怨羅じゃ!

加賀谷清

生贄 1

大王即位五年、江州湖一夜にして顕れ其の夜富士山現る也

天竺婆羅門大いに怒り、堕林山にて富士山蹴崩さんと企つ

鬼神剛伽夜叉、大山に隠りて飛来し富士山並び立つも

愛鷹明神現れ夜叉の大山蹴崩す(中略)

鬼神甚だ怒りて須臾にして備陽国へ飛び去り、巌夜峯に籠る

鬼神身の丈一丈三尺、額上の肉巻き上がり角の如く、上下違いに牙生ゆ

怒りて炎吐き、夜々近隣の山を焼く

岩を投げ薪とし、水を叩きて油とす

終日国中駆け飛び、民の妻子を食らい六畜を殺す

国中老若四方へ逃散し、男女手を連ねて王城を差し逃げ上る

帝驚き給て、第一の尊、鬼神討伐に下らせ給ふ

―――鬼城縁起



   ***



 安良媛アラメは十一歳だった。ほうりの家に生まれ、巫女として育てられた。

 そして今日、生贄として鬼に捧げられる。



 その地にいつから鬼が棲み着いたのか、誰も知らない。

 里の古老の中には、北の山から湧いてきた、と言う者もいれば、いやいや海からやってきたのだ、と言う者もいた。見たこともない大きな船に乗り、真っ赤な肌に直にいかめしい鎧をまとい、手には恐ろしげな大刀・金棒を持っていた、と。

 鬼たちは里に近い山に居を構え、自ら怨羅族と名乗った。夜昼なく里に下りては食糧を略奪し、女を攫っては子を産ませた。やがて誰が言い出したか、その地は「鬼火きびの国」と呼ばれるようになった。

「おかげでこのあたりの街道を通る旅人はめっきり減っちまいよった。困ったもんじゃ」

 農作業の合間に、女たちがひそひそと囁き合う。

「よそじゃみんな言ってるよ。よう鬼の棲む国なんかに住んでられるなと。じゃけえ、よそに逃げたからって自分らの畑があるわけじゃなし……あたしらはここで暮らしていくしかねえんじゃけえ」

「都に上った人らぁもおるがのう……聞いたかい?なんでも疫病がはやって、死体が大路にまで溢れているそうじゃ。それに比べりゃあのう……」

 女は顔をしかめた。

 事実、こうして穏やかに雑談していても、いつ鬼が山から襲ってくるかわからない。ひりつくような恐怖と緊張感の中で、人々は息を潜めるように暮らしていた。

 それでも女たちがこうしてお喋りしていられるのは、彼女たちが既に村の男との間に子を何人も産んだ中年女だからだった。鬼は、若い女が好きだ。

 いつの頃からか、闇雲に女子供を攫われちゃあ敵わん、ということで、生贄を捧げる風習ができた。年に二度、若い女――身寄りがなかったり、貧しい子沢山の家だったり、そういう娘が選ばれた。

 生贄の少女たちは、鬼に捧げられる前に七日間、祝の社へ入った。形式的に巫女となることで、鬼への生贄として差し出す口実としたのだ。

「何も、お前まで生贄とならなくともよいのに」

 と、祝の父は嘆いたが、安良媛は気丈な娘だった。

「父さま、里の娘たちが受け入れているのに、あたしだけが逃げるわけにいかないでしょう。祝の家の娘として、立派に役目を果たしてみせるわ」

 鬼との契約の日、祝である安良媛の父に先導され、白い着物に身を包んだ生贄の少女八人が屈強な男たちに囲まれて山へ入った。

 その日はよく晴れていた。安良媛が見上げると、早緑の梢が春の風に揺れている。

 ――世界はこんなに美しいのに、あたしたちときたらまるで葬列のよう――

と、思ったその瞬間。

「出た!鬼じゃ、鬼じゃあ!」

 ざざざざざっ、と道の左右の茂みが騒ぎ、が姿を現した。

「きゃああ……っ」

 娘たちは恐怖に叫び、互いに身を寄せ合った。怯える娘たちの中で、一人安良媛だけが両の足ですっくと地に立っていた。

 茂みの中に顔を出している鬼の数は想像していたよりも遥かに多かった。よく見るとその後ろの木々の合間にも何匹もの鬼がいて、到底数え切れない。

「……鬼ども」

 安良媛は口の中で呟いた。恐怖よりも、怒りが支配していた。

 一匹の鬼が、先頭にいた安良媛の父の前に立った。屈強な村の男の、誰よりも大きい。

「スクナイ ナ」

 まるで地の底から響いてくるような声だ。安良媛は背筋がぞわりとした。

「スクナイ スクナイ コレデハ」

 その鬼が言うと、取り囲んだ何十匹もの鬼たちが呼応する。

「ワレラノ ヨメ タリナイ タリナイ タッタ ノ ハチ ニンデハ」

 その言葉が何を意味し、何故ぞっとしたのか自覚する前に、安良媛は隠し持っていた短剣を抜いていた。

「よせ、安良媛!」

 父の声が聞こえたが、もう止められなかった。安良媛は鬼の、むき出しの首元を狙ったつもりだった。地面を蹴って勢いをつけ、身体ごと短剣を深々と刺した。だが、鬼のほうが冷静で早かった。

 安良媛の剣が貫いたのは、他ならぬ父の肉体だった。太刀筋を読んだ鬼は安良媛の父の身体を盾にしたのだ。

「あ、あ!」

 安良媛のすぐ目の前に、父の顔があった。ふつふつと脂汗が浮き出るのが見えるほど、近い。目が合い、父の口から苦しげな呻きが漏れた。安良媛の思考はそこで停止した。

 山から大挙して鬼が下りてくるのを見て、里の人々は恐慌状態となった。

「鬼じゃ、怨羅じゃあーっ!」

 農作業を放りだし、人々は逃げ惑った。鬼に追いつかれて農具を振り上げた者は、すぐに武器をもぎ取られ、頭を割られた。大刀を持った鬼は里人の身体を真っ二つに裂き、家々の扉と言わず壁と言わず叩き割った。そして恐怖のあまり立ち上がれなくなった女たちを老若構わず担ぎ上げ、攫っていった。

 全身を激しく揺さぶられて、安良媛は正気を取り戻した。目の前を地面が物凄い速さで移動していく。鬼が自分を担いで山を駆けているのだ。吐き気が襲ってきて、頭のほうが下になっていたためそのまま吐瀉した。安良媛が吐いても叫んでも暴れても、鬼は構わず走り続けた。

 三度目に吐いた時、唐突に鬼の動きが止まった。

 鬼は何事か言ったが、安良媛には理解できなかった。鬼の言葉だ、とぼんやり思った。乱暴に下ろされて、安良媛は立っていられずに地面に倒れ込んだ。ずっと揺られていたせいで、ふらついて立ち上がれない。まだ小さな安良媛の身体の、二倍、いや三倍はある鬼の肉体が、安良媛の上に覆いかぶさってきた。強烈な臭いが鼻をつく。これから自分は喰われるのだ。安良媛は目を閉じた。

 その時、全く別の声がした。一言目はやはり鬼の言葉だったが、その次の言葉は安良媛にもわかった。

「やめろって言ってんだろう、まだ子供だろうが」

 それは他の鬼たちとは違い、なめらかで、温かい声だった。

 安良媛の上に乗っていた鬼が、弾かれるように横に飛んだ。鬼を殴り飛ばしたのは、(里の男が助けに来たのか)という安良媛の期待を裏切り、新手の鬼だった。

「怪我はないか?まったく、ひでえ騒ぎだな」

 その鬼はそう言って安良媛に手を差し伸べ、微笑んだ。背中の中程まである、黄金に実った稲穂のような髪が、夕日を反射して輝いている。その額には、やはり金色の冠を載いていた。

「あ……ああ、村が……みんなが、父さまが」

 安良媛は震える声で言った。まともな言葉が出てこなかった。涙だけが流れた。

 それでも鬼は、わかった、というように頷いて、安良媛の頭をくしゃりと撫でた。

「もう大丈夫だ。俺がぜんぶ止めてやるから、心配するな」

 そう言って鬼はまた笑った。

 金冠の鬼は安良媛をひょいと肩に乗せて駆け出した。それはまるで風のようで、先程の鬼とは違い、不快な揺れはまったくなかった。そのまま里に駆け下りると、手にした剣で暴れる鬼たちの頭上を薙ぎ払った。すると竜巻のような風が起きて、暴れていた鬼たちはばたばたとその場に倒れた。

「すごい……」

 安良媛は目を見張った。

 金冠の鬼が、何事か鬼の言葉で怒鳴った。その声は空いっぱいに広がって、はるか遠くの海まで届くようだった。

 地面に倒れた鬼たちは、よろよろと立ち上がって何事か抗議の声を上げた。だが、金冠の鬼がぎろりとひと睨みすると、大人しく山へと向かった。

「なんて言ったの?」

 安良媛は恐る恐る尋ねた。

「山へ帰れとな。生贄の女を返して帰れ、と」

 金冠の鬼はそう言って、にやりと笑った。

「女は攫うもんじゃねえ、口説くもんだ、ってな」

 不思議だ、と安良媛は思った。この鬼は、怖くない。

 そして、山に入ってからずっと怖くてたまらなかったことに気がついた。気を張っていて、恐怖に目を向けていなかっただけだ。

「あたしは安良媛。あなたは?」

「俺は剛伽夜叉だ」

 剛伽夜叉と名乗った鬼は、安良媛を社まで送ってから山へと去った。

 安良媛の父は生きていた。鬼を殺すつもりで刺した剣は、父の臓腑にも達していなかった。たとえ父に刺さらずとも、鬼の分厚い皮膚は到底破れはしなかっただろう。

 その夜、社には里の者が集まって遅くまで話し合いが行われた。

「もう我慢の限界じゃ。あの山ごと鬼を焼いてしまおう」

「だが、もし怒り狂って報復に来たら、どうするんじゃ?」

「戦じゃあ!今までも、儂らが作った作物を好き放題に奪っていっとったんじゃ。このままでは次の冬は越せん。飢え死にやこうするくらいなら戦って死ぬほうがましじゃ」

 そうだそうだ、と賛同の声が上がる。

「ねえ待って。あの、山には金の冠の鬼もいるかもしれないわ」

 安良媛が口を挟んだ。

「それがどうした。鬼は皆殺しじゃあ!」

「あの金の冠はあたしたちを助けてくれたのよ。あの金の冠がいなかったら、村はぜんぶ鬼たちに食われていたわ」

「だが鬼の仲間じゃろう」

「仲間――なのかしら」

 安良媛は鬼の棲む山の方を見遣った。山は星空を切り取って黒黒とそびえている。


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