ドラゴン魔王様は新米勇者と旅がしたい! 〜君に会うためなら、我は鳥になる!〜
ナルコスカル
魔界社会の完成形とは少数のバカと多数の常識派によって構成されるのだ。
ここは純粋科学世界とは異なる世界、「ワンダーレルム」です。ワンダーレルムでは魔法が非常に発達しており、これまでに数々の魔法による戦乱が起こりました。そのため、ワンダーレルムは純粋科学世界で例えるところの「中世」の文化水準です。
ワンダーレルムには一般的な人間や人型種族と動植物が暮らす「現実界」と、魔物とその首領である魔王が住まう「魔界」の、二つの次元があります。ワンダーレルムにおける最後の大きな戦火は、魔王を総大将とした、現実界への大規模な侵攻でした。
しかし、人間、獣人、エルフやドワーフの中から現れた勇者たちが魔王を見事打ち破り、残存する魔王軍は魔界へ逃げ帰るという勝利を収めました。あれから約五十年。魔王軍を相手にともに戦った人間や人型種族の絆は固く結ばれたままであり、同胞に化けた魔物のスパイが暗躍し始めても、疑心暗鬼に陥ることがなくその者を炙り出してしまいます。
****
魔界中心部にそびえ立つ魔王城、その「王の間」。空に浮かぶ日食のような輪の形の太陽から、窓を通ってほのかにだけ明るい光が差し込んでいます。ソファーのように幅広く、なおかつとても巨大な黄金の玉座に体を預けて横になる一体の黒い鱗に覆われたドラゴンがいます。
魔王龍アルティメットドゥーム。かつて現実界へと侵攻し敗れた前魔王が戦の前に魔界へ置いてきた忘れ形見であり、今の魔界を統治する若き魔王であり、魔物の中で最も美麗な姿の雄ドラゴンです。
アルティメットドゥームはため息をつくと、肘かけのようになっている玉座の縁に顎を置いて寝そべりました。黒龍の前足に押し出される形で、玉座から巨大な水晶玉が落ち、王の間に敷かれた大理石の床に転がりました。
『お助けくださ〜い! 魔王陛下〜!』
『だから私たちはこんなの嫌だったんです〜!』
その水晶には、アルティメットドゥームの父親の時代から重臣として使える魔物が送り込んだスパイのサキュバスたちが、全裸で涙をこぼしながら連合軍の砦から逃走する様子が映し出されています。色仕掛けを実行したところ、返り討ちにあって身ぐるみを剥がされたのでしょう。つまり、今回も作戦は失敗です。
「さすがにもうやめさせるか……こんなことに魔王軍の予算はいつまでも割けん……」
かつて「厄災の大魔王」の異名で恐れられた父と瓜二つの容姿を持ち、このワンダーレルムの中で最も美しく、同胞である魔物はおろか現実界のカルト集団にさえ崇拝される若き雄ドラゴンは、サキュバスたちが魔法で作られた魔界への抜け穴へ飛び込んだところを見届けると、玉座の上で体と翼を伸ばしました。その俗世じみた所作は、まるで道端で寝転がる野良猫です。
「魔王たる者、魔物にさえ畏怖される暴君であれ」とは遠い昔で、今の魔界は敗戦を経て現実界と同様に平和に包まれています。父親の時代からの家臣たちは未だに現実界を掌握することを夢見ていますが、アルティメットドゥームにはそれはまさに他人事の夢でしかありません。
玉座の背もたれを翼と背中で押したアルティメットドゥームは、自らの意思で玉座から大理石の床に落ちました。玉座の周辺を囲む階段状の壇を転がり、その最下部でうつ伏せになると、艶めく漆黒の鱗に覆われた相貌を情けないイジケ顔にしながら、大きなオナラをこきました。
「我の魔王らしさは……屁の臭さだけだな……うっ……臭い……」
その主以外は誰もいない王の間に、若き魔王の独り言が消えていきました。そもそもアルティメットドゥームは現実界に侵攻する気はありません。黒龍が自身と同じく床に転がった水晶玉に念じると、透明に戻っていたそれは再び現実界の一部を映し出しました。
そこにはかつての人間の勇者の血を受け継ぐ孫娘が、その祖父の一番の理解者であったという狐獣人の勇者の息子である戦士から木剣で稽古をつけてもらっています。ふたりを若干離れた位置から見守っているのは、前魔王が敗れた時からほとんど容姿が変わっていないという当時の英雄たちである、エルフの中年女とドワーフの青年です。二人はアルティメットドゥームの父親に打ち勝った後も盟友の子孫を仲間に加えて旅を続けており、ワンダーレルム各地の問題や紛争の火種を解決して回っています。
「リタ、そのフェイントは前に見ただろう。ローレンスの動きをしっかり見極めるんだ。実戦では汚い戦法を使ってくる輩は山ほどいるぞ。魔物もその中の一つだ。マチルダ、アイザック、たまにはお前たちがリタの相手をしてやれ。一人前の剣士になるには、より多くの経験と知識が必要だ」
水晶に浮かぶ彼方の景色に向かって、アルティメットドゥームは野次を飛ばしました。もちろん、魔王の声は新米勇者とその仲間たちには届いていません。
アルティメットドゥームは現実界を我が物とする野望を持ち合わせていませんが、現実界そのものには興味があります。特にそれを刺激されるのが、人間や人型種族の繋がり、つまり「絆」です。
それは全知全能の暴君として謳われた父親に唯一欠けていたというものであり、それゆえに現実界の勇者たちに敗北したとされています。父の失敗を反面教師にしているわけではありませんが、アルティメットドゥームは時折このように現在の勇者たちを覗き見しています。黒龍が彼女たちの名前を覚えるまで、多くの時間は必要ではありませんでした。
アルティメットドゥームのお気に入りは、かつて前魔王と差し違えたという人間の勇者の孫娘であり、一行の新米勇者でもあるリタという人間少女です。水晶の中の彼女は、後ろ頭で束ねた明るい茶色の頭髪と健康的な褐色の肌に彩られた表情を鋭くさせ、胴当てや籠手を身につけながらも機敏に動いて木剣を振るっています。魔王がいつ水晶に風景を浮かべても、リタは常に礼儀正しく、正義を貫くだけが正義ではないとわきまえており、それでも見過ごせない悪には仲間たちとともに毅然として立ち向かいます。
「リタ……一度でいいから君に会ってみたい……いや……ともに旅をしてみたい……」
魔王は気弱な独り言を呟きながら立ち上がり、しなびた音色のため息をつきました。それから黒龍は玉座まで壇をのぼり、その終点である黄金の座具の上でまたもや猫のように体を丸めながらふて腐れました。
余談ですが、魔王ドラゴン特有のこの世界でどのような金属よりも硬い四本角によって、純金の玉座のいたるところが傷だらけです。魔界において鍛治を担当するゴブリンやオークたちは、普段から「せめて金を含んだ合金にすることをお許しください!」と懇願しています。しかし、アルティメットドゥームは「金無垢しか許さん。混ぜものでは鱗触りが悪い」と、これだけは魔王らしい態度を見せています。ゆえに、玉座は定期的に溶かされ、その度に造り直されます。
それはともかく、アルティメットドゥームは魔王の黒龍として生まれたことにあまり気分のよい感情を持っていません。たしかに、あまりあるほどの家臣と財宝、魔王ドラゴンとしての力には恵まれています。基本的に誰からも敬愛される、魔界の現君主です。しかし、それは魔界に限った話です。
かねてからアルティメットドゥームは現実界を旅したいと考えています。父に打ち勝った者たちやその子孫たちをより理解したいという欲を抱いています。そして、できることなら黒龍は古株の家臣たちが顔をしかめて昔話を渋るあの勇者の、その孫娘と特に親睦を深めたいという夢があります。
「そんなこと……叶うわけでもない……」
アルティメットドゥームは大きくため息をつきました。現実界でドラゴンは厄災の象徴です。しかも、黒い鱗のドラゴンは魔王の血筋にしか存在しないので、仮にアルティメットドゥームが現世界に赴けば、一目見られただけで魔王であると看破されてしまいます。
そうなれば、現世界たちの者たちの交流はきわめて困難なものになるでしょう。アルティメットドゥームがどれほど自分に敵意がないことを叫んでも、現実界の者たちはそれを聞き入れないはずです。
加えて、リタはもしかしたら祖父の命を奪った魔物の王、つまり、前魔王である自分の父とその息子であり現魔王の自分を恨んでいるかもしれません。ゆえに、アルティメットドゥームにとって夢は夢でしかないのです。
その後、いつものように失意に沈んだアルティメットドゥームがまどろみかけた頃、首に巻いた赤いリボンにつけた鈴を鳴らしながら、一体のドラゴンが王の間に現れました。
そのドラゴンは、ドラゴンにとっては普通程度の、現実界の者にとっては巨大すぎる編みカゴの取っ手を口に咥えながら、陽気な足取りで進んでいます。全身を愛らしい黄色の巻き毛に覆われ、頭には鶏の成鳥のそれを模した頭巾を身につけています。
そのドラゴンは壇の前で立ち止まり、編みカゴを慎重に大理石の床の上に置くと、深々と頭を下げました。それから、首を上げ視線を向ける魔王に対して、満面の笑みとともに呼びかけました。
「魔王様、昼食をお持ち致しました。今日も昼食はおいしいおいしいインスタントラーメンでございます。もうおいしい♩ とてもおいしい♬」
いつものように謎の歌を披露するそのドラゴンの名はコモダ。魔王城の厨房を任された料理番の中の一体です。彼女は昼になると毎日、純粋科学世界から流れ着いた即席麺料理を魔法で巨大化させた上で調理し、君主であるアルティメットドゥームに振る舞っています。
元々はドラゴンではなく純粋科学世界の人間で、そこで人間として死を迎えた後に魔界のドラゴンとして転生したと、かつて彼女自身が語っていました。その真偽は不明ですが、同胞である魔物たちからは「ラーメン大好きコモダさん」という愛称で親しまれています。
「コモダ……いつもいつも昼はラーメン……他にレパートリーはないのか……?」
アルティメットドゥームは編みカゴの中を一瞥しながらため息をつきました。巨大なカゴの中には、巨大な蓋つきどんぶりが入っています。
「もちろん、魔王様のご希望とあらば、他の料理もお作りできますよ」
笑みを続ける鶏頭巾の料理番に対して、黒龍は端正な顔立ちの眉間に皺を寄せて訝しみました。
「……例えば?」
「醤油ラーメンでも、味噌でも、塩でも、もちろん豚骨でも、それ以外でもラーメンなら大得意でございます! インスタントやカップ麺だけではなく、麺やスープもトッピングも一から作れます!」
後ろ足だけで立ち上がり胸を張るコモダの言葉を聞いた魔王は、返答の代わりに深いため息をつきました。麺料理に飽きて久しいアルティメットドゥームをよそに、コモダは前足で器用にカゴからどんぶりを取り出すと、王の間の床に置きました。
「魔王様。今日はダークリザードさんの卵が王宮に届いたので、『たまご乗せラーメン』でございます。卵の濃厚さを引き立てるように、少しだけスープに工夫を加えました。さあ、冷める前にどうぞお召し上がりください!」
コモダがどんぶりの蓋を口に咥えて外すと、どんぶりから湯気が舞い上がりました。そこには料理番の言葉通り、ダークリザードの大卵と思しき卵黄が乗ったラーメンがあります。
「たしかに美味そうだが……こうも毎日ラーメンではな……。っ!!」
コモダの特製ラーメンを瞳に映した魔王の中に電撃が走りました。それはラーメンよりも前から頭を悩ませている難題に対する、画期的な解答です。アルティメットドゥームは自身の翼をはためかせ玉座から飛翔すると、床のラーメンを挟んでコモダの目の前に降り立ちました。
「コモダ、勅令を伝える」
「はい、魔王様。いかがなさいましたか? コショウをお持ち致しますか?」
首を傾げるコモダは相変わらずラーメンのことしか頭にありませんが、その程度で気分を害するほど今のアルティメットドゥームは苦悩していません。むしろ、胸の内に秘めた名案を実行に移したいと高揚しています。
「エバーインフェルノとコールドディスペアーをここに呼べ。いかなる用事があろうとも、我が命令を最優先しろと伝えろ。コモダ、二体にそれを伝えたらお前もここに戻ってこい。さあ行け!」
「承知致しました! それまで魔王様は、ラーメンを堪能するなどなさってお待ちください!」
そう言い残すと、コモダは己の主君に背を向けて駆け出していきました。まず最初に向かったのは、自身の翼を広げられる魔王城のバルコニーのはずです。コモダを伝令役にして呼び出す二体は、それぞれ魔界の東西にそびえる要塞を居城としています。鶏頭巾のドラゴンがここに戻ってくる頃には、間違いなく夜になっているでしょう。
しかし、それを
****
その夜、燭台の上の蝋燭に照らされる王の間、壇の下に四体のドラゴンがいます。一体はアルティメットドゥーム、もう一体はコモダです。
加えて、業火のような真紅の毛並みを持つ雄ドラゴンは魔王軍の将軍の一体であるエバーインフェルノ、凍土の如き蒼い鱗に包まれた雄ドラゴンは同じく将軍であるコールドディスペアーです。二体はアルティメットドゥームの幼馴染であり、主君と家臣となった今でも友情は続いています。
そして、若き将軍たちは、魔王軍最高司令にして魔王そのものであるアルティメットドゥームを呆れた眼差しで睨みました。
「アホ殿、テメー本気か? テメーのアホな思いつきに、オレたちがわざわざ付き合わなきゃいけねーのか? オレたちがテメーの配下として暇してると思ってんなら、そのふざけた頭をぶっ飛ばして改心させてやろうか?」
首を上下させて真紅のたてがみを振り上げるエバーインフェルノはそう言って、黒龍を罵倒しました。部下思いで有名な彼ですが、それと同時に口の汚さで悪名高いドラゴンです。
「陛下、僭越ながら申し上げます。陛下のお考えを僕は理解しかねます。どのような危険が待ち構えているのか、予想の範疇を大幅に超えております。もっと端的に言い表すならば、『くだらない考えは捨てて、いつものように尻で玉座を磨く仕事をしていてほしい』でございます」
上顎の根元にかけた眼鏡の奥から冷やかな視線を向けるコールドディスペアーはそう言って、黒龍を小馬鹿にしました。彼は戦術家として頭が切れますが、同時に相手を蔑みたい時にもそれを活用するドラゴンです。
そのような罵詈雑言を返されても、アルティメットドゥームの顔つきは真剣そのものです。そもそも、黒龍はたった一度の言葉で、自らの提案を受け入れられるとは考えていません。
加えて、エバーインフェルノの罵りとコールドディスペアーの侮辱を、アルティメットドゥームは幼い頃から受けてきました。その度に魔王の世話役を任された魔物たちは慌てふためきましたが、若き魔王と将軍たちの絆はそれこそが親愛の証です。
「フェル、コル、どうしても、我の言葉に従わぬつもりだな?」
アルティメットドゥームは鋭い顔つきのまま二体に問いかけました。幼い頃から魔王とその幼馴染は、「アル」、「フェル」、「コル」と呼び合う仲です。
「当たり前だろ、アル。テメーの小っ恥ずかしくてくだらない夢に付き合う道理はねーよ。なあ、コル?」
「フェルの言う通りです。僕たちまで巻き込まれる
エバーインフェルノとコールドディスペアーはすぐさま拒否を返しました。
「あ、あの……魔王様……エバーインフェルノ様……コールドディスペアー様……口喧嘩はよくないと思います……私がラーメンを作って参りますから、それをお召し上がりながら仲直りしてはいかがしょう……?」
「コモダ。その殊勝な気遣いは嬉しいが、お前の役割は別にある」
上目遣いに主君と将軍たちを見渡すコモダの申し出を、アルティメットドゥームは褒めながらも断りました。そもそも、エバーインフェルノとコールドディスペアーが魔王城に到着した直後に再会の晩餐が開かれ、三体はそこでインプたちが手がけたゲテモノ食材ばかり使った趣味の悪いオードブルと、コモダが振る舞う絶品豚骨ラーメンを何杯もおかわりして平らげたばかりです。
将軍たちの親友である若き魔王はこれまで真剣そのものだった表情を一変させ、鋭い牙が並んだ口をにやつかせて笑みを作りました。
「フェル、コル、お前たちは気づいているのか? 自分たちが命を狙われていることを」
親友からの問いを耳にしたエバーインフェルノとコールドディスペアーは互いの顔を見つめ合いながら首を傾げると、アルティメットドゥームを軽く睨みました。
「アル、どういうことだ? くだらねー嘘をついてるならぶっ飛ばすぞ?」
「僕の情報網の外で術数が渦巻いているとは、にわかに信じられません」
それに対してアルティメットドゥームは飄々とした足取りで壇をのぼると、同様の仕草で玉座に飛び乗り、四本足で仁王立ちしながら彼らを見下ろしました。
「嘘ではない。我はこれでも魔王だ。お前たちに余計な苦労を負わせなくなかったから口を閉ざしていたが、我に媚を売って便宜を期待する魔物は多い。その者たちから聞いた話によると、一部の臣下がお前たちの失脚を狙っている。その策略には、暗殺も視野に入れられているとのことだ」
魔王は自身の翼を広げると、玉座から飛び立ち、エバーインフェルノとコールドディスペアーに降り立ちました。二体の身を案じてか、彼らを見つめるアルティメットドゥームは瞳は優しげで目尻が若干下がっています。
「裏切り裏切られ、己の身が可愛くて他者を蹴落とすのが魔物の常とはいえ、それは我と我が親友以外の話だ。我は、お前たちを凡夫や匹婦どものくだらん策略で失いたくない。我とお前たちが不在の間に、我の間者が狐狸どもを炙り出し、執政が処罰を下す。我らが悠々と戻ってくる頃は、魔界はさらに住み心地がよいものに変わっているという寸法だ」
「魔王様! 私は料理番として、魔王様に永遠の忠誠を誓います!」
「ならば我らとコモダは俗物とは違うということだな!」
微笑み合うアルティメットドゥームとコモダをよそに、エバーインフェルノとコールドディスペアーの瞳がさらに訝しげな厳しさを増しました。
「……アル。もしかして、オレたちを納得させたくてだいぶ話を盛ってねーか?」
「フェルと同感です。委細の説明を求めます」
やはり二体はすぐさま、かつて配下のバイコーンが漏らした「陛下〜! 友達贔屓がキツイっスよ〜! オイラだって出世したいっス〜!」という愚痴にアルティメットドゥームが誇張に誇張を重ねものを看破しました。しかし、コモダの気分を高揚させたことで、アルティメットドゥームの計略の下準備は完了しています。
「コモダ! 今こそお前の忠義心を見せてみろ! 我らを的にして、変身魔法を唱えよ!」
「承知致しました! 私の、ラーメン作り以外の全力をお見せ致します!」
満面の笑みで返答したコモダは後ろ足だけで立ち上がり、胸の前に引き寄せた前足の中心で魔力を練り始めました。真偽不明の噂によると、純粋科学世界からワンダーレルムに転生した者は強大な魔力を保有している者が多く、麺料理をこよなく愛するこのドラゴンも例外ではありません。
「コイツっ!? コモダをそそのかしやがった!?」
「アル! させません!」
エバーインフェルノとコールドディスペアーは親友にして君主である黒龍の野望を阻止すべく、コモダへと飛びかかりました。いかに転生者といえど、魔力を魔法へと変換中である無防備の雌ドラゴンが、猛者として将軍の地位につく雄ドラゴンにそれを阻まれたらなす術もないでしょう。しかし、それは「魔王がこの場に不在ならば」の話です。
「っ!? そういう戦法かよ!」
「親友にこのような仕打ちをするなんて!」
アルティメットドゥームがあらかじめ不可視の状態でかけていた半球状の防御魔法がコモダの周囲に姿を現し、エバーインフェルノとコールドディスペアーの体を弾きました。将軍ドラゴンたちはすぐさま体勢を立て直しながら着地し、この悪行が順調に進行していることに満悦の笑みを浮かべる邪悪なる存在へ、まるで汚物を見るような目で睨みます。二体にとって都合が悪いことに、魔物の中で最も魔力と魔法に優れるのは、やはり魔王ドラゴンの一族の者、つまり眼前のアルティメットドゥームです。
「このアホ殿が!」
「フェル! まずはあの魔物の中で一番なりふり構わない卑怯者を!」
「分かってる、コル! 二体であのアホ面をぶっ飛ばしてやるぞ!」
「『ふははははは! 矮小なる者たちよ! 我が計画を止められるならばやってみせろ!』」
「棒読みするくらいなら自分の言葉で盛り上げてください! アル!」
魔法を用いて驚くべき速度で距離を詰めるエバーインフェルノとコールドディスペアーを、「魔王セリフ大全集」に載っている一部を引用したアルティメットドゥームが迎え撃ちます。そして、そのまま大喧嘩にもつれ込みました。若く強い三体のドラゴンの力と力の衝突は、大理石の床を割り、天井にも穴を開け、燭台を踏み潰し、純金の玉座の背もたれを粉砕しました。
魔王と将軍たちが、喧嘩を繰り広げる子犬の兄弟のように床の上で絡み合ってもつれ合っていると、いつの間にかコモダの体が宙に浮き、天井の穴から見える暗黒の夜空へと両方の前足を掲げていました。その輪郭に爪と足裏を添わせるコモダの頭上には、激しく渦巻きながら輝く魔力の奔流があります。つまり、魔王の粘り勝ちです。
「いきますよ! 魔王様! 将軍様がた! これが私の全力です!」
コモダがそう叫んだ瞬間、敗北を悟って動きが止まったエバーインフェルノとコールドディスペアーを、アルティメットドゥームが前足で自身の胸元へと抱き寄せました。
「フェル! コル! 我が一生の頼みだ! 我とともにしばらくドラゴンの姿を捨ててくれ! 我はお前たちと一緒にいたいのだ!」
涙を浮かべて懇願する親友を目の当たりにして、二体は長い顎から大きなため息をつきました。
「テメー、一生の頼みってこれで通算何回目だよ……」
「異界の言葉で今の気持ちを言い表します……〇ァッキュー、サノバ〇ッチ」
こうして三体は、コモダが放った光の中に消えました。
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ここは日が顔を出したばかりの現実界の荒野。地面には焚き火の跡と、周りに綺麗にまとめられた野営道具や、食料や薬が入れられた布袋が置かれています。
「忘れ物はないか、リタ?」
「はい、いつも通り確認しました。ローレンスさん」
深緑色のマントを纏う狐獣人の男、ローレンスの問いかけに対して最低限の防具を身に着け始めた人間の少女、リタは笑顔で答えました。優しすぎる性格ゆえに獣人族の里と連合軍では爪弾き者だった「若くはない若者」は、今では十七歳の新米勇者にとって一番の指南役です。
「すっかり旅の生活に慣れてきたようだねえ」
「顔立ちは母親似だが、性格は『リーダー』寄りだな」
「リタちゃんはあの子より素直だけどね」
「たしかに」
そう言い合いながら、リタとローレンスが立っている場所にほど近い小岩から、見事な金糸の刺繍が施されたローブを羽織っているエルフの中年女性であるマチルダと、小柄な体を軽装に包み大振りの弓と矢筒を背負ったドワーフの青年であるアイザックが立ち上がりました。二人は歴戦の勇士として旅と野宿は慣れたものですが、後進の育成のために、リタの手ほどきをローレンスに任せ、監督役を務めています。
「さあ、出発しましょう」
旅道具をそれぞれの体力に合わせて分割して担当し、準備が整ったところでリタがそのような号令を口に出しました。「『これから』を生きる者が長になるべきだ」という意向により、最も若いリタが一行のリーダーを任されています。
「リタ、疲れた時は俺に声をかけてくれ。リタの分の荷物を少し持つ」
「相変わらずリタに甘いな、若造」
「私から見たら、アイザックもまだまだ若いけどねえ」
一行がそのような会話を繰り広げながら笑い合いました。しかし、次の瞬間、四人はいきなり荷物を地面に放り投げて、それぞれの得物を構えました。リタは腰の鞘から抜いた甲冑兵用の片手剣を両手で握り、ローレンスはそれぞれの手に持ったナイフを。マチルダとアイザックは後方へ跳躍しながら、魔法の杖を掲げ、弓に矢をつがえました。四人は自分たちから十歩ほど離れた、何もないはずの空間を睨みつけます。
「魔法を使って様子見してごめんなさい! 私はあなたがたを攻撃したりしません!」
その場所から謝罪が発せられると、不可視の魔法を解いた一人の人間族の魔法使いが、胸元の赤いリボンについた鈴を鳴らしながら現れました。外見から察するに、年齢は十七歳前後、リタとほぼ同い年でしょう。
「こちらこそごめんなさい。旅をしているので、野盗や無法者に襲われることがあって」
リタが剣を鞘に戻しながら、誠意を込めた顔つきで謝りました。ローレンスとマチルダとアイザックもそれぞれの武具を下ろしますが、その目は客人を訝しんでいます。
「とはいえ、その格好は……よく言えば個性的だ」
「……エルフの私でも知らない装束だねえ。どこの流派かな、お嬢ちゃん?」
「……家畜の格好だなんて、油断を誘ってるようだな」
その魔法使いは金髪の巻き毛の大部分を隠すかのように鶏の頭を模した頭巾を被っており、鶏の翼に似せたマントを身に着け、体そのものに纏う法衣も鶏のように白一色です。
鶏を真似た衣服のその魔法使いはリタになかば駆け寄り、前腕部とその先を籠手で隠した彼女の両手を取りました。
「私、コモダって言います! 田舎者のニワトリ魔法使いです! 好きなものはラーメンです!」
魔法使いの少女、コモダは笑顔で自己紹介を口にしました。目の前のリタは全く気づく様子がありませんが、その魔法使いの正体はもちろん自身の魔法で人間に化けた異世界転生ドラゴンです。
「ラー……メン……ですか……?」
「あ、ちょっと一風変わった麺料理のことです!」
「なるほど。私はリタと言います。私も駆け出しの旅人です。今は仲間たちとそうして過ごしています」
「はい! リタさんの噂は聞いています! ローレンスさんとマチルダさんとアイザックさんのことも! だから会いにきました!」
リタの手から離れたコモダは舞踏のように体を回転させて、翼に似せたマントを広げながら少しだけ距離を作りました。本来の彼女の気性よりも口振りや仕草が高揚しているのは、その彼女が忠誠を誓う魔王の指示です。
「私、リタさんのパーティに是非入りたいです! こう見えて私、魔法にはそこそこ自信があります! それに、私を受け入れてくださると、この子たちもリタさんたちのためにがんばります!」
そう言いながらコモダはマントを掴み、翼のようにはためかせました。その直後、そこから三羽の
三羽は自分たちの翼を上下させ、無事に荒野の地面に着地します。それから、黒い雌鶏は誇らしげに胸を張り、その後ろで真紅の雌鶏と蒼い雌鶏は俯きながら深いため息をつきました。
「この子たちは、魔法雌鶏の『アルちゃん』と『フェルちゃん』と『コルちゃん』です! ちょっと珍しい羽の色をしてますが、みんなとっても元気で健康で、魔法動物特有の寿命の長さ以外はほとんどただの雌鶏です!」
「へえ、とても可愛らしい鶏さんたちですね」
「今のは手品か……? それとも魔法……?」
披露が終わった曲芸師のように両腕を広げるコモダに対して、リタは笑いながら拍手し、ローレンスは首を傾げながらそれに続き、マチルダとアイザックは顔を見合わせました。それから、黒い雌鶏がリタの足元まで近づき、輝くつぶらな瞳で彼女の顔を見上げました。
『リタちゃん、見てくださいませ! わたくし、リタちゃんにお会いしたくて、こんなにただただ普通の立派な雌鶏になりましたわ!』
漆黒の羽毛の「アル」が新米勇者の少女へ、そのように呼びかけました。もちろん、それは魔法を使った上で意識して耳を傾けなければ言葉として聞こえない雌鶏の鳴き声であり、その雌鶏の正体は魔界の君主です。
『そのアホの子アルちゃんの道連れに、アタシたちまで雌鶏にされたけど』
『楽しいのは変態を拗らせたアルちゃんだけだよお。私は今すぐにでもドラゴンに戻りたい……』
アルの背後で、真紅の羽毛の「フェル」と蒼い羽毛の「コル」が再びついたため息混じりに呟きました。もちろん、その雌鶏たちの正体は魔王の親友にして魔界の将軍です。
コモダが放った強力な変身魔法によって、魔王アルティメットドゥームの思惑通り、三体のドラゴンは雌鶏へと変わりました。ドラゴンとしての強靭な肉体と多大な魔力は失われ、魂の芯以外は全て雌鶏のそれになりました。魔王だった頃の雌鶏の悪辣な計略によって、コモダの変身魔法解除はアルの意思に紐付けされており、彼女が満足するまでフェルとコルも雌鶏のままです。
『フェルちゃん! コルちゃん! あなたたちは雌鶏としてもっと誇りを持ってくださいませ!』
振り返ったアルが、フェルとコルに向かって叱り始めました。今の彼女に魔王としての威厳や畏怖はなく、はたから見たらただの可愛い雌鶏がただただ可愛らしく腹を立てているだけです。
『そんなことできるわけないでしょ! ねえ、コルちゃん!』
『そうだよねえ、フェルちゃん! 私たちはアルちゃんと違って、心は普通のドラゴンなんだよお!』
なかば仕掛けられた罠にはめられた形で雌鶏になったフェルとコルが、アルに向かって反論しました。その仕草にも魔王軍の将軍ドラゴンらしさは皆無で、アルも含めて仲良しの雌鶏が仲良く喧嘩しているようにしか見えません。
「あ、あの、コモダさん。この子たち、大丈夫ですか? 喧嘩を始めたみたいですが……」
「はい! こういう時にとっておきのものがあります!」
心配するリタに対して、コモダは法衣のポケットに手を入れながら答えました。そして、そこから小さな布袋を取り出しました。コモダがその中身の一部を、自分の手の平に乗せました。黒い雌鶏と鳴き声で口喧嘩していた真紅の雌鶏と蒼い雌鶏がコモダのその動きを察知すると、彼女の足元に駆け寄りました。
『おやつ! おやつ! フェルそれ食べたい! 食べたい! 立派な卵産みたいからおやつ食べたい! おやつ! おやつ!』
『食べたい! 食べたい! コルだっておやつ大好き! コルは雌鶏だからおやつ大好き! おやつ! おやつ!』
「フェルちゃん、コルちゃん、ちょっと待っててくださいね! おやつは逃げませんよ!」
コモダの手に乗っている粒状の小山は、貝殻や昆虫、乾燥麺のカスなどを砕いた、コモダ特製の雌鶏用飼料です。それを目の当たりにしたフェルとコルは、一時的に心が完全に雌鶏へと変貌しました。
「じゃあ、まずはローレンスさんから。手を出してください」
「あ、ああ……」
コモダが自分の手に乗っている飼料のおよそ半分を、狐獣人の手袋をはめた右手に移しました。
「静かにしゃがんで、そのままでいてください。そうすると、この子たちは自分で食べますから。よかったら、食べるのを邪魔しないくらいで、体を少し撫でてあげてください」
「分かった」
コモダとローレンスが同時に腰を下ろすと、フェルはコモダのそばのままで、コルはローレンスへと駆け寄りました。そして、二羽は勢いよく手の上の餌を嘴で食べ始めます。コモダやローレンスが体を撫でると、雌鶏たちは気持ちよさそうに目を細めながら、雌鶏としての体を小さく揺らしました。それらの様子を顔を綻ばせたリタと、無言を貫くマチルダとアイザックが見守っています。
『けーぷ! おやつ嬉しかった! フェル幸せ! フェルはコモダのこと大好き! フェルのことを幸せにしてくれるからコモダ大好き!』
『けぷっ! おやつおいしかった! コル満足! コルはローレンスのこと大好き! コルのことを満足にしてくれたからローレンス大好き!』
小さなゲップをしたフェルとコルは、満面の笑みで感謝を口にしました。すっかり上機嫌になった二羽の背後へ、漆黒の羽毛の雌鶏が近づきます。
『うふふ! わたくしよりフェルちゃんとコルちゃんの方が、身も心も雌鳥のようですわ!』
その言葉で羽毛を逆立てて驚いた二羽は、困惑を浮かべた顔で振り返って黒い雌鶏を睨みつけました。
『やり方が汚い、アルちゃん!』
『アルちゃんの意地悪……』
完全な雌鶏から雌鶏になった元ドラゴンまで心が戻ったフェルとコルは、若干目を泳がせながらアルを非難しました。そこに普段の勢いがないのは、新米勇者とその一行、人間に化けた料理番、何より元魔王の雌鶏仲間の前で心が完全に雌鶏に染りきってしまったことを恥じているのでしょう。
『ごめんなさい、ちょっと雌鶏に慣れることを急ぎすぎましたわ。だけど、わたくしは本心から、フェルちゃんとコルちゃんと一緒に雌鶏になれたことを嬉しく思っていますわ』
謝罪を口にしたアルは、慈愛の顔つきで自身の黒い翼を広げ、フェルとコルを抱き寄せました。真紅の雌鶏と蒼い雌鶏は、されるがまま漆黒の雌鶏の胸元に顔をうずめました。
『そう言われると、ちょっと怒りづらい』
『アルちゃんは本当に、私たちへ迷惑のかけ方が上手だよねえ』
親愛の証として二羽の雌鶏は、漆黒の雌鳥へ軽く毛繕いを施しました。ここからは、彼女がドラゴンとしての全てを捨ててまで望んだひと時です。アルがフェルとコルから離れて、リタの目の前まで近づきました。腰を屈めた彼女の手にはすでに、コモダから受け取った餌が乗っています。
「アルちゃん。アルちゃんも食べますよね?」
『もちろんですわ、リタちゃん! いただきます!』
アルは元魔王として礼儀正しく、リタの手に嘴を寄せました。
『おやつ嬉しい! おやつ大好き! リタちゃん大好き! アルは大好き!』
しかし、そこでアルの心が完全に雌鶏となり、結局は興奮のあまり己の翼をはためかせるほどの勢いで、リタの手のひらに乗せられた餌をついばみます。苦笑いを浮かべるリタをよそに、漆黒の雌鶏はすぐさまそれを平らげました。
「こんなにたくさんの仲間が増えるなんて、とても嬉しいです」
微笑みに戻ったリタが呟きました。その先には、嘴から「けぷぃ!」と小さくゲップを奏でながら新米勇者を見つめ返す、満面の笑みの雌鶏がいます。
「リタ、この魔法使いと雌鶏たちを仲間として引き入れる、それでいいのか?」
「はい、旅の仲間は多ければ多いほど楽しいですし、心強いですから。それに私、アルちゃんのことをすでに少し気に入っちゃいました」
問いかけるローレンスへ振り返ったリタが、両手でアルを抱きながら立ち上がりました。
「……私からは異論はないよ」
「……僕も」
「ありがとうございます」
少しだけ離れた場所に佇み続けるマチルダとアイザックにも、リタが返答しました。それから彼女は、防具を身につけた自身の胸元のアルへ視線を落としました。
「よろしくお願いします、アルちゃん、皆さん」
『わたくし、リタちゃんのために雌鶏になりました! だから絶対リタちゃんのために雌鶏として誠心誠意頑張りますわ!』
念願の夢が叶って幸せで満たされた雌鶏のアルは、新米勇者のリタの頬へ、自分のそれをすり寄せました。めでたしめでたし。
****
となるのを、許さない者たちが現れました。先ほどまでマチルダとアイザックが腰を下ろしていた小岩の上に、颯爽と飛翔してきた二羽の鳥が止まりました。漆黒の羽毛を持つ
小岩の上から彼女たちはリタの腕の中のアルを、雌鷹は威厳のある目つきで睨みつけ、雌鷺は茶目っ気のある顔つきで微笑みかけました。どういった理屈が働いたか不明ですが、アルは心の中で、その雌鷹に自分を、雌鷺にリタを重ねてしまいました。そして、その理由はすぐに判明しました。
『雌鶏になるとは、なんとも情けない息子、今は娘じゃの。リタの腕の中はわらわの特等席じゃ。父親、今は雌じゃが、ともかくわらわに譲るのが道理じゃろ?』
『えっ!? おっ、お父様!? もしかしてシュプリームディストラクションお父様ですか!?』
『いかにも。もっとも、今のわらわはおぬしと同じ雌鳥じゃが。それから、今のわらわにはそのような仰々しい名前は似合わんから、「ストラ」と名乗っておる』
漆黒の雌鷹であるストラ、ひいては今は母親であり前魔王であるシュプリームディストラクションから告げられた言葉に、漆黒の雌鶏は驚きを隠せません。
「アルちゃん、どうしましたか? もしかして、あの子たちに驚いたんですか?」
「そ、そうです! アルちゃんはちょ、ちょっと驚いちゃっただけです!」
「そうなんですね。ところで、コモダさんも動揺しているようですが?」
「だ、だって私、ニワトリ魔法使いですから! 猛禽や
「なる……ほど?」
「残念ながら俺の顔に答えはない」
リタとローレンスは疑問を浮かべた表情で見つめ合いますが、アルはそれどころではありません。その雌鷹と雌鷺を、アルは水晶玉でリタたち一行を覗き見していた頃から存在を認知していました。しかし、新米勇者は彼女たちを「自分たちへ妙に懐いているただの野鳥」と思い込んでおり、それはかつての魔王も同様でした。
『あらあら。命惜しさで私に首を落とされる寸前に自分自身まで巻き込んで強制魔法動物化の魔法を放ったストラが、自分の娘を情けないだなんて。そもそも、私の愛しい孫はあなたのものではないのよ?』
小岩の上で雌鷹の隣に首筋と背筋を伸ばして立つ雌鷺が、まるで見下ろすように漆黒の雌鶏と雌鷹の親子へ交互に視線を送りながら微笑みました。もしかしたら見下しているのかもしれません。
その雌鷺の正体もまた、遠い過去に命を落としたはずの者、勇者レネでした。彼女の口振りから察するに、一般的に語られているものと隠された真実の間には、大きな断層があるようです。
『毎度毎度口が減らない雌鷺じゃな、レネ。さっさと隠居でもしろ』
『あらあら。その予定はまだないわよ。これから面白くなりそうなんだから。みんなで雌鳥らしく仲良くしましょうよ』
雌鷹と雌鷺のやり取りそのものは軽口の応酬ですが、二羽が見つめ合う瞳には確かな友情が感じられます。アルがフェルとコルへと視線を移すと、真紅の雌鶏と蒼い雌鶏は自分を軽く睨んだ後、深いため息をこぼしました。
『もう全てのことに、悪口で罵る気にすらなれない……』
『私たちまで雌鶏になった理由なんてやっぱりなかったよお……』
前魔王時代からの重臣たちがかつての戦いの結末を語ることを渋る理由が、ようやく判明しました。まさか前魔王がドラゴンであることを捨て、人間の勇者だった者と友好を結んでいるとは、アルには思いもよらない真実です。かつては命を奪い合いをした者同士のはずですが、魔法動物が持つ長寿によってもたらされた時間によってストラとレネは完全に打ち解けたのでしょう。ドラゴンであった頃のアルが二羽の正体を見抜けなかったのは、もしかしたらマチルダの秘匿魔法があったのかもしれません。
『っ!?』
突如、漆黒の雌鶏の体が淡い光に包まれ、それがすぐさま消失しました。アルが見つめる先では、フェルとコルもまた目を丸くして己の体を隅々まで調べています。
(悪いけど、変身魔法解除の是非は私が握るよ。魔物のあなたたちが本当に私たちと親睦を深める気があるのか、それが分かったら返してあげる)
テレパシー魔法によって届いたその声によって、アルはマチルダへ釘づけになりました。中年エルフが掲げる魔杖の先端の宝玉には、先ほどアルたちが帯びたものと同じ光が残っていました。
「マチルダさん、この子たちに何かの魔法をかけたんですか?」
「鶏たちが随分驚いているようだが」
「ああ、ただの病気除けの魔法だよ、リタちゃん、ローレンスくん。そうだよね? 私と同じ魔法使いのコモダお嬢ちゃん?」
「はわわ……は、はい! その通り、です! 私の雌鶏ちゃんたちにおまじないを、か、かけてくれて嬉しいです!」
君主に委ねていた魔法解除の主導権を奪われたコモダが、動揺を隠しながらマチルダの嘘に肯定を重ねました。そのおかげで、リタがアルたちの正体に気づいた様子はありません。
『コルちゃん、どうする? アタシたち、アルちゃんが満足してもドラゴンに戻れなくなったみたいだよ?』
『仕方がないよ、フェルちゃん。魔王と二体の将軍が長く不在になる責任は全部アルちゃんに押しつけて、雌鶏であることを楽しむのが建設的かも』
親友たちの呆れた声を聞きながら、アルは再びマチルダとアイザックへ視線を向けました。微笑むエルフと嘲笑するドワーフの姿から察するに、どうやら二人はアルたちの正体を最初から見抜いていたようです。やはり、今でも当時の容姿と力を保ち続けている救世の英雄です。
いまだに動揺が消えないアルは、すがるような目つきで今は母親である漆黒の雌鷹を見ました。しかし、娘である漆黒の雌鶏を軽く睨むストラは、毅然とした口調で言い放ちました。
『言っておくが、リタが許していないのにリタを自分だけのものにしようとしたら、わらわが黙ってはいられぬことを覚えておけ』
雌鷹が嘴を上げながら鼻腔から短く息をついた様子を眺めた後、その隣のレネもまたアルに忠告しました。
『もちろん、あなたの雌鷹の母親が許しても、私が許すかは別よ、アル。あなたがリタに相応しい雌鶏か、しっかり見定めさせてもらうわね』
それらの言動によって、アルは目尻に涙を浮かべながら俯きました。
『か、かしこまりましたわ……お母様……レネお
彼女はリタを自分のものにしようとは考えもしていません。むしろ、自分がリタのものになりたいとすら願っていました。しかし、最たる愛鳥の座を得ることすら難しいようです。その事実が悲嘆となってアルを襲い、彼女は羽毛の頬に涙を伝わせながら、お尻から情けない音色のオナラを漏らしました。
「アルちゃん? ちょっとあの二羽とマチルダさんの魔法が怖かったのでしょうか? 大丈夫ですよ、アルちゃん。アルちゃんが新しい生活に早く慣れるように、私が手伝います」
リタは俯くアルの顔を小さく覗き込むと、片方の腕だけで雌鶏の体を支え、自由になったもう片方の腕でアルの後ろ頭から首を通って背筋までを優しく撫で始めました。慈愛が込められたその眼差しと手つきはまるで、初代魔王の我儘に付き合いきれずに別世界の彼方に去ったという創造神である大女神のようです。
『リタちゃん……ありがとう……わたくし、リタちゃんのことがやはり大好きですわ……あ、でも、気持ちよすぎて卵を産んでしまいそう……』
アルが雌鶏として目を細めて産気づきかけたその瞬間、小岩の上からストラが飛び立ちました。
『リタ! そんな
手首とその先の一部には魔法鋼も使われている籠手に覆われたリタの前腕部は、なめらかなレザーに包まれているだけです。間違いなく、ストラやレネたちが止まることができるように作られたのでしょう。飛び立った漆黒の雌鷹は驚くべき速度で、自身の娘を撫でるリタの腕に両足を乗せました。
「わっ!? わわっ!」
『お母様!? リタちゃんのことを考えてくださいませ!』
『おぬしがリタを独り占めするからじゃろ!』
雌鷹の飛行速度が速すぎたため、リタの腕に止まった時に強い衝撃が生まれ、彼女は体の均衡を崩してしまいました。リタは咄嗟にアルのことを空中に軽く放り投げ、漆黒の雌鶏は自身の翼で無事に着地しました。
それと同時に、リタが背中から地面に倒れ込みます。防具を身に着けている上にこれまでの鍛錬のおかげで受け身を取ったので、品よくまとめられた髪が少しだけ乱れた以外は大事に至りませんでした。
『リタ! わらわこそおぬしの愛鳥! 一番の親友じゃ!』
『リタちゃん! 今日が初めましてですが、わたくしはずっとリタちゃんのことを想っておりましたわ!』
荒野の地面に仰向けになるリタのそれぞれの頬へ、漆黒の雌鷹と雌鶏の母娘が、己のそれを何度も擦り寄せます。
『リタちゃん! アタシだって雌鶏だから撫でてもらいたい!』
『リタちゃん! 本当はドラゴンの将軍だけど私もそうしてもらいたい!』
そう言いながら駆け寄ったフェルとコルが、アルとストラの隣に加わりました。
『あらあら。自分の孫娘がみんなから好かれているのを見るのは、悪い気分ではないわね』
リタと雌鳥たちのその様子を、リタの右肩付近に降り立ったレネが、微笑みながら鷺の長い首の先から見下ろします。
「リタ、大丈夫か?」
「すっかり人気者だねえ、リタちゃん」
「若造が女たらしなら、リタは鳥たらしだな」
「ですが、リタさんにならこの子たちをお任せできます! そうしてくださると、皆さんに振る舞うラーメンを作れます!」
雌鷺のさらに頭上から、ローレンスとマチルダとアイザックとコモダが、リタの周りを囲むように覗き込んできました。その様子が面白いと感じたのか、呆然としていた新米勇者が小さく笑い出しました。彼女に釣られて、仲間たちからも笑い声が上がりました。
これが、後世で「ワンダーレルム史上最高の英雄譚にして喜劇」という賛辞とともに語られるようになる、五人の旅人と五羽の雌鳥の珍道中の幕開けです。
了
ドラゴン魔王様は新米勇者と旅がしたい! 〜君に会うためなら、我は鳥になる!〜 ナルコスカル @Narco-Skull
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