怒りに任せて妻を殴り、蹴り倒した。その暴力の矛先は明美に向かうこともしばしばだった。父親の逆鱗や導火線の位置がわかれば、あらかじめ怒らせないように気をつけることもできただろうが、家庭では無口で感情を表に出さず、いつどこで何がきっかけで沸点に達するかわからない。母親はメンタルに不調をきたし、明美は学校へ行っている間以外は常におびえて暮らすようになった。

 そんな彼女が小学五年生のとき、クラスメートの中内頼子と席が隣り合わせになった。平凡ながら真っ当な家庭に生まれたクラス一の美少女と父親の暴力に怯える陰気で地味な女子児童はなぜか意気投合し、親友同士になった。

 そしてその友情は時を経てお互いの体の隅々まで知り尽くすような仲にまで発展した。その関係は頼子が男と結婚してからも続いていた。

 デスクの上の書類を片付け、更衣室へ向かおうとした明美に社長の野上千代子が声をかけた。

「池上商店さんあての請求書についてちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 野上は五十代なかばのバツイチ女性で、輸入雑貨の販売会社を営んでいる。熊切明美を含めて五、六人の社員がいるだけの小さな会社だった。大阪市内にあるワンフロア五十畳ほどのテナントを二つ借り切り、そこで営業している。そのうちの一つは三つに区切られ、更衣室と休憩室、そして商品を一時的に保管する倉庫になっていた。

 メインの事務所となるテナントは事務机や椅子やキャビネットが並び、部屋の奥の一角が区切られていて、そこが社長室になっていた。

 明美は顔を曇らせた。今日は頼子と会えないかもしれない。

 自分以外の社員が全員事務所から出て行ったのを確認してから、明美は社長室へ入った。

「サイドビジネスの話ですか」

 「池上商店」という言葉が出てきた時点でわかりきっていたことだが、明美は早く帰りたいということを匂わせるためにあえて問いかけた。だが明美のそんな意図を知ってか知らずか野上千代子はビジネスライクに言った。

「ええ、そうよ。そこにすわって」

 明美は社長の机の前にある応接セットのソファに腰を下ろした。

「今回はできるだけ派手にやって頂戴」

 野上千代子はクリアファイルに入った資料を明美に手渡しながら言った。クリアファイルには耳にピアスをぶら下げ、こめかみにハッシュマークのタトゥーを入れた男の写真のほかにその男の氏名、経歴、行動パターンやロケーション履歴などが記された書類が収められていた。

「電子掲示板の元管理者の男よ。ネットでしか名は知られてなかったんだけど最近テレビやラジオにも出演してそっちの方でも知名度があがってるの」

 明美は数日前、テレビのトークバラエティ番組で頭の回転は早いが他人の喜怒哀楽には無関心なその男が間抜けな野党政治家をやり込めているのを見た。

「近々、自分のサイトの運営スタッフと一緒にクリスマスパーティーを兼ねた忘年会みたいなものをやるらしいわ。そのときがいいかもね」

「ずいぶんと急な話のようですが、今回はどの方面からの案件ですか?」

 クリアファイルに収められていた資料に目を通しながら明美は言った。原則的にどんな案件も引き受けることにしていたが、あとで面倒なことになりそうな話は断ることにしていた。

「あたしよ」

 野上は薄く笑った。

「大嫌いなのよ、あいつのことが」





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