二、ボクの友だち

カレンダーと時計を見る。十一月四日・金曜日。朝の五時十分。飛び石連休の中日だ。目覚ましは六時にセットしておいたから、それより早くに目覚めている。愛実(まなみ)お母さん、まだ寝てるかな。顔にかかる長い前髪を後ろに払う。今朝も学校に行く前は、シャワーを浴びて、その後お母さんにヘアブローしてもらうんだ。リビングに降りて行く。あ、お母さん起きてきてた。

「お母さん!おはよう」

「あら、みーちゃん」

お母さんが振り向く。今年で三十八歳になったお母さんだけど、腰まである長い髪を初音ミクみたいなツインテールにしてるのが、すごくかわいい。顔立ちも、目鼻立ちが上品で瞳は奥深い。美人だと思う。世界でたった一人の、ボクのお母さん。ボクのありのままを、ボクの髪一本一本の毛先に至るまで、ありのままに愛してくれる。だからボクは、今日も笑っていられる。

「早起きさんね。いつも寝起き悪いのに、今朝はどうしたの?」

「あわわ…。ちょっとうなされて、起きた」

「うなされた?どんな夢見たの?」

「お稚児行列の時の。お母さん覚えてる?」

「ああ、あれね」

明けきらない朝の、薄暗い蛍光灯の光の下で、お母さんの顔がちょっと曇る。

「覚えてるわよ。あの人が荒れて厄介だった」

お母さんは父親のことを「お父さん」とも「秀太郎(ひでたろう)さん」とも呼ばず、「あの人」と呼ぶ。

「だけど…」

ボクはお母さんの瞳を見つめる。

「お母さんが、かんざしするの許してくれて、ボク嬉しかった」

「よかったわ」

お母さんが、かわいらしく微笑む。ツインテールが放つ艶が美しい。丁寧にブラッシングされたテールの表面が、御影石のような光沢を放っている。有名美容師だけあって、その髪はきれいだった。

「みーちゃんはいつでも、みーちゃんが望むみーちゃんでいればいい。私はそれを支えるから。だからみーちゃんは堂々としてるのよ」

「うんっ」

ボクも微笑む。ボクの望むボクでいればいい。お母さんはいつもそう言って、ボクを支えてくれる。ボクは確かに少数派かもしれないけど、お母さんがいれば、万人億人が後ろについているより心強い。

「それじゃあみーちゃん、ちょっと早いけど、シャワー浴びてらっしゃい。上がったら、髪型作ってあげるから」

「わかった」

うなずいてボクは、お風呂に向かった。途中、父親の寝室の前を通る。下品で大きないびきが、廊下まで聞こえてきていた。小山家のゴミめ。「ふん」とボクは鼻を鳴らして、バスルームに入る。蛇口をひねってお湯を出した。熱いシャワー。まとわりついていた寝汗が流される。顔と髪と身体を丁寧に洗って、出た。バスタオルで身体を拭い、下着を着けてリビングへ戻る。

「あら、みーちゃん上がったのね。それじゃあヘアブローするわよ」

「うん」

ボクはリビングの椅子に座る。お母さんがドライヤーとロールブラシを持ってくる。スイッチが入り、温風がボクの洗い髪に当たる。パタパタと水分が払われ、手櫛で大まかな形を作るお母さん。優しいその手つきがボクの心を温める。口に含んだホットミルクが心にしみ渡っていくような、この時間が大好き。

「ねえみーちゃん」

「うん?何お母さん」

お母さんはロールブラシで、ボクのサイドの髪を取り、ドライヤーを当てながらぐいぐいと流れを作る。ボクの「大賢者」ができ上がっていく。

「みーちゃん、その髪型にしてもう二年くらいにならない?」

「あわわ…そんなに経ってるかな」

「ええ。お母さん、みーちゃんの新しい髪型、そろそろ見たいな」

ロールブラシとドライヤーが、今度はボクの後ろ頭に回る。手際よくブローしてくれるお母さん。

「お母さん、今度はどんな髪型にしてくれるの?」

ちょっとドキドキしながら、ボクはお母さんに聞く。お母さん、またボクをかわいくしてくれるんだね。

「そうねえ。今度は、お母さんがちっちゃかった頃に、みんながしてたスタイルにしようかって思うの。ちょっとクラシックな感じが、みーちゃんによく似合うわよ」

「あわわ…、楽しみだなあ」

こうして、ボクは明日土曜日、ボクの住む街・菜津宮(なつみや)の中心部にあるお母さんの美容室「spiral」に行く予定を決めた。ボクの新しい髪型、お母さんどうするんだろう。わくわくする。


お母さんにヘアブローしてもらって、今日も「大賢者」ができる。でもこれ、今日が最後なんだなあ。そう思うとちょっと名残惜しい。その後、お母さんが作ってくれた朝食を二人で食べる。ちなみに父親は、いつも出勤ギリギリまで寝ていて、ボクが家を出た後、そそくさと食べて会社に行く。お母さんといろいろ話しながら朝食にしていると、やがて玄関の呼び鈴が鳴った。

「あ、遥ちゃんね」

とお母さん。ボクは席を立って玄関に行き、ドアを開けた。

「よ。おはようみゆ。今日はもう起きてんのか」

紺地に大きな白い襟のセーラー姿で片手を上げた佐伯遥が、玄関口にすらりと立っている。長身で、身長はボクと同じ百七十センチだ。毎朝学校へ行くときは、こうしてボクを迎えに来る。

「あわわ…、おはよう遥。うん今日はちょっと早かった。上がる?」

「あわわ…、あんがと。んじゃお邪魔〜」

遥はニヤリと笑って、ボクの口癖を真似する。何かあるとボク、すぐに「あわわ」って言ってしまう。小さい頃からのクセだ。

「嫌だよ遥、真似しないでよー」

「あわわ…」

「遥ったらぁ」

そんなふうにじゃれあいながら、遥は遠慮もなくボクの家に上がりこんだ。家も隣どうし、お互い赤ちゃんのときからの付き合いだ。もう家族同然。遥はボクにとって「同性」だけど、仮に異性だったとしても、遥を女の子として意識することはないだろう。そんな遥をリビングへ導く。お母さんがニコニコと、まるで心地よい春風を身に受けた時のように笑って遥を迎え入れた。

「おはよう遥ちゃん。今朝も元気そうね」

「おはようございます」

遥も微笑んで頭を下げる。

「おかげさまで元気にしております。お母さんご機嫌いかがですか」

遥の、高くて甘ったるいベビーソプラノがリビングに響く。こいつ赤ちゃんのときからこんなアニメ声だ。そして遥はボクに対するときは言葉遣いも乱暴だけど、よその人の前では急にお嬢様お嬢様した物腰になる。外づらがいい。だからお母さんも「遥ちゃん、遥ちゃん」と言ってかわいがっている。そんな、ちょっといいカッコしいな遥が小憎らしい。

「ありがとう遥ちゃん。今日もいい朝を過ごさせてもらってるわ」

「それは何よりでした」

そう言ってまた微笑む遥。あまり意識して見ることはないけど、時折、遥の顔立ちが気になることがある。遥は美少女だ。背中まで流れた深い闇色をしたストレートの髪、眉下の前髪の下には、ボクと同じ、ぱっちりした二重まぶたの大きな瞳。その色も黒々として、見つめあっていると吸い込まれてしまいそうな気になることもある。鼻も口も大ぶりで存在感十分。そしてこのベビーボイス。合唱部で歌うと、澄みきって声量の豊かなソプラノになる。ちなみに遥はD6まで出せる。ボク一音遥に負けてる。それが悔しい。何はともあれ遥は「女」のボクから見ても、魅力的な子だ。なんか、家が隣+幼なじみ+美少女だなんて、どっかのギャルゲーにでもありそうなシチュエーションだな。だけど何にしても距離が近すぎるから、そんなかわいい子がボクの隣に住んでいるとは、あまり思えない。

「遥ちゃんはもう朝ごはんは済んだの?」

「はい、食べてきてます」

「そう。じゃあもうみーちゃんと二人で登校するばかりかな」

「はい」

遥はそう返事をすると、両手でボクのセーラーの肩をポンポンとたたいた。

「行くぞみゆ。忘れ物してねぇか。今日もビビッてちびるんじぇねぇぞ」

「あわわ…誰がちびるんだよお」

苦笑いするボク。遥、お母さんからボクに向き直るとスイッチがころっと変わって口が悪くなる。

「忘れ物は大丈夫。もう行くばっかり」

「よし」

ボクは鞄を持ち、席を立った。遥と二人で、玄関口に立つ。お母さんが見送ってくれる。

「行ってらっしゃい、みーちゃん、遥ちゃん」

そしてボクたちは家を出た。


通い慣れた通学路を、いつものように遥と肩を並べて歩く。十一月初旬の朝は、もうかなり冷えて、季節は晩秋から初冬に移ろうのを感じさせた。吐く息も白い。道ばたの雑草の葉には、白い霜が降りている。セーラーは厚地だけど、そのセーラーにも寒さがしみ通ってくるような心地がある。そんな中、さっきから遥は、スマホから目を離さない。

「ドラドラドライブ?」

ボクがそう聞いても、遥は顔を上げない。

「ったりめぇだ。見てろよみゆ、『原源(はらげん)』の前に『ブレンツェル』がいんだ。常設だからっていいかげんD続きであたしもガマンの限界なんだ。今朝こそキメてやるぜっ!」

「あわわ…」

戸惑うボクを置いて、遥はずんずん歩みを早める。ブレンツェル?常設?D?キメる?なんのことだかボクにはさっぱりわからない。でも遥は夢中だ。やがて近くのスーパー「原源」の前に来る。

「よし。気合い入れるぞ」

遥はスマホと荷物を一旦下ろすと、両手で黒髪を持ち、頭の上近くで高くポニーテールに結い上げた。遥は、たとえば合唱コンクールのステージに上がる直前とかの、気持ちをピンとさせたいときに、ポニーテールを結うクセがある。だからたぶん、このブレなんとかも、コンクール並みに気合いが要るんだろう。ボクには何のことか全然わからないけど。何にしても遥は、ピンクのヘアゴムで二重、三重に、太くて量のある髪束をきつく縛る。遥のうなじが見えた。一対の頚椎がぐりぐりぐうっと浮き出た、遥のうなじ。遥がポニテを結うと、いつも見えてくる。おくれ毛の向こうの、白い肌。確かに、ちょっと艶っぽいな。あれ…、なんかボクのスカートの下が動いたような…。気のせいかな。

「みゆ、おくれ毛止めてくれ」

遥がボクにヘアピンを渡してくる。

「うん」

「丁寧にやれよ。おくれ毛一本垂れてるかどうかで、SがDにもなんだかんな」

「あわわ…」

よくわかんないけど、めちゃ丁寧にやらなきゃいけないらしい。ボクは、遥のおくれ毛一束一束を細かく手に取り、ピンを挿していった。うつむいた遥のぐりぐりうなじに、ボクの指が触れる。遥の温もりが伝わる。

「うん止めたよ」

「よっしゃ!気合い十分だぜっ」

再びスマホを手にする遥。「いくぞおっ」と言いながら画面をタップする。スマホで何か始まったようだ。そのとき、

「おいっ、てめぇ小山御幸だなっ!」

いきなり背後から怒鳴り声がかかる。見ると、古臭いリーゼントヘアにした、見慣れない男が立っていた。イキリたってはいるけど、そのイキリようが見た目にも素人っぽい。一目で、大したやつじゃないことがわかる。そしてその脇に別なやつらが二人いる。こいつらは見覚えがある。この前ボクに絡んできたとき倒してやったやつらだ。

「浦野(うらの)やめとけ。こいつヤベェんだ」

二人のうち、髪の長いほう(飛上(ひかみ)とか言った)が、浦野というリーゼントに言う。すでに声がビビっている。

「やめようぜ浦野。お前が相手になれるやつじゃねぇ」

もう一方、赤い髪をこれまたご丁寧なリーゼントにした男(桑島(くわしま)という名前だった)も、すでに顔に恐怖を浮かび上がらせて言う。でも浦野が怒鳴る。

「うるせえどヘタレが!てめぇらはそこで見てやがればいい」

そして浦野がボクに向き直る。素人っぽいとは言いつつも、目の輝きはそこそこある。そんな目をギラつかせながら、浦野がボクに怒鳴る。

「小山!てめぇか、ふざけた格好で校内をふんぞり返っているってやつは!男がセーラーなんぞ着やがって、ナメてんじゃねぇぞっ!てめぇみてぇな男おんなに牛耳られるほど、この宮高(みやだか)中は甘くねえ!俺が転入してきた限りは、てめぇは俺に這いつくばるんだっ!」

「あわわ」

「『あわわ』だとっ!てめぇ…てめぇどこまでもふざけやがって!」

怒気をみなぎらせる浦野。なるほど、浦野は転入生か。宮高中でボクに突っかかってくるやつは、残らず始末してやったつもりだったけど、転入生じゃしょうがないな。

「あわわ。御託はそれだけ?じゃあさっさとケリをつけよう。かかっておいで」

「あわわあわわとうるせえっ‼︎よしっ、ならいかせてもらう。だああああああっ‼︎」

浦野はボクに突進し、右フックを頬に浴びせた。確実にヒットするパンチ。でもボクは微動だにしない。

「あわわ。ボクは今、殴られたの?それとも、蚊でも止まったの?」

それほどの、弱々しいパンチだった。こんなパンチなら、小一にだって打てる。こいつ、口だけ勢いずいて、やっぱずぶの素人だ。

「な、なに…。俺の、パンチが…」

驚愕の表情を浮かべる浦野の身体を、ぐいッと押しやる。

「そら、もう一度チャンスをあげるよ。全力でくるといいよ」

「クソがっ、ナメやがってっ‼︎」

浦野が飛びかかってきた。


「いいですか御幸さん。相手が身体ごとぶつかってパンチを繰り出してくる時は、瞬時にそれを見切って、相手の背後から倒すんです。相手の勢いを利用するんですね。落ち着いて、相手から決して目をそらさないでください」

ボクのケンカの師匠・佐藤寿美(さとうひさみ)さんの言葉を思い出す。「人と違う道を行くなら、誰よりも強くなければいけない」というお母さんの意向を受けて、寿美さんがボクを強くしてくれた。だからボクはケンカで負けたことがない。その寿美さんの言う通り、ボクは浦野の体当たりを余裕で見切る。

「ぐわっ⁉︎」

相手を見失った浦野が、肩透かしを食らって前に突んのめる。その首元にボクの回し蹴りがヒットした。「ぐうっ‼︎」と叫んで涎を散らしながら、きりきり舞いする浦野。


「蹴りを与えた後はパンチです。親指を外に出した拳で、手首をまっすぐにして放つんです。相手の頭を力の限り打ちます。そうすれば相手は倒れます」

寿美さんの教え通り、ボクは浦野にパンチを見舞った。

「うがあっ…」

あっさり倒れる浦野。蹴りとパンチの二手で勝負は決まった。ふん、口だけでイキるやつめ。どっかの父親と一緒だ。こういうやつがいちばん嫌いだ。

「浦野っ」

飛上と桑島が浦野に駆け寄る。

「あわわ…。もう終わりなの?」

ボクは浦野の頭を踏みつけながら、そう言う。

「う…ぐっ、こ…やま…」

足を離すと、飛上と桑島が浦野の肩を抱き抱える。そして桑島。

「わかったろ浦野。こいつヤベェんだよ。俺たちがかなう相手じゃねぇんだ。ずらかるぞ」

三人はすごすごと逃げていった。

「おぅ、終わったか。こっちも済んだぜ」

遥がやっとスマホから顔を上げる。遥ったら、ボクが絡まれている間、ずっと「ドラドラドライブ」ばかりやってた。

「ブレンツェル、珍しくAだ。ポニテ結った甲斐あって収穫だぜ。さあみゆ、行こ行こ」

「遥、見守ってくれててもよかったじゃない、ボクが戦ってるとこ」

少し口を尖らせるボクに、遥はニヤリと笑いかける。

「見守るまでもねぇさ。あんな雑魚、みゆの相手じゃねぇことなんて、わかりきってんからな。さあ行くぞ」

一足す一は二だ、と言うよりも当たり前な口調でそう言う遥。そしてポニーテールを揺らしつつボクの後ろに回り込むと、背中を押した。そしてまたボクたちは通学路を歩き始めた。


男の子なのになんで「みゆき」って名前なの、とよく聞かれる。これは父親がつけた名前だ。ボクが生まれた四月八日、菜津宮の地に天皇陛下がやってきた。天皇が来ることを「御幸」という。それに因んで付けられた名だ。でも父親はボクにその名前をつけたことを後悔している。「うっかり女みたいな名前をつけたばっかりに、イかれやがって、女ものばかり好きこのむようになった」と嘆く父親だった。その嘆きようは「悩乱」という大袈裟な言葉が似合った。

そしてその父親の「悩乱」通り、ボクは物心ついたころから、女の子が遊ぶような玩具が好きだったし、女の子が着る服を着たがったし、女の子のような髪型になりたがった。外では当然女子トイレに行こうとした。ボクがそう求めるたびに、父親はボクを殴ろうとしたけれど、そこからいつもお母さんが守ってくれた。お母さんはボクの好きな玩具をなんでも買ってくれたし、かわいいワンピやブラウスも着せてくれたし、ボクをきれいな髪型にもしてくれた。ボクはお母さんによって女の子として育てられ、女の子として堂々と過ごした。相変わらず男根は邪魔だったし、段々と筋肉質で骨太になっていく身体はどうしようもないけれど、それでもボクは満足だった。ボクと同じLGBTの人たちの中には、身体の性と心の性の違いに悩んで、時に「死ねば心の性に生まれ変われる」と自殺すら考えている人もいるという。そんな人たちと比べて、自分は恵まれていると思う。

そしてボクは、今日も宮高中に登校する。遥と二人、昇降口で上履きに履き替え、廊下を歩き、三年一組の教室に入る。室内の喧騒が、ボクが入ると同時に、まるでミジンコが沈む音すら聞こえるようになるくらい、ピタッと静かになる。視線が刺さる。嫌悪、好奇、恐怖の入り混じった視線だ。それを一身に浴びて、ボクは自分の席に着く。

「おはおはなの、大賢者、はーちゃん」

「おはよう、御幸くん、遥」

そんな雰囲気の中、女の子二人がにこやかにボクと遥のもとに寄ってくる。緩やかなウェーブがかかった黒髪を、ふわふわと背中まで垂らしているのが間宮梢(まみやこずえ)、茶褐色のワンレンボブを顎のあたりできれいに切り揃えた姿が里村楓(さとむらかえで)。この梢と楓、遥とボクの四人が、学校での仲良しグループだ。ちなみに部活も同じ合唱部。ハイトーン声の梢がソプラノ、楓は低くて落ち着いたアルトだ。

四人つどっていると、相変わらずあちこちから視線。ヒソヒソ声も聞こえてくる。クラスで孤立するのはボクだけでいいのに、遥も梢も楓も、ボクと一緒にいるばかりに、ボクと同様に嫌われている。それが申し訳ない。「なんでボクといるの」と三人に聞くと、決まって「だって大賢者(御幸くん・みゆ)が好きだから」と答えが返ってくる。ますます申し訳ないし、だからこそ、この三人を大事にしたいという気持ちになる。罪悪感と、三人への愛情が交錯して、ボクの心はまだらだった。

「御幸くん、スカーフが乱れてるわ」

楓がそう言って、ボクのセーラーのスカーフを直してくれる。トレードマークの丸四角レンズの黒縁眼鏡。その向こうに、少し吊って切れ長の目をした、気の強そうな顔立ち。そんな楓だけど、その実優しい。でも、「御幸くん」という呼び方通り、ボクが女の子であろうとすることを、あまり認めてくれてないのが残念だ。

「いつも着こなしがきちんとしている御幸くんには珍しいわね。何かあったのかしら」

「うんうん、大賢者、何かあったなのぉ?」

小鳥がさえずるような声で、梢も楓の後に続いてボクに問う。百四十三センチと小柄ながら、合唱部ではその身体全部で精一杯呼吸して歌ってる。そんな梢の、小さくて円い、クリッとした瞳がボクを見つめる。ボクは浦野を始末したことを二人に話した。

「すごぉい、大賢者、いつもいつも強いなのぉ」

手をたたく梢の脇で、楓が顔を曇らせる。

「でも御幸くん、あまり暴れてたらいけないわ。そうでなくても先生から目を付けられてるのに」

「しょうがねぇだろ。降りかかる火の粉は、払わなきゃいけねぇんだぜ」

ボクに代わって遥がそう応えてくれる。

「なあなあ、それよか聞いてくれよ!今朝よお、原源とこでブレンツェル、A出たんだぜ」

「わあー、ほんと?はーちゃんすごいなのぉ、梢なんて一生懸命グレードアップして、やっとB来たくらいなのぉ。かえっちはどぉ?」

「私も振るわないわ。四連続Dね。常設だから気長にやるつもりよ」

ボクのわからない話で場が盛り上がり始めた。遥も梢も楓も「ドラドラドライブ」のプレイヤーだ。

「みゆ、話に加われねぇなー。さびしいだろ」

「あわわ…、いや、別に」

「ねえねえ、大賢者もさぁ、髪型大賢者なんだから、『ドラドラ』始めようなのー。めちゃ楽しいなのぉ」

ドラドラドライブか。あんまり興味ないんだよね。っていうかボク、ゲーム全体に興味薄かったりする。なので梢にそう言ってもらっても答えあぐねる。困っていると遥が話し出した。

「やぁ、でもなー、『ドラドラ』も始まって三年だろ、今から新規参入は厳しいぜ。だからよ、このまえYouTubeでリゴローさんが言ってたけど、『初心者応援パック』みてぇのが要るんだよ。レベルは二十くらいからで、どの色のこころもある程度のSはつけてさあ…」

クラスの冷たい視線をよそに、ボクたち四人は楽しく会話する。いいのかな、これで。…いいよね。ボクには遥と楓と梢という友だちがいるんだから。でも…、ボクは教室の、男子たちの顔を見回す。そして自然とボクの目は、松宮薫に吸い寄せられていく。遥に似た、存在感のある目鼻立ち。くっきりとした二重まぶた。にきびの一つもない、真白くて柔らかげな頬。粗くレイヤーが入れられた、少し長めの髪が顔にかかるのも愛らしい。薫…、かわいいよ。ボクをちょっとでいい、見てよ。そう思うボクのスカートの下が、また大きくなってくる。薫の学ランの背中に通る縫い目を見ただけでも、ボクの下は無遠慮に反応する。蛇め。こいつはボクの身体に宿る蛇だ。こんなの嫌だ。ボクは女の子として、薫を好きでいたいのに。だから男根が邪魔なんだ。ボクは宮刑になりたい。


今日の授業と部活を終える。合唱部では思いきり口を開けて、胸式呼吸の肩と胸と背中いっぱいに「すはあああっ」とボク独特のブレス音を立てて息を吸い込み、歌い尽くした。ボクのソプラノ。自信あるんだ。適度に甘みもあって、濁りもない、きれいな歌声だと思う。音域はC4からC6までいける。普通の合唱でソプラノ音域はC4からA5なので、ボクは自分の音域が(遥には負けてるけど)自慢だ。こんな声で歌ってるとやはり気持ちいい。何もかも忘れられる。歌を歌えるボクでよかった。そうして部活後は、遥と肩を並べて帰路をたどる。遥ったら、帰り道も「ドラドラドライブ」に夢中だ。「こういう隙間時間にこつこつレベリングしなきゃな。それが何十万何百万の経験値の差になるんだ」と、画面を見ながら語っていた。レベリングとか経験値とか、よくわからない言葉だ。こんな言葉をサラリと使えるあたり、遥もゲーマーだな。うらやましいとは思わないけど、楽しそうだからいいかと思う。

家の入り口で遥と別れて、玄関に入る。時刻は五時半。お母さんはまだ仕事中だ。でも廊下を進むと、「ぬー、ぬー」といびきが聞こえる。リビングに出た。思った通り、いびきの主は父親だった。下着姿でソファに寝っ転がり、だらしなく涎を垂らしながら眠っている。

「ふん」

相変わらずだな、こいつ。軽蔑を二つの目に集めた視線を、ボクは父親に送る。百メートル先から産廃場を眺めるような顔をボクはしていただろう。でも、ふと、こいつが今会社で何をしているのか、探ってやりたくなった。

ボクには生まれつき、特殊な能力がある。眠っている人の脇で瞑想すると、その人の記憶が読み取れるという力だ。だけど、人の心の中をのぞき見ることが憚られ、ボクはめったにその力を使わない。でも、この時はなぜか父親をのぞいてやりたい気持ちに駆られた。

ソファの脇に正座して、背筋を伸ばし、ぎゅっとうつむく。セーラーの肩を大きく上げて息を吸い、ストンと落として吐く。目を閉じ、気持ちを集中して、十秒。見えてきた──。


「なんだ小山!この企画案は。お前やる気あんのか!何度同じこと言われれば気がすむんだ!」

無精髭を伸ばした課長が、父親の向かいにふんぞり返っている。そして課長は乱暴に書類を机の上に投げ出した。

「申し訳ありません。すぐに書き直しますので」

父親の小さな声。家でのでかい態度とは大違いだ。

「書き直す?お前みたいな無能が何度書き直そうが同じだ。つくづく使えねえやつだな。まあ、最低時給なら、最低時給なりの仕事しかできねえわけか」

父親はサラリーマンだった。大卒当初はそこそこの企業に勤めてたらしいけれど、ボクが赤ちゃんのときリストラされて、他の会社に再就職した。その職場に恵まれず、こんな給料に甘んじている。対してお母さんは、店員二十人を抱える大きな美容室「spiral」の店長。収入差は歴然としていて、父親はお母さんに養われるような形になっている。だからこいつはお母さんには頭が上がらない。夜生まれたカゲロウは日が昇ると一瞬で情けなく死んでいくけど、そんなカゲロウだってこいつほど情けなくはないと思う。

「…申し訳ございません」

父親、縮こまっているな。会社でビビっているぶん、ボクには大きく当たるんだ。そう思うと腹が立ってくる。卑怯者め。ハイエナのような男だ。

「まあいい。お前、帰れ。もう今日はお前に用はない。ふん、頭だけでかくて、中身は全然詰まってねえんだな」

課長は蔑みの色を顔に満たしながらそう言った。その言葉通り、父親の頭はでかい。何等身と思う。そして父親は肩を落とし、課長のもとを去っていった。


瞑想を解いて、ボクは目を開けた。相変わらずぬーぬーと高いびきの父親。馬鹿らしいものを見たな、とボクは、さっさと鞄を手に取り、自分の部屋に引き上げる。セーラーとスカートを脱いでハンガーに掛け、下着姿(ブラはしてない。胸はないから、Aカップですら余る。悲しい)でベッドに仰向けになる。ちょっと眠い。目を閉じる。意識が途切れかけた、そのとき、

「ライン!」

スマホの着信でハッと気づく。画面を見た。梢からだ。ちなみにラインは、遥・梢・楓それぞれに個別に繋げているし、四人でグループラインにもしている。今はグループのほうからの着信だった。

『はろ〜、みんな部活お疲れなの〜。梢今日ちょっと声出なかったなの。『くもみな』のいちばん高いラかすれちゃってさぁ、梢らしくなかったなの。なんか腹筋上手く使えなくて。みんなどうだったぁ?』

梢の大きな白い吹き出し。ちなみに「くもみな」とは、今合唱部で取り組んでいる「雲はみんなの恵み」というタイトルの略称だ。最高音は梢が書く通りA5。でも梢はB5までは出せるはずだから、確かにちょっと不調だったのかもしれない。さて梢の書き込みには既読がすぐについて、まず楓がリプライする。

『お疲れさま。私は結構声出たわね。腹筋はいつも鍛えておかないといけないわ。合唱部員の命よね』

続いて遥。

『はろはろ。梢声でなかったか。そういや今日梢の声あまり聞こえねぇなって思ってたんだ。あたしも夜腹筋百回欠かさねぇぜ』

声か。今日は思いっきり出せたな。ボクは画面に指を走らせる。

『ボクもよく歌えたよ。お腹は鍛えてる。でもあまりやりすぎると、筋肉ついちゃって気になる。柔らかな身体でいたい』

『御幸くんはいいのよ。男の子なんだから。たくましくなればいい』

楓ったら、またそんなことを言う。風を失った凧のような気持ちになって、ボクは唇を尖らせながら、画面をタップした。

『あわわ…。楓、ボクは女の子だよ』

ちょっと会話が止まる。みんな何か考えてるような間があいた。でもやがて楓の大きな吹き出しが現れる。

『御幸くん、女の子になりたいのね。だけど、これから第二次性徴も始まって、御幸くん、男の子っぽくなるわ。声だって、今はソプラノだけど、だんだん音域も下がると思う』

黒縁眼鏡を光らせる楓の顔が思い浮かぶ。

『そんなこと考えたくない‼︎』

赤い二重感嘆符と、ぎゅっと目を閉じた顔文字を付けてボクはリプライした。お腹の底からそう叫びたい衝動に駆られる。本当に、そんなこと考えたくなかった。

『まあまあ、いいじゃねぇか楓、みゆは今のみゆのままでいい』

『そうなのー。男の子だって女の子だって、大賢者は大賢者なの。梢たちは大賢者がどうなったって、大賢者の友だちなの』

遥と梢の、春の野原のような温かい言葉をかみしめる。こんな友だちが(そしてお母さんも)いるから、ボクは笑っていられるんだ。

『ありがとう、遥、梢。ボクはボクのままでいいよね』

『そうだぜ。みゆはみゆだ。自信持て』

『大賢者、ふぁいとなのー』

ベッドの上で、ボクはスマホを握りしめた。楓はあんなこと言うけど、ボクは女の子だ。たとえ日が西から上ることがあっても、ボクが男になることはない。でも…、そう思うボクのパンツの下が、むくむくしてる。こいつ、薫を見たわけでもないのに、なんで今大きくなるんだ。

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