三、生まれ変わるボク
土曜日になった。今日はボクが生まれ変わる日だ。「spiral」に行く前に鏡を見る。長いこと慣れ親しんだ「大賢者」とも、今日でお別れだ。この髪型で過ごしたあんなシーン、こんな情景が、たんぽぽの綿毛のように思い浮かび、ちょっと感傷的な気分になる。
「あわわ」
ボクは首を軽く横に振り、そんな感傷を払う。お母さん、ボクをどんな姿にしてくれるんだろう。クラシックな髪型って言ってたけど。よし、おめかしして行こう。クローゼットから、お気に入りの一着を出す。ボクの好きなロリータ服ブランド・Baby, the Stars Shine Brightの、Mariesセーラーワンピースだ。背中ファスナーを少し下げて、頭からかぶる。後ろ手にファスナーを上げて襟元のホックを止めた。鏡の中のボク。後ろも前も四角い、二本ラインの入ったセーラー襟。黒地に白襟がよく映える。襟の端にも、袖にもスカートの裾にも、レースの縁取り。胸元には黒い蝶ネクタイが縦に三つ。お腹には大きな黒いリボン。すごくかわいくて清楚だ。厚い花弁の花のように、しっとりと、しっかりと存在を主張している。そんなこのワンピを着ると、女の子の中の女の子になれた気持ちがする。…でもちょっとキツいな。肩と胸が特に。むくむくガタイがよくなるボクの身体。嫌だよ着られなくなっちゃうの。大好きな服なのに。
そんな不安を抱きつつメイク。丁寧にする。好みのピンクのアイシャドーと、赤々とした口紅を塗る。目元も頬も鮮やかに仕上げる。服でもメイクでも、精一杯に、かわいいボクを演出した。
「うん、いいね」
もう一度鏡の中のボクをチェックして、ボクはポシェットを肩からかけ、家を出た。ガタイの不安はあるけれど、胸はドキドキしてくる。ボク、生まれ変われるんだ。
午後一時に来るように言われてるので、その時刻きっかりに「spiral」の入り口をくぐる。中には大勢の従業員さんたち。お母さんのツインテール。お客さんの髪を切り整えながら、ちらりとボクのほうを向いて、手を振ってくれる。仕事をしてるときのお母さん、まるで小春の太陽のように穏やかで、柔らかで、そしてそれでいて颯爽としている。そんなお母さんが誇らしい。
「御幸さん、お待ちしておりました」
ボクの前に立つ美容師さん。佐藤寿美さんだ。ボクにケンカを教えてくれた寿美さん(「光が丘(ひかりがおか)の寿美」といえば菜津宮で知らない人はいない)は、この店のトップスタイリスト。そして長年、ボクの髪を切ってくれている。
「こんにちは寿美さん。ボク、昨日またケンカに勝ちましたよ!蹴りとパンチの二発で片付けました」
寿美さんは満足げに目を細める。
「強くなりましたね御幸さん。一撃が鋭くなっていると思います」
「ありがとうございます。これも寿美さんのおかげです」
「いえいえ、御幸さんの才能ですよ。さあ、それではシャンプー室にどうぞ。髪型のオーダーは店長から既に聞いております」
「はい、お願いします」
シャンプー席に座る。椅子が後ろに倒され、寿美さんがボクの髪を洗ってくれた。その手つきは柔らかで、菜津宮じゅうの人から恐れられたケンカ十段女子の手とは思えなかった。そして洗い髪をタオルに包まれ、施術席に行く。寿美さんが後ろに立ち、タオルを取った。
「それじゃあカットしていきますね。結構切ります。御幸さん心の準備はいいですか」
「あわわ…、は、はい…」
えー、どれくらい切るんだろう。そう思ううち、寿美さんの鋏が、ボクの襟足のかなり上のほうにジョキッと入る。ん?ほんとにかなり切ってる?さらに寿美さんが髪を切り進める。じっとうなじに神経を集中させると、鋏は一直線じゃなくて、緩やかに円弧を描くように進んでいることが感じられた。サイドに行くにつれて髪が短くなる。やがて寿美さんは、ボクの耳たぶが見えるくらいのところで、横を切り揃えた。それまで顎を過ぎるくらいまであった髪が、次々と大量に切り落とされて床に落ちていく。その様子は、落下盛んな時期に一陣の風を受けた桜を思わせる。ボクどうなるのかなあ。
「寿美さん、ボクの新しい髪型、なんて言うスタイルなんですか?」
「マッシュルームカットです」
「あわわ…、マッシュルームカット?」
聞き慣れない髪型に、思わず口癖を出しておどおどしてしまうボク。
「はい。後ろから前まで、円いカットラインでくるっと繋げて切ります。シルエットがちょうどキノコのかさのように見えるので、その名前があります」
なるほど…。ボクは改めて鏡を見た。まだサイドと後ろを粗く切ったばかり。これから前髪だ。「大賢者」の長い前髪が前に梳かし落とされて、鼻先まで垂れている。
「それじゃあ引き続き切っていきますね」
「はい」
寿美さんが、ボクの耳たぶから鋏を入れ、前に向かって切り進めていく。その言葉通り、髪はボクの顔を囲む円弧を描いた形で揃えられてきた。伸びた前髪がジョキジョキと切られ、あっという間に──シャボン玉ができてから割れるまでの時間より短いくらいに感じられた──眉上で揃ってしまう。あわわ…、ボクこんなに変わるの?
「さあ御幸さん、一応ざっと切りました。襟足きれいにしますから、ちょっとうつむいてください」
そう言って寿美さんは脇のワゴンから産毛バリカンを取る。ボクはぐっと下を向いた。刃先がうなじに触れる。ジョリジョリジョリっと音がして、たくさん毛が剃られた手応えがある。その手応えが、なんか気持ちよくて、思わず「あわっ」と声が漏れた。そしてその後もバリカンは何度もボクのうなじの上を走る。うなじがスースーしてる。何センチ切ったんだろう。バリカンが終わるとヘアブローだ。これまでとは違って、ずっと短いから、ものの数分で乾く。鏡の中に、ほんとにキノコのかさを被ったような姿になったボクが映った。あわわ、こ、これがボク…?もう「大賢者」の面影はどこにもない。
「ではカットライン整えていきます」
寿美さんは再び鋏を手にした。ちょっとほてった(生まれ変わって興奮してるかなボク)肌に冷たい刃が当たる。チョキッ、チョキッ、と寿美さんの鋏が、慎重に少しずつ、巣をかける蜘蛛が糸を吐くように進む。そのたび、ボクのカットラインの細かい乱れが整えられる。襟足から耳たぶ、そして前髪へと、寸分もギザつきのない美しい円弧を描いたマッシュルームカットが出来上がっていく。
「はい、じゃあ御幸さん、横と後ろ確認してください」
カットが終わり、寿美さんから手鏡を渡される。椅子が回され、まずサイドを見た。あわわ…。眉毛を見せた前髪から、耳たぶを見せた横、うなじに至るまで、緩やかできれいな曲線で揃ってる。今まで毛先はどちらかというと不揃い気味になってたから、これは新鮮だ。続いてさらに椅子が回る。後ろ姿が見えてきた。サイドから後ろ下がりに円く続く(真後ろの襟足だけ真っ直ぐにしてある)カットラインが、これでもかっていうくらいに精確に揃っている。きれい…。なんかボクこんなにきれいになっちゃっていいの。そしてうなじ。それまで後ろ髪に隠されてたのが、もうガウンの襟元からカットラインまで五センチ、白い肌が見えてる。そしてその白い肌に、逆富士山型に広がる、薄青い影。そうだ、この部分をバリカンで剃ったんだ。すごく整ってていい。やった。これはかわいい。嬉しい。自分のドキドキを自分で聞けるくらい、胸が高鳴る。
「大丈夫ですか?どこか不揃いでしたら整えますよ」
「いえ。すっごくきれいです!寿美さんありがとうございました」
ボクはもう一度鏡を見た。これ以上ないほど美しく整えられたマッシュルームカット。確かに、顔がキノコの柄、髪がかさに見える。表面は水鏡のように滑らかで、電灯を反射して天使の輪ができている。ボク…ほんとに生まれ変わったんだ…。
「お!みーちゃん仕上がったわね」
お母さんが寄ってきてくれる。
「うんうん、みーちゃんかわいくなったわよ」
お母さんがうなずきながら、満足げにそう言う。ボクは顔を輝かせた。
「あわわ…、ほんとう?お母さん、ボクかわいくなった?」
「うん、なったなった。みーちゃん、頬から顎のラインがきれいだから、マッシュルームとてもよく似合うよ。お母さん、新しいみーちゃん大好きだな」
やったぁ。お母さんがボクを大好きでいてくれる。それならボクも、この新しいボク自身を大好きになれる。
「ありがとう、お母さん!」
「これからも私のかわいいみーちゃんでいるんだぞ」
「うんっ!」
お母さんは寿美さんに向き直る。
「ありがとう佐藤さん。今回もかわいい仕上がりね」
「これでよろしかったでしょうか」
「ええ十二分よ。佐藤さんになら、みーちゃん安心して任せておける。これからもよろしくお願いね」
「光栄です。こちらこそよろしくお願い致します」
寿美さんはお母さんに丁寧に頭を下げると、ボクのガウンを取った。立ち上がるボク。
「今日はみーちゃんお気に入り着てきたのね。えーと、レリーズセーラーワンピースだったかな?」
「あはは、違うよお母さん、Mariesセーラーワンピースだよ」
マッシュルームカットにこのワンピが、すごく似合ってる。ボクほんとにかわいくなれた!
「みーちゃん、お母さんと一緒に帰る?」
「うん!」
「そう。お母さん、今日は五時上がりなの。まだ三時間くらいあるけど、待合で雑誌でも読んで待っててね」
「わかった」
ボクはお母さんの言うことを聞いて、待合でお母さんを待った。あらかた雑誌を読み終わっても時間があったので、遥たちとグループラインした。髪切ったよと書くとみんな驚いてたけど、月曜日にボクのニューヘアを見るのを楽しみにしてる、と言ってもらえた。それが嬉しかった。
五時、お母さんの仕事が終わる。ボクとお母さんは連れ立って「spiral」を出た。学校のこととか、遥たちのこととか、道すがらお母さんといろいろ話す。そのときのボクはきっと、雨上がりの後の陽射しのようにいきいきとしていただろう。そして家に帰ってきた。玄関、開いてる。父親帰ってきてるな。今日も帰りが早い。土曜日だけどこいつ仕事か?何にせよ大方また課長に追い帰されたのだろう。扉を開けて、家の中に入り、二人で廊下を進む。リビングに出た。父親がテレビを見ていた。ボクたちの気配を感じて、父親が振り向く。
「なにっ!」
やにわに立ち上がる父親。顔には(もう見飽きた)怒り。こいつまた何か怒鳴ってくるな。お母さんがボクを守るように、半歩前に出る。
「御幸っ、何だそのふざけた髪は!それにまたそんなケバケバしい服を着やがって!」
「ふん」
ボクは父親に鼻を鳴らして応える。こいつに対してはひたすら軽蔑あるのみだ。
「あんたには関係ないよ」
「何だとっ‼︎」
ズカッと歩み寄る父親。こいつは、ボクのやることは一から百まで気に入らない。こっちももう、こいつのことなんて親だなんて思ってないからいい。
「どこまでふざけたやつだてめぇは‼︎ガキの頃から女の腐ったようなことばかりしやがって。挙げ句の果てはその髪かっ。今度という今度は我慢ならねぇ。てめぇの根性を叩き直してやる‼︎」
向かってくる気かこいつ。悪いけどこんなやつボクの相手じゃない。でも父親はそう怒鳴った後、くるりとボクたちに背を向け、戸棚の中をまさぐった。何をする気?
「これだっ‼︎」
父親が手にしたのは、電動バリカンだった。いつもお母さんに頭を刈られる(父親は丸坊主にしている)ときに使っているものだ。そのバリカンを持ち、父親は、狂犬病にかかった犬のようにボクに迫った。
「これでてめぇを男に相応しい格好にしてやる。おとなしくしやがれ!そんなふざけた髪はこれで終わりだっ」
「嫌だっ、あんたの思い通りになんてなるもんかっ」
逃げるボクの肩を、父親の腕がつかむ。
「黙りやがれ‼︎父親に逆らう気かゴラっ‼︎」
揉み合うボクと父親。バリカンがボクの髪ぎりぎりのところをかすめる。こいつっ、お母さんの大事なマッシュルームを!
「やめてっ、嫌だあああっ‼︎」
ボクがそう叫んだ、そのとき、
「やめなさい!」
凛とした声が響く。お母さんだ。お母さんが、バリカンを持った父親の腕をねじり上げている。お母さん…。
「いてっ、痛ぇ痛ぇっ、離せこの野郎っ‼︎」
「みーちゃんの髪は私が作った髪です。あなたに口出しはさせません」
痛みに顔を歪めながらも、父親はバリカンを動かそうともがく。
「てめぇらっ‼︎母親も母親なら、子どもも子どもだっ。俺がこれで、てめぇらの頭を俺の思うがままにしてやるっ‼︎」
なおも暴れる父親。その父親に、お母さんの最後通告。
「それなら離婚しますよ。私に寄生しないで生きていけますか」
お母さんがそう言った瞬間、父親の動きがぴたりと止まる。
「う…ぐっ…」
悔しさと憎しみを、父親は顔に満たす。お母さんはその後も、念を押すように父親の腕をねじり続けていたけど、やがて腕を離した。がっくりと床にくずおれる父親。ふん、惨めなやつ。
「寝室に下がってください。あなたの顔は見たくありません。早く」
お母さんの声、ボクには限りなく優しくて温かいけれど、父親には氷のような響きだ。ざまあみろ、それがあんたにはいちばん相応しいんだ。
「……………」
一言も言葉を出せず、父親はリビングを出ていく。お母さんがボクに向き直る。その顔は、いつものお母さんの顔だ。ホッとして、ボクはお母さんに抱きつく。
「あわわぁ…お母さん!」
「よしよしみーちゃん、怖かったわね」
お母さんが、ボクの切りたてマッシュルームカットを、ゆっくりと撫でてくれる。
「お母さんがみーちゃんを守ってあげる。だから何も心配しなくていいのよ」
「あわわ…うん…」
ボクはお母さんの胸に顔を埋めた。そんなボクを、お母さんがぎゅっと抱きしめる。そうしてお母さんとボクは、ずっと抱きあっていた。
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クリボーの歌 徳間・F・葵 @hhivy725
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