2.その始まり

 アイリスはこの国の生まれではなかった。


 彼女が生まれ育ったのは、今いる国の隣の国であった。

 ここより北部に位置するその国は、冬の寒さが厳しいこともあり夜でもしっかりと着込んでいた。

 人目に触れない夜に着るものとはいえ、夜着にも綺麗な刺繍が施されているものがほとんどで、色も様々なものがあり、昼間着る服とはまた別の楽しみがあった。

 女たちは夜着にもオシャレを楽しみ、寒く家の中で過ごすことが多い冬の季節も楽しむことを忘れなかった。


 そんなアイリスにとって、下着同然のような薄い質素な夜着を着れと言われた時点で辱めであると感じていた。

「着ろ」

 ルーカスから命令口調で夜着を受け取った下着姿のアイリスは、すぐにそれを着て再びルーカスを見た。

「なぜ毎夜来る?」

「……そう言われています」

 アイリスが初めてまともに返事をしたことにいささか驚いたルーカスであった。

 ――ここまで3日。

 アイリスは毎日来ては、ルーカスに去れと言われて部屋を去っていた。

 4日目で初めて言葉を発したのだ。

 初日の『許さない』を除いて――。


 アイリスの言葉はルーカスのしゃべる言葉と違う、独特のイントネーションがあった。

 昔は同じ支配下にあったといわれているこの国、アンデと、アイリスの出身国、ポリシアは言葉は共通するものの、お互いが独立して数百年経っており、それぞれの地域の訛りや異なる単語も派生していた。

 どちらの国の出身かは喋ればすぐにわかる。

 

「会話ができたのか」

 ルーカスが冷たく言う。

「父にはわたしから、お前のような慰みものは必要ないと言っておいたのだが。それでも来るということは何かを企んでいるのだろうと思ったのだ」

 アイリスの顔を見ずに、自分の仕事鞄の中身を整理しながらルーカスは言った。


「これ以上、ここで何の行為もなければわたしが罰を受けます」

 アイリスは何の感情も抑揚もない、無機質な返答をした。

「つまり、罰を受けたくないから、ここに来ているわけか」

 ルーカスはアイリスを見た。

「結局、罰を受けるより俺に抱かれる方が楽ということか」

 ルーカスは冷ややかな視線を向けた。


 その時、アイリスは反射的に、あの初日の夜のように怒りを露わにした。

「違う。あなたが疑っていた通り、機会を見てあなたを殺すためよ!」

 そう言って後ろに回していた右手を前に出した。その手には小さな折り畳み式のナイフが握られていた。

 全身から怒りのオーラが解き放たれ、少しでも近づけば噛みついてきそうな獰猛な生き物のようであった。

 

 どうやら、ルーカスがアイリスの脱いだ夜着を拾い上げるその一瞬、下を向いた瞬間に下着に隠していたナイフを取り出していたようであった。

「下着の中に隠していたか」

 そのナイフを見ても、ルーカスは表情一つ変えなかった。

 ただ、アイリスの溢れ出る感情の激しさに、また少し気圧されていた。


 ――化け物だ。この国の男などみな、化け物なのだ。

 アイリスの心の中はこの国のすべてに対する怒りと、男たちに対する侮蔑、そして己自身の悲壮な運命を悲しむ気持ちに支配されていた。

 アイリスは怒りに満ちた瞳で、目の前にいる男に刃を向けた。


 しかしルーカスの冷静な反応は早く、一瞬で鞄から拳銃を取り出して、その銃口をアイリスに向けた。

「お前はここに来る前に何をしていた。その強さと度胸はただの民には見えぬが」

 そう言うルーカスの口角は上がり、笑っているようにも見えた。

 笑ったまま銃口を向ける男に、アイリスは殺されるという恐怖が一瞬で身体を支配した。自分の足が震えているのが分かった。

 しかし、ここまできたからには、この男を殺して自分も助かるつもりはなかった。この男を殺しても逃げられるとは思えない。死罪は確実だ。


「足が震えているぞ。その程度なのだ。ここで俺を殺してどうする。お前は、それで何が報われるのだ」

 笑っているように見えた男は、今度は慈悲でも含ませたような顔を見せた。

 それが余計にアイリスの怒りを煽ったが、今の彼女は即座に答えられなかった。

 ――確かに、この男を殺してそれで終わりなのか。死んでいった父や、行方の知れない母、大切な家族や友人はみな報われるのか。


「お前は、国でもさらに北部の出身か」

 ルーカスの言葉にアイリスは思わずその瞳に色を宿した。

「お前は、瞳ですぐにわかるな」

 そう言うルーカスの顔にはアイリスを嘲るような笑みはなかった。

「北部の首都のその先はまだ、抵抗している者たちがいる」

 その言葉にアイリスは小さく動揺し、ルーカスはその動揺を見逃さなかった。

「やはり北部の出身か。首都のダージャ・ランツ辺りの出身か。言葉にあの辺りの北部訛りがある」

 その言葉にアイリスは、今度は驚きを隠さずまっすぐルーカスを見た。

 

 アイリスは、確かにポリシアの首都ダージャ・ランツで生まれ育った。

 アンデとの戦争で首都が陥落するまで彼女はずっと首都で生活し、その場所を離れたのは家族との旅行だけで、数えるほどであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る