鏡の中の影

彼女はいつも鏡を嫌った。理由を聞いても、「落ち着かないの」と言うだけで、それ以上は語ろうとしない。俺は理由を聞くこともなく、彼女の言葉通りに部屋から鏡を取り除いた。彼女が嫌がるものを無理に置いておく必要もないと思ったからだ。


ある日、彼女が仕事で遅くなると言い、俺は彼女の部屋で一人過ごしていた。退屈しのぎにクローゼットを開けると、奥にしまい込んでいた全身鏡が目に入った。彼女が嫌いだと言ったそれを、ふと思い出し、取り出して部屋の隅に立ててみる。


鏡は古びていたが、特に不思議なところはない。ただの鏡だ。自分の姿を映してみても、疲れた顔が映るだけだった。


その時、玄関の鍵が回る音がした。彼女が帰ってきたのだ。


「おかえり」


振り向いて声をかけると、彼女は少し疲れた顔で立っていた。だが、彼女の視線が鏡に向いた瞬間、顔が青ざめた。


「あれ……どうして、それを……?」


彼女の声は震えている。


「クローゼットにしまってあったから、出してみただけだよ。そんなに嫌いなのか?」


俺は軽く笑ってみせたが、彼女は鏡に近づこうとしなかった。


「しまって……早く!」


彼女は叫びかけたが、俺は気にせず彼女を鏡越しに見た。そしてその瞬間、血の気が引いた。


鏡の中に、彼女が映っていない。


「な、なんだこれ……?」


何度見ても、鏡の中には俺だけが映っている。背筋が凍りつき、反射的に振り返る。そこには確かに彼女が立っている。だが、鏡の中にはその姿がなかった。


「どういうことだ?君……なんで映らないんだ?」


俺が問い詰めると、彼女は泣きそうな顔をして、ぽつりと言った。


「お願い、気づかないで」


「気づかないでって……何のことだよ?」


俺が叫ぶと、彼女は悲しげに目を伏せた。その時、言葉にならない感覚が胸を刺した。そして、その瞬間――記憶がよみがえった。


暗い道、車のライト、そして衝撃音――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る