真実について

湊「…忘れ物は、うん…ないね。」


定期券も入れた、スマホも入れた。

持ち物は貴重品だけでいいのに

不安がって何度も確認する。

そして、ゆうちゃんと鉢合わせないよう

1時間早く家を出た。


ゆうちゃんや本件に関わった

七ちゃん、いろは、

そしてゆうちゃんを支えてくれたらしい

彼方ちゃんの予定を合わせたところ

今日が最も都合のいい日となり、

成山ヶ丘高校にて集まることになったのだ。

ポケットに手を突っ込み、

できるだけ気を楽にするため

視線を上に保つ。


ゆうちゃんと話をする。

…そう決めたはいいものの、

最後の最後まで最終決断を渋った。

今でも迷っている。

すぐに「やっぱり話すのはやめよう」

「これまで通りでいよう」と言えば

何事もなく日常に戻るのではないか。

彼方ちゃんから、

ゆうちゃんが苦しんでいる話も

浅くながら聞いた。

なら、これ以上彼女を追い詰める必要は

ないんじゃないか、と。


でも、向き合わない限り

2度とこれまでの距離に

戻れないような気がしているのも事実で。


湊「…あ。」


曲がり角へと差し掛かった瞬間、

遠くで揺れる髪と

マフラーに埋もれた見慣れた顔を捉える。

何故ここにいるのだろう、

彼方ちゃんだった。


彼方「あ、って。」


湊「びっくりしちって。なんか用事あったの?」


彼方「詩柚んとこ。あいつ絶対サボるから迎えにいく。」


湊「…そっか。うちにはできないだろうから、よろしくね。」


彼方「だね。あんたには無理。」


前と変わらない冷たさをもって

彼方ちゃんはうちの横を通り過ぎる。

ふわりと女の子らしい甘い香りがした。

遠くなる背中に「ありがとね」と叫ぶ。

振り返ることも片手を上げることもなく、

閉まっていたイヤホンをつけた。


湊「…。」


引き返さない。

それがうちの選んだ道で、

ゆうちゃんと向き合う方法だった。





***





1番乗りに高校につき、

部活動に励む学生を横目に

1番人が来ない棟の隅の教室に入る。

廊下側の適当な席に座って

凍えた指で今日くる皆に連絡をする。

嫌な跳ね方をする心臓を抑えるべく

深呼吸をして目を閉じた。


湊「…。」


大丈夫…ではないだろう。

ここから先は綺麗事ひとつ

手元に届かない泥沼だ。

互いに刺し合うだけの血の海だ。

おそらくそのくらい真実は鋭く痛い。


うち自身も傷つく準備を

しておく必要がある。

どれだけの罵詈雑言を

言われても狼狽えないこと。

殴りかかられても殴り返さないこと。

嫌なところを突かれて

ムキになって話を逸らさないこと。

ゆうちゃんが死のうとしないよう

できるだけ近くにいること。

それでどちらかが命を落とすようなことが

万が一あったとしても、

今日のこの選択を後悔しないこと。

ゆうちゃんの話を受け入れること。

素直に聞くこと。


湊「…今日の話次第で…。」


ゆうちゃんの未来が分かれる可能性が高いこと。

それを念頭に置いておくこと。


ゆうちゃんを1人にしないこと。


1時間弱ほどして

七ちゃんといろはが到着した。

話をしていると気が紛れる。

けれど、当の本人と

彼方ちゃんがまだ来ていなかった。


七「来ないね。」


いろは「遅延してるとかー?」


七「調べてみるね!うーん…遅延はしてないみたい。」


湊「…何かあったとか…」


いろは「心配しすぎだよー。大丈夫、来るからゆっくり待ってようー。」


湊「…んだね、そうする。」


その時、ぴこんと七ちゃんのスマホが鳴る。

彼方ちゃんから「少し遅れる」と

連絡が入ったと言う。


しばらく待っていると、窓から入る光が

一瞬弱くなり教室が仄暗くなった。

太陽が雲に隠れたらしい。

ぼうっと外を見ていた時、

唐突に前方の扉が開いた。

時計は予定していた時間から

30分ほど過ぎていた。


彼方「遅れた。」


詩柚「…。」


七「よかった!事故にあったんじゃないかって心配してたんだよ!」


彼方「そんなんじゃないけど、詩柚が死ぬほどうとうとするから。」


詩柚「…ごめん。」


ゆうちゃんは、見ない間に

一層ほっそりとしていた。

冬服の分厚さに着られているよう。

うちが帰省していた1ヶ月

…いや、別れて以降のおよそ2ヶ月の間

まともな食事をとって

いなかったのかもしれない。

…それをわかって離れる覚悟をしたのはうちだ。

1人の人を見殺しにする

直前だったように思えて、

過去に彼女が放った言葉が

現実味を帯びていく。





°°°°°





詩柚「湊ちゃんがいなくなったら、私死ぬから。」





°°°°°





彼方ちゃんがいなかったら

ゆうちゃんはどうなっていたのだろう。


湊「ゆうちゃ…」


彼方「甘いだけの言葉は要らない。話に入ろ。」


湊「……っ…。」


彼方ちゃんの言うことはわかる。

ここで「大丈夫?」と聞いたとしても

全ての原因はうちだ。

うちが調べ物を始めたから。

別れるまでに至ってしまうくらい

何か嫌なことをしたのかもしれないから。

なら、生半可に優しくせず

距離を保って話し合いをするのが得策だ。


彼女の元に駆け寄りたい気持ちを抑え

その場で握り拳をつくる。


教室に入りきっちりと扉を閉めてから

まるで対峙するかのように

2人で窓側の方へと向かった。


まるで戦うみたい。

向き合うというのは

うちとゆうちゃんにとっては

心を抉る決闘のようなものだった。

皆、いつ話し始めるのかと

口をきゅっと結び待っているのがわかる。

覚悟を決めろ。


湊「ゆうちゃん。」


詩柚「……うん。」


湊「お話を…ゆうちゃんの昔のお話を聞かせて欲しい。」


詩柚「……どこまで知ってるの?」


雪のようにすぐに溶けて

原型のわからなくなってしまうような

小さな小さな声だった。

ゆうちゃんは目を合わそうとしてくれず、

パーカーの裾を強く握る

自分の手元ばかり見つめている。

その手が緊張か、恐れか、

小刻みに震えているのがわかった。

心底嫌で、心底不安で仕方がないのだ。


できることなら「大丈夫だよ」と

力の入った肩を撫で下ろせるよう

あなたの顔を見ないまま

抱きしめてあげたかった。

安心させて、眠って。

次に目覚めるときは、

仄暗い夜をささやかに照らすような

優しい話題を肴に話して。

そうしたかった。

けれど、今はそうすべきじゃない。

ゆうちゃんとしっかり

話さなきゃならない。

自分のために、そして、

紛れもないあなたのために。


息を吸う。

喉が、安定して息を吸うのを拒み

小さなうねりをもって酸素が行き届く。


湊「……ゆうちゃんが。」


詩柚「……。」


湊「……ゆうちゃんのお父さんを…………殺したかもしれない、ところまで。」


詩柚「……。」


ゆうちゃんは何も言わなかった。

口を開かず、

けれど服の裾を握る手に一層力を込めて、

それから不意に弛緩した。

パーカーの縁はくしゃくしゃだった。


雀の歩く音すら聞こえそうな静寂が

室内全体を支配する。

誰かが固唾を飲んだ。


そして。


詩柚「………………へえ…。」


湊「…!」


目線を上げて、

しかしまだそっぽを見つめたまま、

冷たく言い放ったのだ。

凍傷してしまいそうなほど

温かみのない声をしていた。

背中に照っているはずの光さえも

全て遮断するようで、

彼女の頬にすら落ちなかった。


怯んじゃ駄目だ。

怯んだら、それこそゆうちゃんを

突き放してしまうような気がして

凍りかけた喉から

音を何とかして吐き出す。


湊「……それ、は……。」


詩柚「…。」


湊「……っ…。」


言葉がつっかえて出てこない。

何と言えばいいのだろう。

これ以上踏み込むなと言わんばかりの

牽制する言葉と

それに反して恐怖からか震える

長年の友達を前に、

家族も同然の大切な人を前に、

何と言えば。

慰めの言葉も違う。

受け入れる言葉も違う。

優しい言葉は全て違う。


湊「……全部話すよ。」


優しくすることが間違いなら。

その間違いを犯したって構わないと

思うことができないのなら。


湊「……うちがこの数日間で知ったこと全部。」


詩柚「……。」


湊「だから、全部教えて。ゆうちゃんに起こったこと。」


詩柚「……。」


湊「ゆうちゃんがしたこと全部。」


詩柚「……。」


仕方ないなあ、と言って

笑ってくれなくてよかった。

心から向き合おうと

してくれているのだろう。

苦しげに眉を顰めたままでいてくれた。

返事はない。

しかし、誤魔化さないのだ。

にへらと笑って適当に答えたりなどしない。

それが答えなのだろう。

いつも影を掴むようなのに、

今はあなたに手を伸ばせている気がする。


ゆうちゃん。

あなたの背負うものがどうか

少しでも軽くなりますように。


湊「1番最初……調べようと思ったきっかけから話すね。」


詩柚「……。」


湊「帰省してるとき、たまたま聞いちゃったの。うちのお母さんが誰かと電話してて「殺したのは私だ」って言ってたんだ。」


詩柚「……知ってるよ。湊ちゃんのお母さんから共有してもらってる。」


湊「何て聞かされたの?」


詩柚「電話で話していた内容を聞かれたかもしれない、湊ちゃんが町の人に聞き回って情報を集めている可能性が高いって。」


湊「…そっか。お母さんの言うとおり……電話の時の言葉が頭から離れなくて、田舎の人を中心に聞いて行ったんだ。そしたら、さ。……ある人から、うちの家とゆうちゃんの家で起こったこと…可哀想だったよねって言ったの。」


詩柚「誰が?」


湊「それは……言わない。」


詩柚「言って。」


湊「ううん。……ゆうちゃんやお母さんがその人を恨む気がするから、言わない。」


最も簡単に噂は回ってしまう。

ちゃんと事情を話してもない人にも

「最近〇〇したらしいね」と

話しかけられるのが普通だ。

おまけに伝言レースでは

尾鰭が必ずついてくる。

挙げ句の果てに火のないところに煙が立つ。

これは私とゆうちゃんの話し合いであって、

大きな喧嘩であって、

これ以上町の人を巻き込むのは違う。


うちの決意は揺らがないことを悟ったのか、

はたまたお母さんに聞いたり

次回帰省した時に聞いたりすればいいと

一旦は諦めてくれたのか、

「わかった」と短く閉じる。


湊「それで…何が可哀想なのか聞いたら、まだうちが何も知らされてないとは思ってなかったみたいで、慌ててたんだ。」


詩柚「…。」


湊「……ゆうちゃんは中学か高校に入ってすぐ頃からは1人暮らしになってて両親はいなかったし、うちも気づいたらお父さんはいなかった。だから、その人が「可哀想だ」って言った理由を詳しく知りたくなったの。お母さんが「殺した」って言ったのは、もしかしたら身近な人だったんじゃないかなって……嫌だけど、そう考えちゃって。自分でも論理的じゃないと思うけど、うちとゆうちゃんの家に絞って一旦調べてみることにした。」


詩柚「…。」


湊「調べたら、ゆうちゃんのお母さんは…佑月さんは生きてて、別の人と結婚してた。会って話もしてきた。」


詩柚「…。」


湊「ゆうちゃんのお父さんの大輔さんと離婚したのは、大輔さんが不倫したからだって言い張ってたけど、数人が「逆だ」って教えてくれた。不倫して出て行ったのは佑月さんの方だって。」


詩柚「…そんなこともあったかもね。」


湊「大輔さんは数年前から行方不明で……もしかしたら、不倫された時の慰謝料目当てで殺されたのかなと思った。うちとゆうちゃんの家族は親密だったし、父親同士同じ会社で働いてたから、そういう話を聞いてたっておかしくない。」


詩柚「…。」


湊「次にうちのお母さん。…出かけてる間に家の中を探してたら、数年前からうつで薬をもらってることがわかった。服薬は今でも続いていた。」


詩柚「…。」


湊「それからうちのお父さん。…亡くなったと言う割には家の中に遺品が全くなかった。アルバムにも写真ひとつすらない。存在丸ごと消すみたいで違和感があった。」


詩柚「…。」


湊「顔はあまり覚えていなくて、名前も誕生日も覚えてない。何かがわかればいいなと思ったんだけど何もわからなくて…そこで、七ちゃんに相談した。」


詩柚「…あぁ、どうりで。」


七「…!」


だからここにいたのか、と

七ちゃんといろはを横目で見やる。

七ちゃんですらも

あまりの異質な雰囲気を感じ取り

肩に力が入っていた。


湊「七ちゃんに教えてもらって市役所に行ったの。…そしたら、うちのお父さんは亡くなったって聞かされてたのに、生きてた。」


詩柚「……。」


湊「生きてたことを隠されてた。この数年間ずっと。」


詩柚「……そうだねぇ。」


湊「おかしいじゃん。普通に引っ越したって言ってくれればいいじゃん。なのに言わなかった。死んだことにし続けた。……隠したがるには理由があるんだって思って、七ちゃんといろはに調査の依頼をした。」


詩柚「もしかして。」


七「湊ちゃんのお父さんのお家まで行って、異臭がするからって嘘ついて入れてもらったよ。」


詩柚「……。」


いろは「そこで七ちゃんが見つけちゃったんだよー。」


七「……クローゼットの奥に…袋を何重にもして結んであったクーラーボックスがあって……中に、包丁とかフライパンと、あと、女の子用の小さい服とか…。」


詩柚「……。」


湊「写真を撮って送ってもらったんだけど、その全てに多分血であろうものがついてた。……影も相まってほとんど黒色だったから、もしかしたら錆かもしれないけど……でも、ただの錆びたそれらをとっておくには包装が過剰だった。……なにより、服についたそれは間違いなく錆じゃない。」


七「匂いもなんかこう……ずしっと来るっていうか……鼻が曲がるって感じだったから……普通嗅ぐようなものじゃないと思うんだ。」


詩柚「……。」


湊「……ゆうちゃん、このまま話してもいい?」


詩柚「……好きにして。」


あなたは目を伏せて言う。

お泊まり会のあの晩、

手を伸ばせば触れられるほど

近かったまつ毛が、

今ではこんなにも遠い。


湊「……わかった。七ちゃんたちの調査から、うちのお父さんが犯人だと思った。うちのお父さんが、ゆうちゃんのお父さんを……大輔さんを殺したんじゃないかって。」


詩柚「……。」


湊「大輔さんは人が変わったように酒癖が悪くなったって聞いた。だから、変わってしまった大輔さんとうちのお父さんが揉めて…それで、首に手をかけてしまったって思ったの。それで」


詩柚「……負の事実を抱えて町から消えた、って?」


湊「…そう、1回は考えた。罪を犯した…町の恥だから無かったことにしたかったのかな……とも思ったけど、最初の「殺したのは私」の発言から、もしかしたら手を組んでいたんじゃないかって。殺して、お金は手元に入る。お父さんとは離れて、町から出るついでに犯罪道具は全部持っていってもらう。」


彼方「……でもそれ、犯罪道具の中に入ってたって言う女の子の服は何って話じゃない?」


湊「うん。それに……あんまり記憶のないことを推測として話すのは控えたいけど……うちのお父さん、そこまで大輔さんのこと恨むのかが疑問だった。」


詩柚「……。」


湊「恨んでたんだとしても、そしたらゆうちゃんとうちのお母さんの関係は何だったんだろうって。……考えうる範囲であり得るように思ったのは、せめてもの償いの線。ゆうちゃんから家族を奪ってしまった罪悪感から、関わっているんだと。」


詩柚「……。」


湊「でもこれって、ゆうちゃん自身が知らないとただのおせっかいなわけで。ゆうちゃんはこのことを知っているのかが不思議だった。」


詩柚「だから、調べた?」


ずしん、と腹の底に響くような声だった。

生きることを諦めてしまったような、

口角が少しすら上がらない音。

そして、悲しげな顔をして口元を隠した。


詩柚「わたしのこと。」


湊「……うん。」


詩柚「……。」


湊「佑月さんは大輔さんが加害者であるとしか言わないし、その他からも話を聞くことはできなくて。……これ以上進めないかもって思ったんだけど、1人残ってた。田舎にいなくて、情報開示の抑制をされてない人がいたの。」


詩柚「……誰。」


湊「元は田舎にいなかった人…って言ったら大体予想できちゃうか。」


詩柚「まさか。」


湊「花奏ちゃんだよ。」


詩柚「……っ!」


目をまんまるに見開いて

顔を上げてうちを見た。

袖で隠れている唇は

わなわなと震えている様子が想像できる。


湊「その日まで知らなかったんだけど、花奏ちゃん、あの田舎に一時期いたんだってね。ゆうちゃんと知り合いだって言ってた。」


詩柚「何で、その話…」


湊「いろんな人に教えてもらったんだ。」


詩柚「誰から。」


湊「…これは、言わないでおく。本当にいろんな人としか言いようがないんだ。」


ネットの人である以上

こうとしか言いようがない。

それに、正直に伝えたら

きっとゆうちゃんは皆に

一層不信感を抱く。

助けてくれる人たちを

疑うようなことはしてほしくない。


湊「花奏ちゃんもゆうちゃんも、この時の出来事を隠してたのは理由があるって知った。退学とか…いろいろ。……でも、それは置いといて。花奏ちゃんね、言ったんだ。」


詩柚「やめて。」


湊「やめない。やめたら、うちはもう2度とゆうちゃんと向き合えない気がする。」


詩柚「……でも…。」


でも、と

両手で口元を抑えて押さえて

首から項垂れる。

やめて、とお願いするように。


詩柚「……でも…………どう、し…ても……やだ……。」


湊「……。」


詩柚「……ゃ……だ…。」


消え入る声。

遠くで響く部活動生の笑い声。

うちらもああして

笑っていたじゃん。

そうなるための大喧嘩だもの。

仲直りするための大喧嘩。


あなたの細い糸のような声は

うちの首にくるくると巻きついて

徐々に肉に食い込むように痛いけれど、

うちは大人になるよ。


湊「……ごめんね、ゆうちゃん。」


詩柚「……っ…。」


湊「でも、話すよ。」


諦めな、と言うように

彼方ちゃんがゆうちゃんの肩を叩いた。


湊「……昔、森中さんから「深見家の1番の被害者は深見家の娘だ」って。それから」


詩柚「やめっ…!」


あなたと目が合う。

今にも泣き出しそうな

涙を溜めた瞳だった。


詩柚「湊、ちゃ…っ。」


湊「……「町の女に手を出したり、娘の友達に手を出したりした」って。」


詩柚「……っ!」


湊「……娘の友達って……ゆうちゃんの友達ってきっと…うちだよね?」


言った。

言ってしまった。

ゆうちゃんは、黙ったまま。


湊「でも、うちにはその記憶はなかった。何か記録がないかと思って家の中を探し尽くした。宿題の3行日記では、うちが小学5年生の2月ごろからゆうちゃんが家に来る頻度は極端に減ってた。」


詩柚「……っ。」


湊「それから……アルバム、見たの。…七ちゃんが撮ってくれた証拠の写真と…全く同じ服、持ってた。」


詩柚「…。」


湊「もう1回家をよく調べたの。そしたら、底上げされた引き出しに、包丁やフライパンを新調した時のレシートが隠されてた。」


詩柚「…。」


湊「それから…ソファの下、見たの。」


詩柚「……ぁ…。」


湊「…直線的な…ささくれみたいな傷がたくさんあった。…馬乗りになって振り翳した包丁でできた傷じゃないかって…。そうすれば、中学の制服だけが異様に汚れてた理由もわかる。」


詩柚「…。」


湊「…あの日、ゆうちゃんは受験があったよね。」


詩柚「…。」


湊「受験が終わって、うちに家に来たら…多分、何故か大輔さんがいたんだと思う。恨みのある人間じゃないと、あの数の傷はできない。」


詩柚「……。」


湊「……確信はない……でも…。」


詩柚「……。」


あなたはまだ口元を隠して

うちのことを見つめていた。

けれど、先ほどまでの鬱々しさはない。

腹を括ったように据えていて、

感情をおっことしたみたいで怖かった。

でも。


湊「…………っ…。」


詩柚「…。」


湊「…ゆうちゃんがゆうちゃんのお父さんを…………殺した……んじゃないのかな。」


詩柚「……。」


言わなきゃいけないんだ。

向き合わなきゃ駄目なんだ。


湊「……ここからは推測でしかないけど……それを偶然うちの両親が見つけたんじゃないかな。…それで、子供だったうちたちを守るために、全ての証拠を隠蔽して……背負って……それから、うちを守るために嘘で塗り固めたんじゃ…ないの、かな。」


結局、死体が今どこにあるのかは

知ることができなかった。

殺害場所だって推測に過ぎない。

唯一手の届いた動機も経緯。

それら全てはうちを

守るためだったんじゃないかな。





°°°°°





詩柚「もっと長く…この冬が終わったとしてもあと10年くらいは守ってあげられればいいなと思ってた。でも、そんなの湊ちゃんからしてみればおせっかいでしかないよね。」





°°°°°





ゆうちゃんはよく

「守る」って言葉を使ってた。

それって、うちに危害が加えられた過去が

あったからなんだよね?

ゆうちゃんが極端に

スキンシップを取るのが苦手な理由は、

加害者である自分の父親のことを

思い出してしまうからで。

あの晩……別れる前に

お泊まり会をした時の夜。





°°°°°





詩柚「……じゃあ、恋愛は。」


湊「恋愛かー。なーんも考えてなかった!楽しいことが多すぎて、それどころじゃなくってさ。」


詩柚「…湊ちゃんは、将来結婚するのかな。」


湊「なーにどーしちまったんでい、照れちゃうよ。」


詩柚「したいと思う?」


湊「ええっ、どうだろう…?」


詩柚「……っ。」


湊「でも、たった今の恋人はゆうちゃんだよ。」





°°°°°





あの時、うちに何もせず急に泣いたのは

自分が父親と同じことを

しでかしてしまいそうになったからで。

嫌悪感から溢れた涙だったわけで。


うち、本当に何も知らなかったんだ。

ゆうちゃんが苦手なこと、

怖いもの、背負っていたもの全て。


彼方「詩柚。」


詩柚「…。」


彼方「答えたら。」


詩柚「……。」


刹那、静寂が教室を包み込む。

誰もが息呑んだ。

時間の海に飛び込んでしまって

徐々に感覚がなくなるよう。

たった1分、1秒すらも

無限のように思えた。


そして。

無限のような静寂は

あなたのひと言で打ち砕かれた。


詩柚「………………うん…。」


喉の奥。

ころん、と声が転がる。


詩柚「……そう、だよ。」


湊「…!」


袖を下ろす。

隠していた口元は

微かに笑っていた。


詩柚「……正解。人殺しだよ、私。」


湊「……っ。」


当たってしまった。

当たってほしくなかった。

今までの人生の中で

1番当たってほしくない憶測だった。

なのに。


詩柚「……あの日、私……は、人を、殺した。」


噛み締めるように

あなたはもう1度言葉にした。


詩柚「……もし、4月の人狼ゲームで秘密が暴露されるとしたら…これだっただろうね。」


湊「教えて。全部、その日に至るまでのことも、今日までのことも。」


詩柚「……やだなあ。」


湊「お願い。」


詩柚「…。」


湊「これ以上ゆうちゃんを1人にしたくないよ。」


彼女としてもう近くに

居続けることはできないかもしれない。

四六時中、1秒たりとも

離れずに…なんてことはできない。

うちの言う「1人にさせない」は

1人で全てを背負わせないということ。

ゆうちゃんにもそれは伝わっているようで

困ったように肩をすくめた。


詩柚「……犯した過ち全て、かあ。」


湊「……。」


詩柚「……あはは…この後、どうしようね。」


湊「…。」


詩柚「もう…誤魔化すのは無理かあ。」


湊「…っ。」


認めちゃったな、と

言わんばかりの乾いた笑いをするあなたに

徐に小指を突き出した。


湊「何も知らずに、ゆうちゃんが引き剥がすままに離れていってごめん。でも、もうこれ以上1人にしたくない、辛い思いをしてほしくない。」


詩柚「…。」


湊「自分が幸せになることを、受け入れてほしい。」


詩柚「…。」


湊「ゆうちゃんのことだから、幸せになったら駄目だとか…幸せになること自体に不安を感じていると思う。質素な暮らし、すぐに眠ってしまうことも今の生活もうちとの関係も、仕方がないって鵜呑みにする癖。……ずっと見てたんだもん、わかるよ。」


別れる時だって

「仕方ない」って思ったんでしょ?

もっとずっと一緒にいたいと思ったとしても、

自分に嘘を吐き続けていたんじゃないかな。


湊「自分が幸せになっていいって受け入れることは、難しいことだと思う。これまで辛い環境に身を置き続けていたゆうちゃんだからこそ、簡単には落とせない考えだと思う。でも、その手伝いをさせてほしい。」


詩柚「…。」


湊「これからも隣に居させてほしい。」


詩柚「……それは……できないと思うよお。」


湊「…っ。」


詩柚「でも、ひとつ訂正させて。」


肩をすくめて手を後ろで組む。

その手のひらはきっと

暖かな日差しの端くれを握った。


詩柚「湊ちゃんといる時はいつも幸せだよ。」


たとえ今でも、

苦しいはずの今でも

幸せに含まれていると言っているかのよう。

あなたは諦めたように笑う。

けれど小指は決して伸ばさない。

お守りはここで

無くしてしまったみたいだった。


詩柚「私は湊ちゃんと一緒にいない方がいい。その理由も全て話すよ。」


湊「…!」


詩柚「湊ちゃんが向き合ったんだもんね。」


私も頑張らなきゃね。

その言葉とは裏腹に、

大まかに知られてしまった以上

どれだけ話してももう

仕方がないことなんだと

諦めるように聞こえたことに目を伏せた。


詩柚「……でも、暗い話でしかないよ。胸糞なだけ。」


湊「それでも聞かせて。」


詩柚「……あーあ…。」


ゆうちゃんは自らを

嘲笑するように息を吐いた。


詩柚「ほんと、もう少しだったのに。」


未だ理解のできないひと言残して

口をゆっくりと開いてくれた。





°°°°°





私の家は普通で、

共働きであること以外

特徴のない家庭だった。

母親が父親から暴力を振るわれることもなく、

ましてや私になんて被害のかけらすらなく

日々過ぎていった。


けど、湊ちゃんが話してくれた通り、

母親は不倫した。

裁判にまでなって、父親が勝ち

200万円の慰謝料をもらった。

お金が手に入って、

裏切られたことにも

一旦の気持ちの区切りがつくと思った。

けれど、父親は違った。

父親とも呼びたくないけれど…

そいつは寂しさと怒りのあまりか

大量の酒に手を出し始めた。

これまでの自分の努力の賜物だった

貯金がほぼ無くなるまで

アルコールに浸る生活。

止めようとしたら癇癪を起こして大暴れ。

掃除しようとしても怒る、殴る。

手がつけられなくなって

逆らうこともできなった。


詩柚「お母さん、助けて。」


そう、相談したことが1度だけあった。

助けてだけじゃ伝わらなかったみたい。

お金も時間も奪われたことに

まだ恨みを抱いているようで、

私の顔を見てはすぐに顔を背けられた。


私の母、佑月は

不倫相手の森中さんのところに転がり込んだ。

お金がなくなったから困ったみたい。

森中さんのお子さんには確か兄妹が

…息子は既に家を出ていて

娘が1人…いたはず。

佑月は森中さんが離婚するのを待って

森中さんの妻が出ていってから

そこで暮らすようになったらしい。

不倫した方に娘を残すなって話だけど、

経済的な話、父親の籍にいた方が

安定していたんじゃないかな。

森中さんの奥さんは夜のお仕事だったから

長い目で見ると得策ではないと

判断したんだと思う。

事実かは不明だけど

育児もかなり杜撰だったって

聞いたこともある。

どちらにせよ、森中さんのところは

両親に問題があったように見えた。


ある日。

私が小学生5、6年生の頃。

あいつから、性的暴行を受けた。

受け続けた。

あいつが死ぬまで。

4年間くらい。

ずっと。


ずっと。

吐き気と、動悸がした。

景色を。

痛みを。

手を。

顔を。

何か思い出すたび、

喉の奥から

血も臓器すらも

吐くような思いをする。

今でも、する。

息が止まる気がした。

吸わなきゃ。

でも、勝手に拒む。

声を出せない。

出したら、

気持ちいいと思っているなんて

曲解をされてしまう。

歯の隙間から

嗚咽にもならない

汚い何かが。

自分そのものが気持ち悪い。

汚い。

目の前にあいつがいなくとも

その光景を

鮮明に思い出せてしまう。


それらを思い出すたび、

消えたくなった。


ずっと。

助けて欲しかった。


けれど、その頃になってくると

会社でも居場所がなかったみたい。

町の人たちも近寄らなくなった。

気に入らないことがあると

暴力でねじ伏せるようになってしまった。

そんなやつと関わると碌なことがない。

もしくは、自分の家庭にまで

被害が及ぶかもしれないと考えたのかもね。

もう誰も手をつけられなかった。

遅かったんだ。

黙認する流れができてしまった。

私の他にも被害者はいたみたいだけど、

どうなったかはわからない。

それどころじゃなかった。


どうすればいいか、

インターネットで何度も調べた。

その全てが頼りないものにしか見えなかった。

有象無象の言葉の中に

早く相談すればよかったのに、と

他人事だからって

いとも簡単に言う人の言葉がちらついた。


もし、話したら。

話して、改善しなかったら。

その話が父親にまで伝ったら。

もし。

もし、無視され続けるしかないなら。

もし、悪評が事実となり根付いたら。

もし、苦痛に苦痛を重ねるように

いじめられたら。

もし、学校がほんの少しの

逃げ場ですらなくなったら。

もし、他の人間からもそういう目で見られて

何をしてもいい存在になってしまったら。

もし。

湊ちゃんまでそのような存在にさせられたら。


友達は愚か、先生にも不倫した母親にも、

無論湊ちゃんにも話すわけにもいかず、

底に事実を抱えたまま時間が過ぎた。


私が中学3年生の2月。

受験が終わって、

久々に湊ちゃんの家に

向かった時のことだった。

インターホンを鳴らす。


詩柚「湊ちゃーん。」


昼間なのにカーテンが閉じられている。

車はなく、出掛けているように見えるのに

がた、と家の中から音がした。


詩柚「…?」


当時、湊ちゃんのご両親だけが

辛うじて拠り所になってくれていた。

父親はどうすることもできないが、

辛くなったら家においでと言ってくれた。

父親同士昔からの関わりもあるからか

何の信用か、私に合鍵まで渡してくれた。

それを思い出して、

今まで1度も使ったことのない

湊ちゃんの家の合鍵を

音が鳴らないように回した。


詩柚「……。」


家の中は2人が話している声がした。

変だった。

そんな気がした。

湊ちゃんが話している。

何と言っているかわからない。

玄関から見える扉は

全て閉じられていた。

足音を立てないように、

息を潜めて玄関に上がる。

心臓の音は大きくなっていく。

鼓動の音で気づかれるのではないかと思った。

玄関は酷く寒かった。


リビングに通ずる扉の

すりガラスの部分から

少しだけ顔を覗かせる。


人が、見えた。

人影が。


荒い息遣いが。


何するの?

こう?

幼い女の子の声が

聞こえた。


扉を、

少し開いた。


大きな背が見える。

女の子と、目があった。


あいつが、

小さい女の子を

襲う直前だった。


詩柚「…っ!?」


気づけば扉を開け放っていた。

2人の視線が同時に私に注がれる。


何故、お前がこの家に。

何故、湊ちゃんは服を脱いで。

何故。

何故。

何故?


方やきょとんとし、

方や目を見開いて、

それから舌打ちをした。

ズボンを上げ、チャックを閉じる音がする。


大輔「ちっ……お前、何でここにおるんや?」


詩柚「……今、何…しようと……?」


大輔「俺が聞いてんだろうが答えろや。」


詩柚「それが犯罪ってことくらい阿呆なお前でもわかるやろっ!」


大輔「あ?」


1歩。

近づかれる。

酒くさい。

低い声が。

酒焼けしたしゃがれた声が。

近く、なる。


大輔「父親に向かってお前とはなんや。」


床を踏み鳴らす。

物足りなかったのか、

近くの観葉植物を

鉢植えごと蹴り飛ばした。


大輔「ちゃんと教育したつもりやってんけどなぁ。」


詩柚「…っ。」


大輔「お前のせいで!」


肩をうんと強く突き飛ばされる。

ふらふらとよろめいて、

尻餅をついたが束の間

胸ぐらを掴まれた。


次の瞬間、

周りの音が聞こえないくらい

床を転げ回った。


何か、喚いている。

あいつが暴言を吐いている。

酒のせいで私以外

視界に入っていないようだった。

それでいい。

それがいい。

今のうちに、湊ちゃんが逃げられれば。


しかし。


湊「……。」


湊ちゃんは、脱いだ自分の服を

両手で胸の前に手繰り寄せて

呆然と立っているだけだった。

どうすればいいか

わからなかったんだと思う。

体が動かなかったんだと思う。


逃げて。

逃げて!


言葉を発する前に視界が揺らぐ。

上下がわからなくなる。

床に接している感覚がない。


逃げて!

逃げてっ!


ここで私が死んだっていい。

湊ちゃんが無事ならそれでいい。

だからどうか。

声を、振り絞って。

耐えて。


その時だった。


かちり、と

玄関の扉が開く音がした。

視界が安定しない間に

誰かが帰ってきたらしい。

開けっぱなしの扉の奥、

玄関に、誰かがいた。


湊ちゃんのお母さんだった。


目を丸くしている。

目の前の状況が

うまく飲み込めていないようだった。


詩柚「……たす、け」


真美「…!」


束の間、ごとりと

持っていたらレジ袋が落ちて

私の上に乗る体重が

思いっきりなくなった。

強く尻餅をついて、酔っていた影響か

首が座らず左右に揺れている。

今だと言わんばかりに

真美さんはキッチンに駆け込み、

コンロの上に置いている

フライパンを持ち出した。

そして。


がん、と、硬い音が鳴った。

思い切り振りかぶる真美さんの背は

とても頼れるものであると同時に、

どこか遠くに行ってしまったようで。

数回振り下ろされる。

初めは声を上げたそれも、

やがて視界は安定しなくなったのか

大の字で寝転がった。

とどめに、更に数発音がする。

頭を切ったのか、

とめどなく血と思わしき液体が

さらさらと流れていく。

恐る恐る、四つん這いになりながら

息絶えそうなそれに近づく。


うっすらと開いていた

不気味な目が宙を泳ぐ。

何か言いたげに唇を震わせるも

音にならないまま、

やがて目も口も閉じた。

刹那、しんと静まり返り

横目で真美さんと目を合わせる。

目の前のこいつは

死んだのだろうか?

頭から血が流れている。

フローリングにじわりじわりと

赤黒いそれが侵食している。

寝転がって、動かない。

死んだのだろうか?

死んだのだろうか?

死んだのだろうか?

本当に?


その時。

す、と。

腹が膨れた。


こいつ。

息を吸った。

今。

確実に。


気づけば、

私の手には刃物が握られていた。

一等星のように刃先の輝く包丁が

真下に寝転がる憎い命の塊の中心に

深く深く刺さっていた。


死んだのだろうか?

死んだのだろうか?

これで、死んだだろうか?


ぷく、と

腹部から血が湧き上がる。

ぴくりと跨った下のそれが動いた。

筋肉が勝手に動いたか。

それとも。


あぁ、まだだ。

しぶとい。

死んでない。


刺した。

刺した。

原型がなくなるまで腹部を。

歩けないように足を。

触れないように手を。

2度と苦しまないように陰茎を。

しゃがれた声を聞かないように喉を。

暴言を吐けないように口を。

卑しい目を抉るように目を。

息の根が止まるように心臓を。


がつ、がつ。

肋骨や頭蓋骨に当たった。

がりがり音がした。

腕や首、比較的細いところは

下手っぴで振りかぶっては何度か外した。

この世の何よりもぐちゃぐちゃで

気持ち悪い見た目のはずなのに、

何故か解き放たれるような気持ちだった。

清々しかった。

苦しい。

嬉しかった。

辛い。

やっと終わるんだ。

やっと終わるんだ。


やっと。


目を閉じて振り翳し続ける。

見えなくとも勝手に体全身を使って

狂気を刺し続けている。

待ち望んだ朝が来たような

晴々とした気持ちになっていく。


後どこを刺せばいいだろう。

どこを刺せば

もう思い出さないだろう。

記憶から消え去るだろう。

私の穢れは落ちるだろう。

喉?

目?

腹?

手足?

陰茎?

耳?

脳?

刃物を振り上げる。


しかし、振りかざされることはなく

その手は暖かいものに包まれて止まった。

元々何か形があったであろうそれから

目を離して見上げる。

湊ちゃんのお母さんが

悍ましいものを見るような目で

私の手を両手で握っていた。


真美「……もう……死んでる…。」


詩柚「…。」


もう1度、乗り掛かった下のそれを見る。

先ほどまで体内に収まっていたはずの

大量の血が溢れている。

服はすたずたにされており、

皮はおろか、脂肪までもかき混ぜられている。

ところどころ骨らしきものが

見え隠れしている。

呼吸は……多分、していない。

けれど、血が床を這うせいで

まだ動いているように見える。


まだ。

こんな程度じゃ恨みは晴れない。

まだ。

どこか、刺せる。

肌色を完全に消すくらい。

まだ。


けれど、今まで張っていた

緊張の糸が切れたのか、

手から包丁が滑り落ちた。

フローリングを跳ね、

赤い飛沫が服に付着した。

その跡がわからないくらい、

自分の服が気味の悪い色で

満たされていることをようやく知った。

気味が悪い、と

僅かに思えた気がする。


包丁から手が離れてもなお

驚いたことに実感がない。

実感はないが。

私は、多分、人を殺した。

なのに頭は酷く冷静で。

泥濘に突っ込んだような

触感の残る手を見る。

これでもかと言うほど力を込めて

包丁を握っていたせいで、

指が柔らかく曲がったまま伸びてくれない。

角度を変えて、光の当たり方を変えてみる。

手のひらの皺まで

血が行き渡ってしまっているみたいだ。

洗うのが大変だな。

この後、これ、どうするんだろう。


滑って転ばないように

気をつけて立ち上がる。

それを踏まないよう横に立って、

改めて醜いものを見下して。

そして、顔を上げたら。


湊「……!」


詩柚「…。」


まだ布を身に纏わず

服を両手で胸の前に抱いたままのあなたが

真っ白な顔で私のことを見ていた。

怖かったよね。

恐ろしかったよね。

でも、もう大丈夫だよ。

もう安心してね。

もう、平気だよ。


抱き寄せたくなる気持ちを抑え、

笑顔を作るのは上手でもないのに

安心させたいがために口角を上げる。

湊ちゃんの表情は変わらない。

瞬きすらも忘れて

私のことだけを見てくれていた。

何の取り柄もない私だけど、

この時だけは自分の何もかもを

誇れるとすら錯覚しそうだった。


言葉を交わすことなく目を背け、

真美さんに促されるまま

暖かいお風呂に入れさせてもらった。

思っていた以上に冷えていた指先が

じわじわと温まるのを感じる。

この日ほど芯から冷えがなくなり

心地いいと思ったお風呂はないと思う。


詩柚「…。」


この後私は警察に捕まる。

事情聴取を受けて。

加害者であると世に知れ渡って。

犯罪者であると報道されて。

あぁ。

あいつが生きていようが死んでいようが

どちらにせよ碌な人生じゃなかったな。


体を入念に洗った後、

真美さんの服を貸してもらった。

お風呂から上がると

いつの間にか湊ちゃんのお父さんである

亮さんが帰ってきていた。

粗方話を聞いたのか、

粘度遊び後のゴミのようなそれを

折りたたんで袋に詰めている。

至る所から内臓が飛び出ていて

見れば見るほど気持ち悪いはずの

ものだったんだと冷静になっていく。

それを手首まで隠れるような

大きなゴム手袋を着け、

必死に片付ける亮さんの姿を

ぼうっと眺めることしかできなかった。

真美さんは掃除を手伝っている。

血濡れた布切れが

いつかが重なっている。

使い古した雑巾のみならず

バスタオルもいくつか

持って来ているみたいだ。


先ほどまで身動きひとつすらとらなかった

湊ちゃんの姿だけが見えない。


亮「話は真美から聞いたで。」


詩柚「……湊ちゃんは?」


亮「今2階におる。俺はこれから死体を埋めてくるから、詩柚ちゃんは真美と一緒に掃除を頼む。」


詩柚「……埋め…?」


亮「そうや。使った雑巾や血のついた布類やらはまた別の袋に入れてまとめといてくれ。」


詩柚「私、警察に捕まるんやないの?」


亮「そうならないように隠すんや。」


詩柚「……な……んで…?」


真美「詩柚ちゃんはまだ子供で、あなたの人生はまだまだこれから続くの。長いの。なのに一層生きづらくなってしもうたら、詩柚ちゃんの居場所が本当の意味で無くなってしまう。」


亮「子供を守るのが大人の役目やろ。…なのに、これまで助けてあげられんですまんかった。」


真美「私たちができることはこんな形でしかないけど……これまで見過ごしてしまった分の責任を取らせて欲しい。」


詩柚「……でも、2人は…悪くない、のに。」


真美「詩柚ちゃんの未来を守れるのなら、おばちゃんは悪者にだってなる。世の正解だけが心や未来を救うわけやない。」


まだ気が動転しており早口だったけれど、

泥団子のようになった父親よりも

家族らしい言葉を投げかけてくれた。

ならもっと早く助けてくれとも思わなかった。

私とその周囲の性犯罪を

なかったことにせず、

私の苦しみの存在を

認めてくれたことが嬉しかった。

無視しないでいてくれて安心した。


細い指が私の肩を撫でる。

触れられても怖くなかった。


真美「湊を守ってくれてありがとう。」


そこでようやく、

私はあいつを殺したんだと

実感が湧いた。

まだやるべきことはたくさんあるのに。

床に蔓延った液を拭いたり

汚れた物を集めたり

証拠を隠したりしないといけないのに、

急に堰を切ったように瞳から雫が溢れた。


私は、人を殺した。

父親を殺した。

世間的に見ればとんでもない娘だ。

極悪非道な人間だ。

耳を疑うような罪な存在だ。


私は、人を殺した。

父親を殺した。

でも、間違ってなかったんだ。

殺してよかった。

よかったんだ。

あぁ。

よかった。


後悔はしていない。

反省もしていない。

だってそれは正しかったから。


放置していたら湊ちゃんだけでなく

さらに多くの人間に

被害が及ぶ可能性があった。

それを食い止めたのだ。

私のようにトラウマを抱える人が

1人でも減ったのであれば

この行動に意味はあったはずだ。

あいつが生きていて

もし捕まったとしても

死刑にならず数年刑務所に行って

また戻ってきていたことだろう。

そして再度罪を犯す。

酒に溺れ、欲に任せ被害者を増やす。

目に見えている。

だからここで根を潰せてよかったのだ。


確認するまでもなく理解しているそれを

途方もなく自分に言い聞かせ続けた。


それから、亮さんはそれを埋めに行った。

私の祖母が所有していた山奥に

埋めに行ったらしい。

成人男性の力でも

人1人分を埋めるほどの穴を掘るのは

大変時間のかかることだと聞く。

けれど野ざらしにするわけにもいかず

後に引けない状況が、

手を動かす理由になったらしい。

冷静になる時間がなくて

よかったと話していた。

私と真美さんで血濡れた物を

1箇所にまとめて括った。

人間は骨になり身元がわからなくなっても

これら道具は燃やさなければ無くならない。

然るべきタイミングで処分すると、

亮さんが全て引き取り

誰もいなかった彼の実家にある

クーラーボックスの中に眠らせた。

そして模様替えをした。

床は綺麗に吹き上げたが、

私のせいでぽつぽつとささくれた

フローリングは元に戻ることはなかった。

壁際にあったソファを動かし、

跡を覆い隠すように設置する。


残るは、湊ちゃんのこと。

私と亮さん、真美さんが結託して

隠すことに成功したとはいえ、

湊ちゃんが誰かに話してしまっては

全てが無に期してしまう。


真美「さっきのこと、誰にも話しちゃ駄目やで。」


湊「…。」


真美「いい?何か聞かれても絶対見たことを答えちゃ駄目。わからないって言いなさい。」


けれど、湊ちゃんは未だ

きょとんとしたまま真美さんを見る。

そして、言ったのだ。


湊「……さっきのことって……何?」


って。

先ほどの凄惨な現場のことは

どうやら湊ちゃんの記憶から

綺麗に抜けてしまっているようだった。

私の名前をだしても、

私の父親の名前を出しても、

殺害に使用していない別の包丁を見せても

これっぽっちも反応を示さなかった。

それどころか、私と遊ぼうとする始末。

袖を引かれて目が合う。

純粋無垢な瞳の湊ちゃんのままだった。

忘れているふりをしているのではと

誰もが疑っていた。

しかし、数時間経とうと

次の日、また次の日になっても

湊ちゃんは湊ちゃんのままだった。

ショックのあまり、

本当に頭の中から消し去ってしまったらしい。

これ以上幸運なことはなかった。


亮さんは事件当時の物品を隠し持つため、

真美さんと離れ

別の場所で暮らすようになった。

でも真美さんの方に、生活できるよう

毎月いくらかは渡していたみたい。

数日後、亮さんは死んだと噂を流し、

葬儀も家族葬のみで済ませたと1人に話す。

さすれば忽ち嘘は伝播し、

亮さんは亡き人として

扱われるようになっていった。

同時に、真美さんの方から、

湊ちゃんが私の父親に襲われたこと、

そして、湊ちゃん本人は忘れていること、

本人にはその話をしないでほしいこと、

町の人で被害を未然に防ぐよう

見守っていてほしいことを

確か集会のような場面で

皆に伝えていたらしい。


元より湊ちゃんは沢山の人と交流して

笑顔を分け与えてくれる

光のような存在だったから、

町の人は自然と力を貸してくれた。

以後、視線をやたらと感じていたら

それは守ってくれていた証拠。


後は私たちみんな

幸せに暮らすだけ。

父親を殺したのは十中八九私だろうが、

真美さんは「殺したのは私だ」と

何度も言い聞かせてくれた。

罪を被ろうとしてくれた。

いつでも、今でも、

その話題になれば言い聞かせてくれた。

「あなたは悪くない」。

「殺したのは、私だから」。


真美さんであれば

あったとしても傷害致死罪。

時効まで20年。

人を死に至らせていないと分かれば

時効は15年。


亮さんは死体遺棄罪。

時効まで3年。


私は傷害致死罪もしくは殺人。

明確な殺意があったかが判断基準になる。

私の場合は衝動的とはいえ

殺意があったと見られるのが妥当だろう。


時効、なし。


抱えるものがあったとしても

隠さなければならないものだらけだとしても

苦しいことも辛いこともない。

自由に、幸せに生きていける。

そう、思っていた。


しかし、そんなものは

まやかしでしかない。

地獄の始まりでしかなかった。


被害ってね、受けたその時ももちろん辛い。

けどね、1番はその後の全ての生活において

じわりじわりと毒が回ることなんだ。

もう戻りはしないんだよ。


詩柚「……。」


家に帰って、1人になった。

畳に散らばった酒瓶を片付ける。

酒と煙草を買いに行くために

近くに散乱していたお金をまとめておく。

シンクに積み上がったお皿を洗う。

嵩張った段ボールを玄関に積む。

すぐに捨てるとあいつがいなくなったと

勘繰られそうだから少し時間を置く。

こたつを中心に置いて、

割れたテレビはそのままに

スマホのニュースをつける。


詩柚「……。」


いつか、私もこのニュースで

報道されるのではなかろうか。

だって私。

人を。


詩柚「……。」


いや、正しいことをした。

正しいことをした。

正しいことをした。

正しいことだった。

間違いなく正しかった。

正しかった。

誰がなんと言おうと正しかった。


詩柚「……っ…。」


正しかった。

湊ちゃんを守れたんだから。

私はもう被害に遭わないんだから。

自由になった。

自由になったよ。

間違ってない。

間違ってるはずがない。


なのに。


詩柚「……ゔぇ…っ…。」


胃が急速に縮み喉を焼いた。

綺麗になった家の中を見ても

どこにいたとしても

あいつの声がこだまして響く。

あの目つきが、

あの手が、記憶に残留している。


使用済みのお皿がなくなって

久しく銀色を輝かせたシンクに駆け込む。


詩柚「……ぅ…………ぁ、がっ………げほっ……。」


悪いことは何もしてないのに。

何にもしてないのに、

わけもわからず

涙が出てきそうになった。

嫌いな人間が消えたのに、

嬉しくてたまらないはずなのに、

それだけで満たされる頭ではなかった。

何故か。

何故こんなに後ろめたいか。


湊ちゃんは無事だったのに。

あの様子であれば、

服を脱いだまでのはずなのに。

人を殺す瞬間だって忘れたのに──。


詩柚「…っ!」


微動だにしなかった

彼女のことを思い出す。

…そっか。

忘れただけで、ちゃんと見てた。

あの子はちゃんと私を見ていた。

忘れているとしても

今後も忘れ続けるとしても、

私は湊ちゃんに対して加害したも同然だ。

強いショックを受ける場に

居させ続けてしまった。

私はあなたを傷つけてしまった。

私は加害者で人殺しだ。

なのに、あなたの隣にいていいものか?

けれど目を離している隙に

今日の事件のことを知ってしまったら?


詩柚「…………うぅ…ぅっ…………ゔ、ぅ……。」


あなたが今日のことを

知らないままでいるためには、

私はあなたにくっついて

守っていく必要がある。

酷く汚れていて、後戻りできない

犯罪者の私だけれど、

隣に居させてはくれないか。

全てを知るその日まで、

嘘で塗り固めて、

手を繋がせてはくれないか。

あなたを守るためだと

事実半分言い訳半分の言葉を携えて、

もう少しだけ、あなたといる幸せを

享受させてはくれないか。


詩柚「……ぁ…………うぁぁっ……ぁ…………。」


どうか知らないままでいて欲しい。

大人にならないで欲しい。

虚像の私を見ていて欲しい。


この罪を一生背負っていくのだ。

15歳にして、償いに人生を捧げたのだ。

開けたはずの未来は

明るい棘で覆い尽くされていた。


数日後、しばらく父親が帰ってこないと

役所に届出を出した。

何日かにわたり捜索されたが、

思っている以上にすっぱり終わった。

見つからなかったらしい。

酔ってどこかに迷い込み、

野生動物の餌にでも

なったのだろうと片付けられた。

町の厄介者であったが故の

自業自得な終わり方だった。

行方不明であると処理され、

2度と帰ってくることはなかった。


伴侶を亡くした、父親の母…

私から見た祖母は、

苗字を深見から羽元に戻していた。

天国は天国で旦那さんには

いいお相手が見つかるかもしれない、

だから独り占めしていては勿体無いと

私には到底理解できない考えを語った。

もしかしたら息子と

同じ苗字は嫌だっただけかもしれない。

子供だった、しかも当時深見という

苗字を背負った私を前に

そんなことは言えなかっただけかもしれないが。


祖母の順子さんは端的に言うといい人だった。

あの父親の元で過ごしていたせいか、

皆いい人に見えていた

だけかもしれないけれど。

中学生だったため、

一旦は祖母の元に保護されるていとし、

苗字が変わった。


順子「本当に1人であの場所に暮らすん?」


詩柚「……うん。学校近いし。」


だって、湊ちゃんの家が近いから。

見張ってなきゃいけないから。


順子「ほんまに?……いろいろ、嫌な思い出があるのならすぐにでもこの家にいらっしゃい。」


詩柚「大丈夫。……でも、お金は……ごめんなさい……頼らせてほしい、です。」


順子「いいんやでそれくらい。気にせんで、これまで通り……いや、不便ないくらい、今まで以上に自由に使いなさい。自分のために使うんやで。」


祖母は優しかった。

けれど、あの父親を産んだ元凶と思うと

その好意も正しく受け取れなかった。


家に帰る。

1人。

何となく吐き気がする。

行方不明になったのをいいことに

玄関に溜めていたゴミを出した。

値の張らない小さなテレビを新調した。

破れていた障子を張り替えた。

シミのできていた畳を変えた。


綺麗な家になった。

でも。


詩柚「……。」


手のひらを見る。

私はこんなにも汚い。


布団に入る。

夜、猛烈な寒気に襲われる。

目を閉じてもすぐに開く。

誰もいないのに誰かがいる気がする。

起きてみる。

誰もいない。

なのに襲われるんじゃないかと不意に思う。


暖房をつけてみる。

喉がからからに乾いて、すぐに消す。

寒くて凍える。

布団を頭から被り、

体操座りをして夜が明けるのを待つ。

待って、待って、待って。

朝日を見て、安心する。

学校があるのに、

強い眠気に襲われて布団に潜る。

起きると昼間。

ほとんど眠れていない。

目の下にクマができている。

午後の授業だけ受ける。

湊ちゃんと一緒に帰る。


帰る。

1人。

何となく、吐き気がする。


繰り返しているうちに、

不眠症らしき症状が強まっていった。

朝まで眠れない。

朝に眠って、学校へ。

次は昼まで眠れない。

学校は終わってしまっている。

でも、力を振り絞って

湊ちゃんと一緒に下校する。

夜。

また、眠れない。

耐えきれなくて目を閉じる。

数分後、目を覚ます。

朝が来る。

やっと眠れる。


数日後、学校に向かう途中で

強い眠気に襲われた。

数分眠ると意識がはっきりした。

授業中でも同じことが起こった。

10分ほど眠る。

4時間後、また眠くなる。

瞼を開いていられなくなる。

眠る。

起きる。

眠る。

起きる。

眠る。

夢をみる。

鮮明に残る過去の夢。

眠る。

眠る。

眠る。

起きる。


気づけば、どれほど夜に眠ったとしても

1、2時間おきに酷く強い眠気に

襲われるようになった。

夢の中は生きた心地がしない。

死んだはずの父親が

夢の中にまで私を呼び込み

引き摺り込もうとしているようだった。

治したかった。

どれだけ起きようと思っていても、

意地でも目を開いていたとしても

白目をむいてまで眠ってしまう。


自由になったはずが、

父親はまだ私を蝕み続けた。

睡眠の障害を抱えた。

その上、眠るたびにあいつの顔が過る。

耐えきれなかった。


詩柚「……そっか。」


父親は行方不明になっただけなのだ。

まだ死んだことにはなっていない。

だから、こんなにも私の中に残っているんだ。

今すぐ自主して

父親は死んだと言えば

この苦しみから解放されるだろうか。


でも、そしたら私を庇ってくれた

湊ちゃんのご両親はどうする?

私の罪を隠すために

亮さんは離れたところへと

例の血濡れた道具らを持って行ったのに?

全て隠し通すために

あの夜を過ごしたのに?

実の父親以上に

家族のように、人間のように

扱ってくれた人たちを、

私の一存で裏切ることができようか。


詩柚「………………で…き、なぃ……。」


お前は罪を背負って生きろ。

死ぬまで犯罪者なんだ。

真っ当な人生を送る資格などない。


間違ってないはずなのに、

世の、明確な形を持たない正しさで

押しつぶされそうだった。


……いや、この時既に

押しつぶされていたのだと思う。

眠りの問題も悲観的にしか捉えられず

治す方法ばかりを見ては

必ず辿り着かないであろう未来を想像する。

今みたいに仕方のないこととして

捉えることはできない。

一生苦しむのだ。

耐えられるはずがなかった。


時折湊ちゃんの家に遊びに行った。

しかし、これまでの頻度で

彼女の家に行くのは憚られた。

行くたびにとんでもない量の記憶が

吐き気と共にフラッシュバックする。

月に数回、月に1回…と

徐々に回数は減った。

ある日、湊ちゃんと何にも約束をしないまま

彼女の家に向かうと

真美さんだけが1人あの家で

息をしている時があった。


真美さんもまた

精神をすり減らしている1人だった。

私の父をフライパンで何度も殴った事実が、

私が明確な殺意を持っていたであろうほど

包丁を振り下ろした出来事が、

私を守るために発してくれた

「私が殺した」という言葉が

真美さんを苦しめていた。

自分すらも騙す勢いで

「私が殺した」の言葉を

信じ切っているようにも見えて、

その執念にぞっとする。

見るたびに頬がこけて痩せていき、

クマができ、唇はかさかさで。

目に見えて心身のバランスを

崩していることが伺えた。


あれだけのことをしたのだ。

させたのだ。

私は湊ちゃんを助けたのではなく

湊ちゃんの幸せを

奪ってしまったのだ。


そう思うと居ても立っても居られなくなった。

この場から消えてしまいたくて

仕方がなかった。

私のやったことは何だったのか。

正しかったはずの殺人は

結局負の遺産しか残さないのか。

何度も首を吊るビジョンを想像した。

実際にビニールテープを何十にもして、

時に糸で、紐で、タオルで

輪っかを作ってしまい、

ふと我に返って全て捨てた。

私が死んでしまったら

湊ちゃんはどうやって守っていくの。

真美さんや亮さんを

さらに追い詰めてしまう。


死ぬこともままならず、

けれど湊ちゃんとその家族に

何かしら償いをしないと自分が許せず、

父親が唯一手をつけなかった

不倫時の慰謝料200万を手にした。

自ら稼いで残した貯金は

ほぼ底を尽きていたのに、

慰謝料は使っていなかった。

忘れていたのか、

はたまたそのくらい母親を

愛していたのか。

…母親と離れて以降

酒とタバコに浸った男

だったことを思い出す。

離婚した彼女と繋がりを見出せる

最後の頼みの綱だったのかもしれない。


父親の大切なものだったのなら、

それこそ捨てるに値する。

けれど、お金である以上

生きるには必要だし、

捨てるにも思い切ることができなかった。

だから、有効活用して貰えばと思い

その200万をいくつかの封筒に

分けて詰め込んだ。


詩柚「これ、受け取ってください。」


真美「これは…?……!」


詩柚「200万。……全部、もらってください。」


真美「できるわけないやろ、これは詩柚ちゃんが今後のために大切に使いなさい。」


詩柚「できません。」


真美「できませんやない。被害者の子からお金をもらうなんて…辛い思いをさせた上でそんなことできひん。」


詩柚「その話をするなら、真美さんだって被害者じゃないですか。」


真美「私のことはどうだって…。」


詩柚「真美さんだけじゃない。亮さんも、湊ちゃんだって。」


真美「…。」


詩柚「…実際、高田家みんなの生活を壊してしまった。湊ちゃんは何ともなさそうでも、亮さんは他所に行って仕事いちから探さないかんかったし、真美さんだって今働ける状態じゃないように見えます。」


真美「ふふ…それ、他の人にも言われたわ。病院行きって。」


詩柚「やから、私ができる最大限の償いなんです。お金でしか解決できなくて…解決にもならないけど…こんな形でしか詫びることができなくてごめんなさい。」


真美「……。」


詩柚「私の生活は…生活費は、大丈夫やから。祖母がある程度助けてくれるらしいから。…私のことなんて気にせんで、お金を受け取って欲しいです。」


真美「……気持ちはわかった。…けど、やっぱり受け取ることはできひんわ。」


詩柚「どうしてですか。」


真美「自分が自分のために、このお金に手を出せると思えへん。」


詩柚「……じゃあ、湊ちゃんのために使ってください。」


真美「…。」


詩柚「今後、中学を卒業したら。高校進学、大学進学…入学後だってお金はかかる。その時に使ってください。」


真美「…。」


詩柚「湊ちゃんのために渡すお金と考えて…受け取ってくれませんか。」


真美「…その前提を持ってくるのはずるいわ。」


詩柚「…。」


真美「……わかった。」


詩柚「…!」


真美「……このままでも詩柚ちゃんは引く気ないやろ?…そこまで言うんやったら、湊のため、このお金はちょうだいすることにする。」


詩柚「…ありがとうございます。……本当にごめんなさい。」


「詩柚ちゃんは悪いこと何もしてへん」。

「謝ることはない」。

真美さんはそう言ってくれたけれど、

私の頭はその言葉を拒み

また「ごめんなさい」と呟いた。

渡した200万は

もちろん湊ちゃんのために

使われたっていい。

ただ、願わくば真美さんの生活を

少しでも取り戻すために

使われたらいいなと思っていた。

病院代でもいい。

食費でもいい。

少しでも豊かに、

前のように戻れるなら。


しかし、後からまた話題にあげるけれど、

その200万にはある時期まで

一切手をつけなかったらしい。


いくらか経って、

真美さんは重度のうつの診断を受け

長年していたパートの仕事を辞めた。


長かった冬が終わり、

春になった。

春になったのに

うまく起きれない日々が続いた。

私は高校生になり、

湊ちゃんは小学生6年生になった。


家に出る直前に仮眠する。

学校に行って、また眠る。

眠りすぎだと先生から苦笑される。

周りの顔馴染みは寝過ぎだと笑ってくれた。

私が眠るのは当然のようになっていって、

一部、不快にならない程度に

いじる人も現れるようになってくれた。

授業が終わればすぐに学校から出て

湊ちゃんの通う小学校に向かう。

湊ちゃんには授業が早く終わっても

学校で待っててもらうようにしていた。

そして2人で並んで畦道を歩く。

小指を結ぶ。

どうか今後湊ちゃんを脅かすような出来事が

何も起こりませんように。

家に入るのを見届けて、自分も家と帰る。


そして家に帰って、

吐き気と共にお風呂に浸かる。

ご飯を食べて、

食べ過ぎた日は眠る前に吐いて、眠る。

そんな生活を続けていた。


やがてくだらない夏が来て

終わりの見える秋が来て

疎ましい冬がやってきた。

冬眠するかのように

睡眠時間が増えて、

日のない時間が伸びると共に

心が不安定な時間が増した。

それでも何もないふりをし続けて

褪せた春がまたやってくる。

私は高校2年生になり、

湊ちゃんは無事中学生になった。


詩柚「部活?」


湊「うん!夕方遅くなっちゃうからゆうちゃんは先帰ってて!」


詩柚「…ううん、待つ。」


湊「でも遅くなるで?うんと待たせんで?」


詩柚「いいよ。いくらでも待つから。」


放課後、私は部活に入らず

かと言ってあの穢れた家に

居続けるのも苦しく、

普段ほぼ使い道のない高校の相談室を

自分の居場所とすることにした。

勉強したり、本を読んだり、

1人でオセロをしてみたり。

穏やかな時間だったと思う。

窓から見える木々が、田畑や空が

赤く染まってから中学校へ行く。

すると体操服のままの湊ちゃんが

大きく手を振って駆け寄ってくれる。

中学生になって、

あなたはもう小さな子供ではないけれど、

全く油断ならない日々が続いた。

湊ちゃんがいつ思い出すかわからない。

いつフラッシュバックして

私みたいに、それ以上に

もがき苦しむかわからない。

小さな違和感に気づけるように。


この頃からすでに

湊ちゃんのことを見ているようで

見ていなかったのかもしれない。


湊ちゃんのため。

あなたのため。

私はあの家で暮らし

幾度に重なる短い睡眠に囚われる。


そして。


詩柚「お邪魔しまーす。」


呑気に湊ちゃんの家に入る。

普通の日、遊びに来ただけ。

なのに様子が変。

事実とは異なる流れだ。

そうだ、遊びに来たら湊ちゃんが…。

慌ててリビングに向かう。

ぴと、ひと、とシンクに水の垂れる音。

湊ちゃんの影が一瞬見えた。

その光景を覚えている。

覚えてしまっている。

忘れられないあの場面。

心臓が悪い意味でどきどきする。

動けずにいると湊ちゃんらしい影は

夢らしく煙のように消えていった。

そして。


「詩柚。」

「こっちきぃ。」


あいつが言う。

途端、湊ちゃんの家から

私の家へと変化する。

もう、逃げ場はない。


「ええ子や。」


夢から覚めて、鏡を見る。

正気のない顔をしている。


「詩柚」


何故か父親の声がした。

あいつがいなくなってから

もう1年半ほど経ているのに、

精神を蝕み続けて

ついに頭すらおかしくなった。


湊ちゃんを守らなきゃ、

町のみんなとも、

誰とも関わり過ぎないように。

私から離れないように。


どんどん視野が狭くなっていく。

なのに、湊ちゃんはどんどん

外の世界へと旅立とうとする。

クラスで仲がいい人がいる。

部活で仲良くなった人がいる。

今度遊びに行く。


詩柚「……っ。」


昼間の登校にも間に合わず

湊ちゃんを迎えに

中学校まで重たい足を動かす。

私も着ていた時期のある制服を

身につけていた学生何人かとすれ違う。


少し前まで通い慣れていた

中学校にたどり着くと、

待っていた湊ちゃんが

大きく手を振ってくれた。

スマホも持たせてもらえない彼女は

私が来るまでひたすら待つしかない。

いくら待ったかもわからないのに

いつだって笑顔で迎え入れてくれる。


湊「ゆうちゃん!ただいま!」


詩柚「うん。帰ろっか。」


湊「はーい!」


中学生になって

身長もぐんぐん伸び始めた

湊ちゃんと並んで帰る。

もうすぐで身長も

追い越されてしまいそうで、

どんどん大人になるあなたが

怖くもあり羨ましくもあった。

私はあの日から時間が止まったまま。

後悔はしていないけれど

周囲の時間が進むにつれ

虚しさは増すばかり。


湊ちゃんと話していて

楽しいし嬉しいはずなのに、

胴体に穴が空いたように

息をするのが苦しくなる。


「詩柚」


湊ちゃんが私のことを

あだ名で呼んでくれる人でよかった。


湊「ゆうちゃんっ…!?」


湊ちゃんを迎えにいく直前まで

眠っていたはずなのに、

どうしたことか道中で

眠たくなってしまった。

目を伏せるとかなりふらつく。

どうにか邪魔にならないようにと

畦道の隅に寄る。

バス停あたりあればよかったが

案の定何もない。

隅に寄り、田畑に落ちないように

体操座りをした。


湊「え、どうしたん、大丈夫!?」


詩柚「本当に心配しないで。…5分…10分だけ、寝ちゃうだけ…。」


湊「寝ちゃう…?」


詩柚「やから救急車も人も呼ばんで…少し待ってて…ほしい…。」


私にしては頑張って

最後まで言葉を伝えた方だと思う。

次第に瞼は閉じていく。

初めて湊ちゃんの前で

咄嗟に眠ってしまった日だった。


夢ではいつものように

父親の声や手が

私に向かって伸びてくる。

湊ちゃんといるだけで幸せだった。

そのはずなのに、

湊ちゃんといる時でさえ

睡眠の悪は襲って来た。


もういい加減終わればいいのに。

もういいんじゃないかな。

もう、頑張ったよ。


湊「ゆうちゃんっ!」


詩柚「……ぅ…。」


湊ちゃんが覗き込むようにして

私の方を抱き、優しくゆすっている。

彼女の奥に空が見える。

どうやら湊ちゃんは

膝に私の頭を乗せて

緩やかに後方に体重を傾けているらしい。

湊ちゃんの髪の毛が重力に倣って頬に触れる。


湊「ほんとに、本当に大丈夫なん?」


詩柚「…うん。」


湊「うなされてたよ。」


詩柚「…!…私、寝言言ってへんかった?」


湊「え、寝言…?」


詩柚「そう。」


湊「何にも言ってなかった。」


詩柚「…よかった。」


湊「あのさ。」


私の肩を支える手に力が入るのがわかる。

夏前後だったからか、

あなたの手のひらが

異様に暑かったのを覚えてる。


湊「それ…眠くなっちゃうやつ、昔からやないよね。」


詩柚「…?うん。」


湊「でも、昨日や一昨日からでもないでしょ。」


詩柚「…いつからかって聞きたいん?」


湊「……去年あたりから、学校行くの…不定期だって聞いたことがあったから、気になってて。」


それでもその日の私の状態を見るまで

何も聞かずにいてくれたのだ。

ありがたいと思うと同時に、

いつか、私の行ったこと全てを

知ったとしても、

言わずに隠し通してしまいそうだなんて

湊ちゃんを疑うようなことを

思ってしまった。


詩柚「…2年くらい前。」


湊「そんな、長い間。」


詩柚「長いかあ…そうかもね。」


どうして湊ちゃんを

疑ってしまうんだろう。

そんな自分が許せなくて、

あなたをどうしても信じていたくて。

どれほど周囲の人間が

汚れていて信用ならなくても、

湊ちゃんだけは無条件に信頼して

好きで居続けていられればいいのに。


体を起こし、スカートについた砂を払う。

湊ちゃんの体温が離れた。


詩柚「……ごめんね。」


湊「…隠してたこと?」


詩柚「それも、全部。全部そう。」


だけど、話すことはできない。

あなたにだけは。


湊「…辛いことがあったらいつでも言ってね。愚痴でもなんでも、たくさんたっくさん聞くから。」


甘い言葉に釣られぬよう、

あなたにだけは知られてはならない。

袖を引かれる。

振り返っていいのかすら迷う。


でも私のことをどうか信じてほしい。

不信感を持って

何かしら調べるなんて

し始めないでほしい。

教えてあげられることはひとつもないと

湊ちゃんを突っぱねたくはなかった。

だから、振り返って

あなたの手首を握った。


詩柚「じゃあ、少しだけ甘えていい?」


湊「うん。少しと言わず。」


詩柚「私。」


甘える。

甘えるってなんだろう。

曲がってしまった私が考える最大限の甘えは、

背を預ける行為はこれしか思いつかなかった。


詩柚「……最近、消えたいなって…それ、ばかり……考えちゃうの。」


湊ちゃんは目を丸くして、

それから「そうなんだ」と言った。

優しいあなたは言ったんだ。

「教えてくれてありがとう」って。

「辛かったよね」って。

何故か湊ちゃんが

泣きそうになりながら言うの。


あぁ。

私の1番近くにいる人が

湊ちゃんでよかったって思ってしまった。


でも、翌日。

湊ちゃんは変わらず

笑顔で話しかけてくれた。

なのに、目の奥が少し寂しい。

笑っているのに、遠慮しているような。

湊ちゃん自身は実感は

なかったのかもしれないけれど、

それがものすごく寂しく映った。

私はそういう人なんだと、

希死念慮のある人間だと

見えてしまうようになった。

そういうふうにしか

見えなくなったんじゃないかな。


優しく接さなきゃ。

優しい言葉をかけなきゃ

優しい言動を心がけなきゃ。

無意識だろうとそう思わせてしまった。

口角は上がっているし

目だって細めているのに、

普段と違って見えてしまう。

…実際、当時の私の感じ取り方は

酷く曲がっていた。

だから気のせいだったのかもしれない。


だけど、おかしくなってしまった私は

湊ちゃんのことを信用することが

できなくなってしまって、

だけど信頼してることは知ってほしくて、

時折、衝動的に消えたいと口を開いた。

都度、湊ちゃんは慰めてくれたよね。


「大丈夫。」

「うちがいるよ。」

「明日、一緒に登校する時、

今日食べた夜ご飯の話しよ。」


町の娯楽のひとつである

噂話をするのでもなく、

自分の中での楽しいを

話そうって言ってくれたことを覚えている。

どうしてそんなに素直なまま

成長することができるんだろう。

紛れもなく周囲の、

家族や友達の影響だろう。

綺麗な湖の中にいる彼女の近くに

こんな汚れた私がいていいものか。

緩やかな加害でしかない。

相談される方だって傷つくことを承知で、

あなたの自由を求めたのに

あなたを縛るような言葉でしか

甘えることができない。


なのに。


詩柚「湊ちゃんがいなくなったら、私死ぬから。」


死ぬことなんてできないのに

脅すように1度口にしてしまった。

湊ちゃんは目をまんまるにして

驚いていたのを覚えてる。


詩柚「……。」


畳、座布団の上で星座する。

目の前のこたつの上には

人を殺めた時とは全く違う包丁が

ひとつ転がっていた。


詩柚「…無理だね。」


自分で自分を傷つけると、

いつか湊ちゃんが

気づいてしまうかもしれない。

かと言って命を落として

高田家皆の努力を水の泡にする勇気はない。

その晩は、いつ父親の声が

聞こえてもいいように

刃物を正面に正座し続けていた。


夜が明けて、窓の外が明るくなる。

朝日を煌びやかに反射する包丁をそのままに

冷房を強くつける。

冬の昼ほど寒くなる。

しまっていた毛布を何枚も取り出す。

布団に潜り込んで、

枕に顔を埋めて叫んだ。


詩柚「────────────っ!」


湊ちゃんを傷つけたくなかった。

なのに、心に詰まった何かを消化できず、

無理に笑わせるなんて真似をさせてしまった。

馬鹿だ。

馬鹿だ。

何が守るだ。


もう相談しない。

消えたいだなんて話は、しない。

そんな、湊ちゃんにとって

どうでもいい感情は

私だけが1人で勝手に背負っていればいい。

話したって、話さなくなって

どうせ死ねない命だ。

他人の努力と今後の人生を

無駄にしないためにも

生き続けるしかない生き物だ。

罪を負い続けるしかない

塵みたいな有機物だ。


どうせ、生きるしかないんだ。


それから、湊ちゃんに

暗い相談をするのをやめた。

あくまで普通に。

普通に。

普通。

普通に。


そうしたら、半年経つ頃には

湊ちゃんもその手の話題を出さなくなった。


父親が消えてから2回目の冬。

まだまだ先は長い。

帰り道、湊ちゃんが

道端に積もった雪をつんと蹴る。

冬になると自然と

湊ちゃんと小指を繋いだ。

いつまで経っても

あなたが守られますように。


湊「ゆうちゃん?」


詩柚「ん?」


湊「なんか真剣な顔してたから気になって。」


詩柚「そんなことないよお。」


湊「好きな人のことでも考えてた?」


詩柚「好きな人、かあ。」


湊「え、おるの…?」


詩柚「湊ちゃんは?」


湊「うち?うちはおらへんよー。」


詩柚「気になる人とか。」


湊「おらんおらん!付き合って長い間一緒におるとか考えられへんし。」


詩柚「そうかなあ。」


湊「そうそう。それに、彼氏ができても結局ゆうちゃんとおると思うもん。」


詩柚「彼氏さん寂しがるよお。」


湊「急に親密になった人よりゆうちゃんの方が大切。」


思わず湊ちゃんの方へと顔を向ける。

彼女は恥ずかしげもなく

「何か変なこと言った?」と首を傾げた。

建前かな。

だとしても、抜け落ちた記憶なしに

大切と思ってくれるならそれは嬉しい。


本当は彼氏など色恋沙汰の話は

したく無かった。

もし本当に付き合ってる人がいたら

嫌だなと思っていた。

傷つけられはしないか不安だった。


もしもずっと隣に

居続けられるのが私だったら。


数歩歩く。

いつの間にか

湊ちゃんの身長が伸びている。

あなたはどんどん大人になる、

どんどん知らない人と出会う。

その前に。


詩柚「湊ちゃん。」


湊「なあに?」


詩柚「…付き合おっか。」


その前に、あなたを守り続けるための

最善策を考えなきゃ。


この辺りから、

自他共に認めるほどに

過剰な保護へと変わっていったのだと思う。


付き合ったからと言って

何かが変わるわけでもなく、

いつものように小指を繋いで

一緒に帰るだけ。

けれど、湊ちゃんは

制限された生活に嫌気がさしたのか、

表立って怒りを露わに

することはなかったけれど、

上京したいと話すようになった。

方言もこの頃から無くしていった。

些細な違いで容易にいじめに発展するから

ものすごく心配してたんだけど、

人と調和できる湊ちゃんだからか

大丈夫だったみたい。


私は高校3年生、

湊ちゃんは中学2年生になった。


湊「うち、高校は東京とかあっちの方のとこ行きたい。」


詩柚「え、どうして急に…?」


湊「ずっと思ってたんだ。ここもいいところだけど、もっといろんなところ遊びに行きたいし、いろんな人と関わってたい。バイトも知らない人がずっと来るようなところで接客してたい。」


詩柚「そっかあ。」


湊「お母さん、許可してくれるかな…。」


詩柚「話してみないとわからないね。でも大丈夫だよ、きっと伝わるから。」


湊「だよね。うん、まずは話してみる!」


初めは真美さんは

反対していたと思う。

それもそのはず、

高校生になると同時に

1人で遠くで暮らさせるなんてしない。

真美さんも私と同様

湊ちゃんを近くに置いておきたいと

考えていた人だから。


でも湊ちゃんは上京するため

本気で勉強するようになった。

周りが遊んだり何もしていなかったりする中

彼女は未来を見据えて着々と

準備をし始めた。


これには真美さんも私も堪えてた。

湊ちゃんが頑張っているその努力を

無駄にするのはどうなのか。

自ら幸せを掴みにいく彼女を

この町に閉じ込めておくことは正解か。


これには考えはあれど

あえてはっきりとした答えは

出さないまま季節が過ぎ、

やがて花奏ちゃんがやってきた。

関東、神奈川県から来たという。

当時の湊ちゃんにとっては

とんでもなく素晴らしい刺激になる。

なってしまう。

一層湊ちゃんを見張るように一緒に過ごし、

夏休みは花奏ちゃんと過ごした。

自分の家から離れる口実にもなり幸運だった。

これまでで1番

のどかな夏だったと思う。


真美「話って何やろか。」


詩柚「私、湊ちゃんと一緒の高校受けます。」


真美「…何て…?一緒の高校て、詩柚ちゃんは今年で卒業やんか。」


詩柚「はい、だからこの秋で退学します。退学して、もう1回1年生からやり直します。」


真美「…っ!そんな、詩柚ちゃんの人生なんやからそこまでせんくても…。」


詩柚「私の人生だからです。…私は、湊ちゃんが安全に過ごせて、やりたいことのできる環境で生きることができればいい。今ここに居続けても報われない。」


真美「……。」


詩柚「それに、1人やと心配だから上京渋ってたんですよね。なら近くに私がいればいい。」


真美「…言っていることはわかる。でも…でも、それは…大人として、考えもせんとお願いとは言えへん。」


詩柚「私と湊ちゃんを天秤にかける必要はないです。」


真美「2人とも子供で、2人とも大切な家族みたいなもんや。」


詩柚「じゃあはっきり言います。真美さんの子供は湊ちゃんで、私は人殺しです。これまでみたいに子供、大人じゃなくて…今後はもう共犯でいませんか。」


真美「…。」


詩柚「それに、私ももうすぐ大人になるから。」


真美「……。」


詩柚「湊ちゃんの上京、許してあげてください。」


上京を許す。

すなわち、私を退学させる。

その天秤はさぞ重かったことだろう。


その後数分、数十分無言を貫き、

やがて途切れそうな声で

「わかった」と呟いた。


秋になり、退学したのちに

花奏ちゃんが引っ越したことを聞いた。

いや、引っ越すというよりかは

夜逃げのような形だったらしいが、

見ていないので詳しいことは知らない。

引っ越しの資金は、

祖母に頼めば出してくれそうだったけれど

「もうすぐ大人になる」と言った手前

少しでも自立したくて

アルバイトを始めた。

レジ係や商品の品出しをしていたんだけど、

やっぱりどうしても眠くなって

途中で何度も仮眠を挟んだ。

店長やスタッフさんは

私が過去に被害に遭っていたと

知っている人たちで、

幸いなことに理解のある人たちだった。

それこそ、黒川さんのお姉さんがいたかな。

その優しさが痛かったことは言うまでもない。


湊「ゆうちゃんゆうちゃん!めたんこいい報告!」


詩柚「なあに?」


湊「あのね、関東の高校受験していいよって言ってくれたの!あのお母さんが許してくれた!」


詩柚「おお、よかったねえ。」


湊「ちゃんと面と向かって言えば伝わるんだよ!うわあ、夢みたい、嬉しい!」


詩柚「じゃあ東京行くの?」


湊「ううん、東京は人が多いし危なくて怖いから、近くの県ならいいよって。そこでうちは神奈川県にしようと思う!」


詩柚「へえ。赤レンガ倉庫や中華街があるところだよねえ?」


湊「そう!遊ぶところは沢山あるし、バイト先も無限にある!あ、ちゃんと勉強はするよん。志望校も決めた!でも帰りに買い食いしたり寄り道したりー」


上京の許可が取れて心底嬉しそうだった。

志望校を聞き、その高校を調べると

なんと定時制もある学校だった。

すぐさま同じ高校への受験を決め、

私も準備に取り掛かった。


彼女が上京するにあたり、

連絡を取れないと不便だと言うことで、

話し合いの後にスマホを買ってもらっていた。

スマホを通して

殺人事件一連の出来事について知るのを

防ぐべく買い与えていなかったので、

この決断は大きいものだなと

他人事のように思ったのを覚えてる。

結局、湊ちゃんはあの日のこと全てを

綺麗さっぱり忘れているもので、

心配は杞憂でしかなかったけどね。


その冬。

同級生は受験シーズンで

皆慌ただしそうにしていた頃。

私は1人バイト先に

向かっている途中だった。


詩柚「…?」


不意に森中さんの家の前を通る。

その頃には母の佑月が

転がり込んでいるはずだよなと思いながら

ついつい見てしまった。

突如扉が開いた。

玄関先で見送る森中さんの娘さん。

そして、彼女の家から出てくる

普段町では見かけない人。


それが、津森さんだった。


…今思えばあれは

わざと私に見せていたのだと思う。

だって彼女、人じゃないんでしょ?

なら姿を見せずとも

時間をずらして戻ったり

いつかのときのように

姿を消したりできたはずだから。


けれど、当時の私は

そんなことなど梅雨知らず。

娘さんは、私のことを見つけては

慌てて家の扉が閉じた。

そして、真っ白な彼女はこちらを見た。

目があった。

雪と同化して消えてしまいそうな人だと思った。


気づけば私は立ち尽くしていて、

津森さんは私の目の前までやってくる。


詩柚「こ…こんにちは。」


一叶「こんにちは。」


詩柚「あの……いや…今…何をしてたんですか。」


一叶「少し、大切な話し合いをしてた。」


詩柚「…保険会社の人…とか。」


一叶「違うけど、契約を持ちかけたと言う話であればそう。」


詩柚「契約。」


一叶「うん。そうだ、少し時間ある?」


詩柚「え?…はい。」


刹那、音が止まったようだった。

しんと雪が降ってきたのを覚えている。

彼女は近づいて耳打ちをしてきた。


一叶「ボクは君の罪を知ってる。その上で、頼みたいことはある?」


詩柚「…っ!」


一叶「何でもいいよ。全て無かったことにする、でも、元から存在していなかったことにする、でも。」


詩柚「なっ…適当言ってる、だけ」


一叶「じゃあ一から全部なぞって話そうか。」


詩柚「……。」


無意識に呼吸が浅くなった。

知られている。

どうしよう、って。


それからいくつかの

私たちしか知らないはずのことを言われた。

そして、津森さんは

もちろんこの町の人ではないこと、

とある機関におり、

実験の最中であることを教えてくれた。


一叶「その実験に関わっているのが君。」


詩柚「…私…?」


一叶「そう。だから、君の願いをひとつだけ聞く。」


詩柚「…実験とか…参加した覚えはないけど…。」


一叶「とある出来事に関わりのある人は皆無条件に参加させられるんだ。あぁ、例の事件ではなくて、別のね。」


詩柚「…そんなの聞いてない…。」


けど、願いがひとつ叶うなら。

と希望を抱く反面、

…何か良くないもの、

宗教だの良くない勧誘ではないのか、

と疑ってしまう。


本当に叶うのか。

訝しんでいると、津森さんは言った。


一叶「これまでにあったことを帳消しにしたり、今ある君の罪をなかったことにすると願ったとて叶うかどうかが不安なら、叶ったとしても辛うじて幸運と呼べる内容にしたらいい。」


詩柚「……。」


一叶「例えば。高田湊をこの町に居続けさせる。すなわち成山ヶ丘の受験を不合格にする。」


詩柚「……それ、は…駄目。」


湊ちゃんの自由を奪う。

そこまでするつもりはない。

彼女の貴重な3年間を

この街に溺れさせるわけにはいかない。

だから私だって今こうして

退学したりバイトをしたりしているのに。


一叶「例えば、関東でのバイトの面接を全て不合格にさせる。」


詩柚「…できたとしても、それは辛うじて幸運でも何でもない。」


一叶「なら、高田湊を1度留年させる、なんてのは?」


詩柚「それも…」


一叶「定時制は4年だよ。対して全日制は3年。1年間別の時間を過ごす間、監視することはできない。」


詩柚「…。」


大学1年間、もしくは社会人としての1年間。

高校なんて狭い世界とは違い

更にさらに広い海へと飛び出していく。

せめて一区切りつくまでは

狭い世界にいて欲しい。


…でも、いつまで一緒にいるの?

高校在学まで?

大学まで?

社会人になったら…?


終わり際を決められていないからこそ、

それについて悩む時間が

まだ用意されていても

いいんじゃないかと思ってしまった。

悩んで、答えを出すために

できる限り一緒にいることができたら。


詩柚「…それは…違法じゃないの?」


一叶「この実験に関することは全て上の者がもみ消してくれるよ。」


詩柚「…なら、私が頼んだとしても罪には問われない?」


一叶「うん。むしろ、こちらから高田湊を1度留年させてくれってお願いしようと思ってた。」


詩柚「え…?」


一叶「でもちょうどよかった。利害が一致するなら、これ以上の幸運はないね。」


湊ちゃんが留年したら。

大学は合格しづらくなるだろうか?

推薦なら難しいだろうけど、

目標のために頑張れる彼女なら

面接でなくとも合格できるに違いない。

大学に入って仕舞えば、

浪人生や大人の人だっている。

もし本当に彼女が留年したら、

4年間まるまる一緒にいられる。

一緒に卒業できる。

辛うじて、どころか堂々と幸福と呼べる。


けど、大切な湊ちゃんのことだ。

親である真美さんの意見を聞かず

独断で遂行することはできなかった。


詩柚「…ということがあって。…信じられない話だとは思うんですけど。」


真美「そうやなぁ。」


詩柚「どう…思いますか。」


真美さんに相談せずに飲み込んで、

提案なんて受け入れないと

断れるほどの強い心を

持ち合わせていればよかった。

真美さんに話すことではない。

わかっているはずなのに、

ぽろぽろと言葉を溢す。

そして。


真美「…ええんとちゃう。」


詩柚「……え…。」


一瞬悩むそぶりを見せたが

ころり、といとも簡単に答えを出した。


真美「え、って。お願いしたんはそっちやんか。」


詩柚「そんな、すんなりいいよっていうとは思わなくて。」


真美「湊の近くに居れるんやったら本望やん。それに、私にとってもちょうどええなって思うことがあってん。」


真美さんの背後にあった食器棚、

その引き出しから

いつだか私が手渡した封筒が出てきた。

数年前と同じ重量のありそうなそれを

机の中心に優しく置く。


真美「…ずっと前に200万、くれたやんか。これ、手つけられんかってん。もらった手前悪いけど、どうしても使えへんかった。」


詩柚「…。」


真美「それにな、湊が行きたがってた公立高校の学費を見てみたら、1年あたり50万くらいやってん。」


詩柚「…!」


真美「使わへんのもお金である以上勿体無いし、かと言って持っておきたくもない。…取っておいたら大学受験の費用にも回せるんやろうけど、早よ使い切りたい。詩柚ちゃんは何も悪くないのに…何でか悪いものに見えてしまうんよ。何でやろうなぁ…。」


真美さんは顔を顰めた。

眉を寄せ、唇を噛む彼女を見て、

私は負の遺産を渡して

苦しめていただけなのだと思い知った。


真美「お詫びをこんな形でしか使えへんくてごめんなさい。」


首を振る。

何も言えなかった。


後日、バイトの帰り道で

また津森さんを見かけた。

その時に湊ちゃんが留年するようお願いした。

今思えば、とんでもなく狂った決断だった。

メリットしかない、と

信じかけていたのだから。

湊ちゃんを守ること、というのは

湊ちゃんを監視することへと

変化していることに気が付かなかった。


冬が終わり、

私は本来であれば大学1年生になる年へ、

湊ちゃんはついに中学3年生になった。


バイトを続ける毎日。

眠り続ける毎日。

隠れて勉強をする毎日。

湊ちゃんも勉強を頑張る毎日。

日々が淡々と過ぎていった。


湊「ゆうちゃん、ゆうちゃんっ!」


詩柚「なあに?そんなに慌てて…」


湊「受かったっ!高校、受かったよ!」


何度目かの冬がやってきた時。

春も間際、湊ちゃんは

走って私の家までやってきて

勢いよくスマホを見せてくれた。

息を切らしている。

近くには転がった自転車。


湊「1番に教えたくて来ちゃった!」


そっか。

この子はこの町を出るんだ。


感情が昂るままに

彼女は首元に手を伸ばし

そのまま抱きしめてくれた。


同日。

私自身も成山ヶ丘高校に合格していた。

心底ほっとした。

もし合格できなかったら

全ての計画が水の泡だったから。


湊ちゃんが引越し先を決めた後、

私も近くの場所に住むことにした。


湊「何で言ってくれなかったの。」


詩柚「ほら、サプライズーみたいな。」


湊「そんなんじゃないよね?」


詩柚「たまには子供っぽく引っ掛かってみるのも大事だよー?」


湊「かわさないで。うち、真剣に聞いてるの。」


詩柚「湊ちゃんがー?珍しいこともあるもんだー。」


湊「ゆうちゃんがはぐらかす時、大体いいことはない。放っておくと大変なことしかなかった。」


詩柚「信頼ないねー?」


湊「ないよ。振り返ってみなよ、今までのこと。」


詩柚「そんなの、湊ちゃんだってそうでしょー?」


湊「今それは問題じゃないでしょ。」


詩柚「はいはい。ごめんってー。」


湊「何で。」


詩柚「もうー、仕方ないなー。」


湊「…。」


詩柚「私、湊ちゃんの通う高校に定時制で入学しようと思ってるんだー。」


湊「……はい?」


心の底から私を疑う目をしていた。

冗談じゃないよな、って。

瞬時に笑顔が消え去って、

ずっと隣にいた湊ちゃんは

うんと遠くに行ってしまった気がした。

今日を除いて、あの時ほど

湊ちゃんを怖いと思った日はない。


上京したのと同時期だったか。

私の祖母が亡くなった。

財産は全て私の元に渡り、

多額のお金とあの町の山を

所有することになった。

あの、憎い人間の死体が埋まった山を丸ごと。

バイトした意味、

あんまりなかったななんて

自嘲したのを覚えてる。


お金があっても

睡眠のことが治ったとしても、

もう2度と救われない。





°°°°°





詩柚「…それから、最近また留年の可能性が出てきたのなら、それは私のせい。」


不可思議なことに巻き込まれた先で、

うちが留年するか

彼方ちゃんの弟くんが

親に連れて行かれるかの2択で

前者を選んだから。


詩柚「それから1番最初の…調べるきっかけになった真美さんと誰かの電話。…それ、私だよ。湊ちゃんのことについて情報共有をしてたの。…最後にいつもみたいに「私が殺した」って言い聞かせてくれたんだ。」


ゆうちゃんは長く細く息を吐いた。

震えていたはずの手は

落ち着き払っている。


詩柚「……湊ちゃん。」


湊「……っ!」


自分の頬を拭う。

袖に雨が降った。


詩柚「……思い出させるようなことをしてごめんなさい。」


湊「ううん、ううん……ゆうちゃんは…………何も…っ……何にも悪くない……っ。」


どうしてこんなことを

ゆうちゃんが経験しなくちゃ

ならなかったんだ。

当時の周囲の環境、

ゆうちゃんのお父さん、

そして自分に対して怒りが込み上げてくる。


湊「それに、何にも……思いだせない、よ……。」


詩柚「そっかぁ……よかった。」


なのに、ゆうちゃんは

1輪の花を見たときのように小さく笑う。


留年のことは驚いた。

けれど、ゆうちゃんのことを思えば、

捧げてきたものと失ったものを思えば

このくらい何でもない。

ましてや不可思議なこと絡みなら不可抗力だ。

たった1年。

たった2年。

あなたの苦痛と天秤にかければ

こんなの何でもない。

人の苦痛は比べるものではないけれど、

自分の悩みなんてと思ってしまうほど

ゆうちゃんは背負いすぎていた。


全てを聞いて思う。

どおりでうちには話せないわけだ。

今まで嘘をついていたわけだ。

抱えるしかなかった。

どれだけ力になりたくてもなれなかったんだ。


湊「話す前……言ったあれ、どう言う意味……だ、ったの。」


詩柚「言ったあれ…?」


湊「「あともう少し」…って、やつ。」


詩柚「ああ。それね。」


私は、と区切り、

息を吸ってまた続ける。


詩柚「父親が正式に死ねば、自由になれるんじゃないかなって思ってたんだ。」


湊「……?でも、もう……。」


詩柚「うん。だから「正式に」。あとは公的に死ねばいい。」


湊「……。」


詩柚「……行方不明のその後、どうなるか知ってる?」


湊「……!」


詩柚「特定の時間が経てば、失踪宣告ができる。……法律上、死んだことにできるんだ。」


はっとして彼女の顔を見る。

そう言えば彼方ちゃんが

行方不明になった時、

同じようなことを調べたような……。


詩柚「行方不明って2種類あってね。災害等が原因で行方不明になった場合は1年後。……それ以外の、普通の失踪は……7年後。」


湊「………ぁ…。」


詩柚「あいつが行方不明として受理されたのは、2月23日。」


湊「………あと……………い…しゅう、かん…。」


詩柚「ふふ。」


おかしくもないのに

ゆうちゃんは笑ってばっかり。


詩柚「……もうすぐで7年…あと少しで死ぬ。……もう少しだったのにな。」


湊「…………ゆ、うちゃ……。」


詩柚「でも、バレちゃった。」


まるで、靴の中に小石を入れた程度の

悪戯が知られてしまった時のように、

楽しげに顔をくしゃっとして歯を見せた。


もう少しでゆうちゃんとしての

区切りがつくところを、

タイミング悪く追い詰めてしまったのだ。

自分の行動の運とタイミングの悪さが憎い。

今立っている床が歪んだように

足に力が入らなくなっていく。

膝から崩れ落ちないよう足裏に

うんと力を込めた。


詩柚「死んだことになっても殺人に時効はないし、結局罪は一生背負い続けるしかないけどねえ…。」


湊「……っ…。」


どうしようもない事実を前に

何と声をかけるのが正解か

脳内でどれほど探っても出てこない。

慰めなんて言葉が

今の彼女に届くとも思えなかった。


彼方「ほんと、可哀想な人。」


何も言えないでいた時、

彼方ちゃんの声がした。

優しく包むような慈愛のこもった声で

突き放すようにそう言った。


彼方「大人にならない理由もよくわかった。」


詩柚「…。」


彼方「んで、高田はどうすんの。」


湊「うち…?」


唐突に話を振られてぎょっとする。

目頭に袖を当てて

彼方ちゃんが口を開くのを待った。


彼方「全てを聞きました、よかったです。…で、終わりじゃないよね?」


いろは「ちょっと、もうやめ」


彼方「黙ってて。」


いろは「…よくないと思うんだけどなー…。」


彼方「いいから。」


引こうとしないいろはを睨みつけては

またうちの方へと向き直る。

静かに響く声、鋭く尖った言葉が耳に痛い。


彼方「詩柚の罪を知りました。んで、あんたは見逃すの?見逃さないの?」


湊「…っ!」


詩柚「…。」


彼方「知った以上、その2択でしょ。」


彼方ちゃんの目が蛇のように

鋭くうちの眼球をとらえた。


痛い。


でも、彼方ちゃんが言うことも

もっともなのだ。

あらゆることを知って、

何気ない日常に戻ることを祈ってた。

これまでのように

ご飯を作って持っていって、

学校で会って話して、

たまにお泊まり会をするんじゃないかなって

漠然と思っていたし、

そうしようと思っていた。

けれど、実際話してもらうと

2人でこれまで通り過ごしている図が

思い浮かべずらい。


それに、これまで通り過ごすと言うことは

ゆうちゃんの罪を見逃すこと他ならない。

殺人犯を放置し、ましてや匿うようなものだ。


ゆうちゃんを眺む。

わかっていたかのように

俯いてゆっくり瞬きをした。


湊「…彼方ちゃんは、どう思うの。」


彼方「うちは見逃すべきだと思うよ。可哀想じゃん。」


七「可哀想って…」


彼方「詩柚が何か悪いことをした?」


七「…。」


真っ先に「した」と言いそうな

七ちゃんですら口を噤んでいる。

持っていた鞄の紐をぎゅっと掴んで、

必死に考えているようだった。


彼方「これ以上苦しむ理由もないでしょ。もう十分頑張った。この先報われたっていいと思わない?」


七「…彼方ちゃんはどうしてそこまで詩柚ちゃんの肩を持つの?」


彼方「種類は違えど同じような境遇の子を見捨てておけない。」


七「…だったら、もっと他にもたくさんいると思うんだ。…でも、詩柚ちゃんだけだよね。」


彼方「うちの話はどうでもよくない?関係ないし。」


七「どうして詩柚ちゃんを庇うのか知りたい。ただ単に可哀想だからなのか、詩柚ちゃんだからこそなのか。もし私情が挟まってるなら…聞きたいなって。」


彼方「はぁ。お前はいつもそう。自分がずっと正しいみたいに話す。」


大きくため息を吐く。

近くにあった机に背を向け

手をついて体重をかけた。

すらりとのびた足を組む。


彼方「1人とちゃんと向き合えば、うちの欲しい言葉をくれるんじゃないかって思った。いろはや高田みたいな、明るい部分ばっか見てる人間とは生理的に無理。だから詩柚を選んだ。」


七「…じゃあ、可哀想っていうのも見逃そうって提案するのも…もし自分がそうされる側になった時に庇って欲しいから?」


彼方「多少はそうかもね。でも、今の話を聞いてたら普通に可哀想って思うでしょ。詩柚じゃなかったとしても同情はする。」


七「…。」


彼方「人間は心が救われてこそ生きれるじゃん?詩柚は「楽になりたい」って言ったのを聞いてから、この子が生きる道があったってよくねって思い続けてる。」


「これまで死んでるように生きてたんだし」。

そうひと言付け加えて

いろはを顎でさした。


彼方「次、いろは。」


いろは「え、私ー?」


彼方「一連の話を聞いた以上は。」


いろは「私は…んー…どっちでもいいかな。羽元さんの思うままに決めていいと思う。私たちがどうするべき、とは言えないんじゃないかなー。」


彼方「はぁ…ほんとに人に興味ないよね。次、七。」


七「…。」


数秒の間が空いても

七ちゃんは返事をしなかった。

うんと悩んで、小さく唸って、

鞄の紐をぎゅっと握る。

1分経っただろうか、

それ以上だろうか。

俯いたままようやく声を絞り出した。


七「……真実は…辛いものもある。仕方がないように見えることも…たくさんある。でも、殺人は悪いことだよ。」


詩柚「…。」


彼方「お前は感情を切り落とすんだ?」


七「悪いことをしたんだから…私は見過ごせない。」


詩柚「…世の正しいを遂行することが正義だしねえ。…探偵になりたいって言うんだから納得だよお。」


七「それもある。それに…。」


手に力を込めて、顔を上げる。

真っ直ぐゆうちゃんの方を見ていた。


七「…罪だって自覚があるんなら、償う機会があった方がいい。」


詩柚「…。」


七「確かに詩柚ちゃんは被害者で、事件は起こるべくして起こった。」


殺人は仕方のないことだった、

とは言わなかった。


七「でも…見逃しちゃったら…事実上は悪いことをしたっていう記憶で残っちゃう。時間をかけて、許される経験をした方がいい。そしたら…記憶は残ってても、悪いことはもう許されたって…背負うものはもうないぞって思えるから。」


湊「…っ。」


償いのチャンスを与える。

それも真っ当な意見に思えた。

優しくしない優しさを持つことが

正しいことだってある。

…けど、それをするほど

罪を背負う必要はあるのか。

ゆうちゃんが背負っているのは

被害に遭った時の

生々しく嫌な記憶、

そして殺人したことそのものではなく、

殺人した上でうちの隣に

居続けることへの嫌悪感ではないか?


それは、たとえ償う機会があったとして

拭い切れるものだろうか。


拭い切れたと思えるほどの

終着点はあるのだろうか。


彼方「高田は。」


湊「うちは……。」


ゆうちゃんのことをずっと見てきたのに。

ずっと一緒にいたのに、

何故かあなたがちゃんと見えない。

ちゃんと掴めない。

全く別の、知らない人になってしまったみたい。

触れたら消えてしまいそうな彼女に

手を伸ばすことなどできやしなかった。


湊「……決め切れない。」


彼方「はぁ?」


湊「ゆうちゃんの意見を聞きたい。うちが先に言ったら、ゆうちゃんは絶対そうしちゃう。…だから、ゆうちゃんが答えを出した後に…言う。」


詩柚「…私は、湊ちゃんの言ったことに従うよお。」


当然のように

幼馴染はそう言う。


詩柚「1番大切な人で、今回の1番の被害者なんだから。」


湊「…どっちが、いいの。」


ゆうちゃんがひと言、

こっちがいいと言ってくれれば

うちはそっちを選ぶのに。

ゆうちゃんの人生なんだから

ゆうちゃんが決めていいのに。

ゆうちゃんが、幸せになれる方がいいのに。


わかっている。

こう聞いたとしても、

あなたははにかむだけってことも。


詩柚「湊ちゃんが決めた方。」


自分で幸せを掴もうとしないことも。


今日に限って最後まで泣かなかったあなたと

どう過ごしていけばいいのだろう。

答えが出ないまま日が暮れていく。

誰もが口を開くのをやめた中、

1人、諦めない人がいた。


七「…じゃあさ、1週間後の…死亡が確定する前日まで悩もうよ。」


湊「…いいの、かな。」


七「だって焦ってもここで考えてても答えは出ないよ。ゆっくりお風呂に入ったり、ご飯食べたり寝たりして、落ち着いて考えた方がいいよ。」


いろは「それもそうかもー。期限はもう動かないもんねー。」


彼方「あとは2人の問題だし好きにしてくれて構わないけど。」


七「だったら来週まで考えよう。」


詩柚「…。」


湊「……わかっ…た。」


うちの答えで、

ゆうちゃんの今後の人生が決まる。

これまでうちの人生を

振り回してきた分、

やり返してもいいよとでも言いたげに

ゆうちゃんはひとつ頷いた。


西陽が柔らかく教室に降り注ぐ。

春の欠片を携えて優しく吠えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る