盲腸「ただいま!帰って来ました!」

アガタ

盲腸が訪う

 子供の頃の話だ。

 僕は急性虫垂炎に罹患し、盲腸を全摘出したことがある。

 摘出しなければならないとわかった時は、一抹の寂しさを覚えたものだった。


『本当に、切り離すの?』


 主治医は幼い僕を安心させようと微笑みながら言った。


『簡単な手術だよ、何も心配いらない』


 僕は、そうじゃなくて、と言いかけたが、止めておいた。この臓器と離れたくないと言ったって、手術をしなければ、事態は僕の命にも関わる方向に発展するだろう。

 僕は手術台の上に横たわった。先生が、そっと囁く。


『すぐ忘れるよ、何もかも』


 すぐ忘れる?僕はいぶかしんで顔をあげようとした。だが、顔の上に酸素マスクが被さってきて、その機会は失われてしまった。

 点滴から、冷たい麻酔薬が僕の体に流れ込む。

 僕はそっと意識を手放した。


 盲腸を全摘出された僕は、手術が終わって、病室で目覚めた。

 僕は、起き上がって自分の腹を見た。脇腹が縫合されているはずだが、その上にガーゼが乗せられて、テープで止めてあり傷は見えない。


「ああ……」


 欠けてしまった。

 と、その時僕は思った。

 その後の生活に支障はなかった。

 それでも僕は、何かが欠けているような感覚を抱えながら、日々を生きていた。

 心の奥に、穴がぽっかりと空いているのだ。

 盲腸と一緒に、僕は何かを失ってしまったのだと思う。

 何を失ったのかは、わからない。

 ただ、その欠けた感覚はいつも僕のそばにあった。


 玄関から、訪う気配がする。

 耳を澄ますと、トントンと小さな音がドアを叩いているのがわかった。

 僕は珈琲を飲んでいた手を止め、椅子から立ち上がった。

 玄関へ向かい、ドアを開ける。


「ただいま、帰ってきました!」


 玄関先に立っていたのは、一人の少女だった。

 少女は、長い黒髪に、冬には場違いなほど薄いワンピースを着ていた。

 僕はちょっと驚いて少女を見つめた。


「どちら様?」

「帰りました!帰りました!」


 少女がしきりに言い張る。僕は気後れして、彼女にたずねた。


「家を間違えてない?」

「間違えてません!私の家はここです!」

「でも、ここに住んでいるのは僕独りだよ」

「だから!」


 少女は僕の手を取って、ぶんぶん振った。


「私、貴方の盲腸です!帰って来ました!」


 僕は少女の言葉に思わず絶句した。


「盲腸……?」


 何を言っているんだ、この子は。

 冗談にしても悪趣味だ。

 けれど、彼女の瞳は真剣そのものだった。僕の手を掴む小さな手の温かさは、なぜか妙に現実感を伴っている。


「えっと……悪いけど、君、誰かと間違えてるんじゃないか?」

「間違えてません!」


 少女はムキになってさらに僕の手を強く握りしめた。


「私、貴方の盲腸です!切り離されてからずっと、貴方のことを見ていました。でも、やっと帰ってこれたんです!」

「そんなこと、信じられな──」


 僕が言いかけた瞬間、彼女の手から僕の中に何かが流れ込んでくるのがわかった。不鮮明な映像が、僕の視界に写り、頭の中に広がる。


 それは、僕が幼い頃の記憶だった。手術台の上で麻酔を受ける直前、脇腹の奥で何かが囁くような感覚。切り離される直前に、何か大切なものが自分の中から離れていくような、不思議な喪失感。


「これ……僕の記憶?」


「そうです!貴方はずっと忘れてたけど、私は覚えていました。貴方が失ったものを、全て」


 少女の声は、どこか懐かしい響きを持っていた。僕は彼女をじっと見つめた。


「……君、本当に僕の盲腸なのか?」

「そうですよ!信じてください!」


 彼女は胸を張って言った。だが、その真剣な表情が、ますます現実感を失わせる。僕は頭を振って冷静になろうとした。


「待って。もし君が本当に僕の盲腸だって言うなら……どうして今さら戻ってきたんだ?」


 少女は少し寂しそうに目を伏せた。


「貴方が、忘れてしまった大切な記憶を取り戻すためです」

「忘れた記憶?」

「そうです。貴方が切り離したのは盲腸だけじゃありません。貴方の中で一番大切なものも一緒に失ったんです」


 僕は眉をひそめた。一番大切なもの?そんな記憶、僕にはない。心の奥のぽっかり開いた穴が、彼女の言葉で少しだけ疼くような気がした。


「でも……どうやって取り戻せばいいんだ?」

「私が手伝います!」


 少女改め盲腸が、自信満々に言う。そして、彼女は手を引いて僕を玄関の外へと連れ出した。


「これから一緒に探しに行きましょう!」


 僕は戸惑いながらも、彼女の手の温もりに導かれるように一歩を踏み出した。


 夜風が頬を撫でる。家の中にいた時よりも、外気は妙に冷たく感じられた。


「どこへ行くんだ?」


 僕がたずねると、彼女は振り返りもせずに答えた。


「貴方が忘れてしまった場所です。そこに行けば、きっと思い出せます」

「忘れた場所?」


 その言葉に、心の奥がチクリと痛むような感覚がした。けれど、どこに行こうとしているのかはわからない。


「本当に僕にそんな場所があるの?」

「あります。だって、ずっと見ていましたから」


 彼女はそう言うと、ふわりと笑った。僕はどこか懐かしさを感じて、彼女に笑い返した。

 僕たちは夜道を歩いた。彼女の手は小さく、そして温かい。僕は盲腸と歩いている。盲腸は女の子で、僕と手を繋いでいる。

 奇妙な感覚だった。


「盲腸って、人間の『不要な臓器』って思われてるけど、実は違うんですよ」


 盲腸はそう言って語り始めた。


「盲腸ってね、ただの不要な臓器じゃないんですよ。昔の人間にとっては、感情や記憶を守る大切な器官だったんです。腸と脳って、実はとても密接に繋がっていて、腸は『第二の脳』って呼ばれるくらい重要なんです」


 盲腸は、僕の手を引っ張りながら語り続ける。


「特に盲腸は、強い感情や忘れたくない記憶を一時的に保管する役割を担っていました。喜びも、悲しみも、恐怖も……全部、ここに蓄えられていたんです。進化の過程でその機能は薄れてしまいましたけど、痕跡として残っている盲腸もあるんです。私は、そういう盲腸だったんですよ」

「……」

「私はずっと病院で保管されてました。久々に取り出されて、何をされるかと思ったら、謎の薬品をかけられて、人間の姿になりました」

「それで……」

「はい、帰って来たんです」


 僕は黙って盲腸の話を聞いていた。

 辿り着いたのは、古びた公園だった。

 僕が幼い頃、よく遊んでいた場所だ。

 今は遊具も錆びつき、人気もなくなっている。


「ここ……」


 僕の言葉を遮るように、彼女が地面を指さした。


「ここで、貴方は大切な人と遊んでいました」


 その瞬間、頭の奥で何かが弾けたような感覚がして、僕は息を飲んだ。

 目を閉じると、断片的な風景が浮かび上がる。


 ──滑り台の下で笑い合う二人の子供。──


 ──砂場で何かを一緒に作っている。──


 遊んでいるのは、幼い頃の僕だ。僕の隣にもう1人子供がいた。背格好から、女の子と思われた。僕と同じくらいの年齢で、顔はぼやけて霞んでいるが、確かに僕と一緒に笑っている。


「この子……誰だ?」


 僕はその記憶の中の人物に手を伸ばした。だが、その姿は、指先が届く前に消えてしまった。


「貴方が忘れてしまった人です」


 盲腸が、僕の手を握りながらそう言った。

 握る手の強さが、痛いくらいだ。


「もっと思い出したい?」

「……思い出したい」


 その言葉は、驚くほど自然に僕の中からやって来て、口先に昇って発せられた。

 ずっと欠けていた感覚。

 その穴を埋めるためには、この記憶を取り戻さなければならない。


 盲腸は、僕と手を繋いだまま、踵を返して歩き出した。盲腸に導かれ、次に僕たちが辿り着いたのは、一軒の空き家だった。


「ここは……」


 そこは僕の実家だった。

 今は誰も住んでいない。

 なるほどここになら、幼い頃の思い出が詰まっているはずだ。

 盲腸が、僕をつれて玄関から中へ上がり込む。 


「ここに、手がかりがあります」


 盲腸が指さしたのは、古いタンスの中だった。

 埃を払いながら引き出しを開けると、そこには母の字で書かれた日記が入っていた。

 日記を開くと、そこには僕の知らない出来事が綴られていた。


 ◯月◯◯日

「今日も二人で遊んでいた。

 二人ともよく笑う。

 この子たちを守れるのは私だけだ」


 ◯月◯◯日

「借金取りが今日もやって来た。

 どちらか一人だけでも守らなきゃいけない。

 どうすればいいのか」


 僕は震える手でページをめくる。


 ◯月◯◯日

「私は二人を守れない

 もう、三人で天国へ行こう」


 日記のページはそこで終わっていた。

 母の言葉の意味を考えようとしたが、頭が混乱してうまく整理できない。

 三人?母の子は僕だけではなかったか。


「僕には……きょうだいがいた?」


 盲腸が静かに頷く。


「そうだよ」


 言葉の続きを聞かなくてもわかった。


「貴方には双子の妹がいた。でも母親と一緒に──」


 断片的な記憶が一気に蘇る。妹が僕の隣で笑っていたこと、母親の優しさと弱さ、そしてある日突然訪れた別れ。

無理心中。

生き残ってしまった僕。


 僕は床にへたりこんだ。


「君は」


 盲腸が、へたりこんだ僕に歩み寄り、優しく抱きしめた。


「君は僕の盲腸なんかじゃない」


 僕は、盲腸の……妹の体を抱き返す。


「君は、ルイ……僕の妹の盲腸だね?」


 虫垂炎になり、手術を受けたのは、本当はルイだった。

 僕は、封じた記憶の中で、それを僕自身の記憶に作り変えていたのだ。

 僕は、ふいに思い至り顔を上げた。


「僕は、ルイを忘れてた」

「忘れたんじゃないよ」


 ルイがそっと僕の肩に手を置いた。


「レイを守るために、お医者さんが思い出を封じ込めたんだよ」


 忘れていたわけじゃない。思い出すことが怖かったのだ。


「レイには、あまりにも辛かったから」


 妹を失った悲しみを、ずっと避けていた。


「ごめん、ごめんルイ」

「私こそごめんね、貴方の盲腸なんて嘘ついて…レイには、壊れて欲しくなかったから……」


 泣き出しそうに歪んだ僕の顔を、ルイが撫でる。


「でも、思い出したから、レイの欠けた部分は、これで大丈夫」


 ルイが優しく微笑む。


「貴方はもう、欠けてない」


 彼女の姿が徐々に薄れていく。

 そして、小さな光の粒となり、形を変えていく。

 粒は、本物の盲腸の形を取って僕の脇腹に収まった。

 妹と過ごした日々の幸せも、失った悲しみも、すべてが今の僕を形作っている。欠けていたものはもうない。


 朝日が、家の窓から差し込む。

 僕はもう独りではない。なんたって、盲腸が二つあるのだから。

 僕は、そっと脇腹に触れて、その温もりを感じると、歩き出した。



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盲腸「ただいま!帰って来ました!」 アガタ @agtagt

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