愛が交差する時

植木 苗

第1話 始まり

「過去の交際を奥さんに知られたくなければ、五千万円用意してください」


 俺は元恋人から唐突に受けた脅迫文を見て、ただただ呆然とした。あんな別れ方をしておいて、どうしてこんな……


◇◇◇


「ねぇねぇ。また差出人不明のポストカードが届いてたよ」


 妊娠中の妻、千春がスウェーデンの街並みが印刷された、おしゃれなはがきを手にリビングへ入ってきた。


 俺にはこのはがきの差出人が何となく予想できていた。しかし、3ヶ月前から毎月1回送り続ける意図がわからず、それを放置するしかなかった。


 どのはがきにもヨーロッパの景色と一緒に、同じ英語の詩が刻まれている。


『Unseen bonds pull us close, Multitudes of stars bear witness, Naught but love remains.』

――見えない絆が私たちを引き寄せ、無数の星々が見守る中、愛だけが残る――


 臭い愛の詩だ。


「きっと何かの勧誘だろう。無視しておけば良いよ」

「ふーん……あ、そういえばね。私、ちょっと前からSNSでマタニティダイアリーつけてて、今日いいねを100もらったの! 見て」


 千春は興味なさげにポイっとはがきをゴミ箱に捨て、笑顔で別の話題に移った。


 その後すぐに、封筒の手紙が送られてきた。宛名には「岡本勇気」と俺の名前が書かれ、差出人には大学時代の恩師でもある『中島浩二』先生の名が記されていた。


 どうして中島先生が? すぐさま手紙を開けたが、実際は中島先生からの手紙などではなかった。


◇◇◇


勇気さまへ


 拝啓

 春風の心地よい季節になりましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。こんなかしこまった手紙を書くのは初めてですね。


 中島浩二先生の名前を使ってしまい、ごめんなさい。自分の名前では読んでもらえないのではないかと不安で、あなたの恩師の名前を使わせてもらいました。奥様にとってもそれが最善かと思って。許してください。


 つい先日、少し用があり京都へ訪れました。10年ぶりでしょうか。


 河原町通りを歩く学生達を見ていると、何となくあなたが歩いているような気がして無意識に目で追ってしまう自分がいました。


 当時、有名大学に通うあなたは本来なら住む世界が違う相手でした。そんなあなたと過ごすことができた1年半は人生の中でも宝物です。


 あの頃よく将来は一緒にヨーロッパを一周しよう、なんて話していましたね。ヨーロッパには一体何があるのか、どの国が当てはまるのかさえわからないと言ったら、あなたは丁寧に教え、夢を見させてくれました。


 ヨーロッパのこと以上に「将来は」というあなたの言葉が心に響き、当時の自分には明るい未来が待っている、そうワクワクさせてくれたのです。


 いや。こんな昔話、必要ないですね。久々に手紙というものを書いたので少しテンションが上がってしまいました。


 あんな別れ方をした身分でこんな手紙を出して申し訳ないです。あなたはこの手紙を読んでくれているかな。もし話を聞いてくれるのであれば、お返事ください。


 時節柄ご自愛ください。

                                    敬具

福見はるか


◇◇◇


 福見はるかは紛れもなく、俺の元恋人だ。出会いは大学2回生の春。俺が父を亡くしてから3週間後のことだった。


 俺は初めての家族喪失に何をしたらいいか、何を考えたらいいか、右往左往していた。父が胃がんだったことは数ヶ月前から知っていたが、病室での元気そうな顔を見て「大丈夫だ、俺の親父が死ぬわけない」なんて理由のない自信を持っていた。


 バタバタ混乱する俺がいる一方で、母は落ち着いていた。父なしでは生きていけない程に父を愛し、支えられてばかりだったあの母がだ。穏やかな性格はどこか頼りなく、一人では遠出もできないのではないかと思っていたが、葬儀の間は凛として喪主を勤め上げた。


 俺はいずれ母を支えてあげられる立派な息子になりたい。漠然とそう考えていたが、当時の俺にはそんな器は一ミリも備わっていなかったのだ。


 父への親孝行一つできず、さらに母の頼りにもなれなかった自分に失望し、俺は無気力状態にあった。


 そんな時、友達の拓也が引きこもりがちの俺を外へ連れ出してくれた。四条烏丸にある『キョートミラージュ』というナイトクラブだった。


 初めて行ったナイトクラブは薄暗いのに奇抜な色の照明で音楽も爆音。到底安心できる場所とは言えないが、現実を忘れるにはもってこいの世界だった。行き慣れている拓也は俺を放ってホールの前方まで歩いて行く。


 1人にしないでくれよと内心焦ったが、俺はオドオドしている姿を隠すようにクールな顔で隅にあるやけに高い椅子に座った。


「これ飲みますか?」


 話しかけてきたのは体格の良い大男。ナイトクラブの店員だろうか。異性同士で「このお酒をあちらの席に」なんて昭和じみたナンパ方法は聞いたことがあったが、大男から酒を勧められるなんて想定外だ。


「とっても美味しいですよ」


 大男がニヤリと笑う。俺はしつこい奴だなとうざったく思ったが、断りきれず試飲か何かだと勘違いしてグラスを手に持った。そのまま口に運ぼうと肘を上げた瞬間、か細いが芯の強い声が聞こえた。


「待って。それは飲んじゃいけない」


俺の肘が止まる。


「はあ?なんだよ、テメェ」


 大男がそう言って声のするほうに睨みをきかせる。細い手が薄暗闇からニュッと伸びてきて俺の手を引っ張った。


「行こう」


 声の主は俺の手をしっかりと掴み、細い身体で人混みをスルスルと擦り抜けながら店の外へ出た。大男は俺たちに何かしらの罵声を浴びせていたが、そんなのお構いなしだ。


「え?君、何なの?」


 俺はせっかくの非日常から引っ張り出され、やや迷惑な顔をした。


「さっきのお酒は薬入り。断れなさそうなオドオドした人に配って薬漬けにする」

「え?本当に?」

「そもそも知らない人から物をもらうなって、親に教わらなかった?」


 道路を走る車のテールランプがパァっと明るく光り、ハッとした。夜道でもわかる白い肌に整った顔が笑みを浮かべる。思わず生唾を飲んだ。後から思うと一目惚れだったのだろう。この時は全く気づいていなかったが。


「あ、そうだったんだ。知らなかった、こういう所初めてで」


 すぐにお礼を言うべきだったが、ありがとうと言ってしまえばその場ですぐ「じゃあ」という別れの言葉が出てきそうで、俺は敢えて口に出さずにいた。


「別の場所で飲み直す?」


 またも、か細く芯のある声で俺を誘ってくれた。今度はその中に少し照れがあったように思う。


「友達がミラージュの中にいて……あ、でも大丈夫です。どうせアイツ他にもクラブ仲間がいるし。メッセージだけしておきます」


 ピコピコとメッセージを打つ音が夜道に鳴り響いた。少し歩いて、居酒屋に入るなりその子は俺に名前を教えてくれた。


「名前は福見はるか」

「俺は岡本勇気。20歳で京都国際大学の2回生です。福見さんも大学生?」

「ううん。フリーター。でも20歳は一緒、だからはるかでいいよ。こっちも勇気って呼ぶよ」

「あぁ! うん」


 俺ははるかと良い友達になれると直感していた。それははるかからきょうだいや家族のような親しみのある落ち着く雰囲気が漂っていたからだ。


 初対面というのに俺ははるかと夜通し話し合った。大学での出来事や流行りのこと、SNSやインフルエンサーのことなど、若者によくある話題だ。


 お腹を抱えて笑うなんて場面はなかったが、はるかから聞こえる言葉は丸みを帯びていて温かくずっと前から親友だったんじゃないかと錯覚するようだった。


 何よりもはるかの優しい笑顔を見ていると、父を失った悲しみを少しの間だけ忘れることができた。


「眠くない?」

「あ、もうこんな時間か」

「ありがとう。楽しかった」

「俺も。ありがとう」


 お礼の言葉がさようならという別れの言葉にならないように、俺は咄嗟に「また遊ぼう」と声をかけた。すかさずスマホを取り出してQRコードを向ける。


 はるかは「OK」なんて軽い口調で自分のスマホをカメラに切り替え、コードを読み取っている。断られずに良かったとホッとする自分がいた。はるかとはきっと親友になれる、そう確信していたからなのか、それ以上の関係を望んでいたからなのか、その時は当然前者の気持ちだった。はずだ。


 俺とはるかは週一回の頻度で飲みに行く間柄になった。2人の時間のおかげで俺は父を失った悲しみから少しずつ立ち直りだしていた。


 しかし、その一方でふとした瞬間に悲しみと後悔が湧き上がり、発作的に涙が止まらない時もあった。その瞬間は本当に急で授業中や友達と遊んでいる時などさまざまだ。


 大抵の友達は俺が泣いていることに驚き、笑いながら茶化す。バツが悪そうに黙って立ち去る奴もいた。そっとしてくれていたのかもしれない。それでも、俺としてはどこか寂しさを感じていた。


 ただ一人、はるかは違った。


 ある日、一緒に居酒屋のメニューを見ていた時のことだ。お酒好きの父が大好きだった「たこわさび」の文字が飛び込んできた。


 父は晩酌のおつまみに、たこわさびをチビチビと食べることを好んだ。減るのが遅いもんだからうっかり切らしてしまうことも珍しくなく、「おい、勇気。コンビニでたこわさび買ってきてくれないか?」と頼まれることがあった。


 俺はお風呂から上がったステテコ姿の父に「面倒くさいから無理。自分で行けよ」なんて言葉をかけていた。結局一度もたこわさびを買いに行ったことはない。


 どうしてあの時、買いに行ってあげなかったんだろう。父は俺が頼むゲームソフトをどれだけ疲れていようが買いに行ってくれたのに。俺はどうしてしてあげられなかったんだろう。


 もうそんな小さな恩返しさえできない。考えても仕方がないのに頭によぎる。俺の目から静かに涙が流れると、はるかはそれを見て小さく驚いていた。


「ごめん。なんか目がおかしくて」


 誤魔化そうとする俺を真っ直ぐ見つめたはるかはこう言った。


「別に泣いてもいいよ。側にいるから」


 俺の右手をはるかが柔らかい手で包み込む。俺は肩に乗っていた重い重い荷物がスッとおりた気がした。それと同時に涙が溢れ出た。子どもみたいにおいおいと泣く俺に、はるかは温かい眼差しを送り、何かを言うことも、聞くこともなく、ただただ見守るだけ。


 落ち着いてから俺は父の話をした。父の好物、趣味、どう接してくれたか、どこに連れて行ってくれたか。他人にとっては全く興味のないくだらない話だっただろう。それでもはるかは文句一つ言わず、しっかりと相槌を打ちながら聞いてくれた。


 この人になら何を話しても受け入れてもらえる、甘えられる、素の自分でいられる、はるかは俺にとってそんな特別な存在。親友以上の……大親友というのか。


 はるかは誰もが認めるであろう端正な顔立ちの持ち主だ。何の仕事をしているのかと聞くと、あっさり夜の仕事だと答えた。特別驚くことはなかった。お客の隣に座り酒を飲む、綺麗な顔だと言われてうっとりされる。そんな想像がすぐにできたからだ。


 ただ心の中でチリッと小さな火花が散る感覚があった。はるかが別の誰かに触れられることもあるのか、と考えるだけで頭がカッと熱くなる。今思うと嫉妬心だったのだが、当時はこの感情の理由がわからず、出口の見えないイラつきを抱えていた。


 はるかは時々、夜中に泣きながら電話をかけてくる時もあった。詳しくは語らない。ただ、俺の声を聞くと落ち着くからと言って。俺はきっと理不尽な客がいて嫌味を言われたんだろうと勝手な妄想を膨らませ、「そんな仕事辞めちまえ」と言ってやりたかった。しかし、一体どの立場から言えばいいのか。何度も考えてはその言葉を心に閉まっていた。


 それでも、はるかが辛い時、俺の声を聞いて少しでも癒しになっているならそれだけで嬉しかった。俺にはそれくらいしかできない、それ以上はできない。


 心のストッパーが外れたのは、出会ってから3ヶ月が経った頃だ。その日、はるかは明け方に電話をかけてきた。夜中に電話をもらう日はあっても朝にかかってくることは一度もない。何となく胸がざわついた。


「勇気、ごめん。電話してごめん」


 悲しみを押し殺しながら泣いているのがわかった。


「はるか、大丈夫か? 今どこ?」

「道」

「え? どこの道?」

「わからない」

「何が見える?駅とかないのか?」

「ラーメン筒井って看板が見える」

「OK! 場所がわかったから今から行く」

「授業は?」


 はるかが俺を心配しているのがわかったが、言葉の途中で電話を切る。胸騒ぎをかき消すために外に飛び出した。ラーメン筒井は大学の友達とよく行く上品な味が魅力の塩ラーメン屋だ。2人でラーメンを食べて帰れば、きっと元気が戻るだろう。


 俺はラーメン筒井から数メートル離れた雑居ビル前に座るはるかを見てゾッとした。右目が大きく腫れており、左端の唇にも血が滲んでいる。頬にもぶたれた跡が広がり、白い肌が薄紫に染まっているのがわかった。


「はるか! 大丈夫か?」


 すぐに駆け寄って、タクシーで自宅へ戻った。はるかは何も話さずにシクシクと泣くばかり。そこには、初めて会った時に見せた大男に立ち向う芯の強さはなかった。


 早く手当をしようと冷凍庫にあった保冷剤と我が家で一番綺麗なタオルを取り出して、はるかの顔に当てる。


「痛い」

「あ、ごめん。消毒液買ってくるわ」


 俺がその場で膝を立て、立ち上がろうとすると、はるかはグッと俺の手首を握った。


「側にいてほしい」


 胸が締め付けられる想いだった。はるかは俺の親友だ、そう思っていたはずなのに。それ以上の感情が込み上がってくるのがわかる。いや、その前からはるかと結ばれたいと感じていたのに、本当の感情を抑えつけ封じていたのだ。


 それでもやっぱりダメだ。握りつぶされそうな心臓を落ち着かせ、もう一度座り直した。


「わかった。側にいるよ」


 抱きしめたかった。強くはるかを抱きしめて悲しみから解放させてやりたかった。しかし、それをすると俺たちの友情は崩れ落ちてしまうだろう。拒絶されてもう会えないかもしれない。はるかに会えないなんて考えられない。


 これは俺にとっても初めての感情だった。これは過ちだ、気の迷いだ。そう言い聞かせ、芽生えてしまった恋心に固く蓋をするしかなかった。


「あのね」


 10分くらい経って、はるかは口を開いた。恐る恐る、壊れそうな薄いガラスが割れないか確かめるようにゆっくりと話し始める。


「親が小さい時に交通事故で死んで、これまで妹と一緒に生きてきた。妹は自分と違って賢くて頑張り屋なんだ。予備校にも行かず……お金がなくて行けなかっただけだけど。猛勉強して、今は大学の女子寮に住んでる。それでも学費は高くて」


 はるかに妹がいるのは知っていた。しかし軽く触れる程度で家庭の事情を聞くのは初めてだった。 


「これまでお金のために夜の店で働いてきた。でも、なかなか上手くいかなくて……ずっと売りをやってる」

「売り?」


 一応聞き返してみたものの、その言葉の意味を一瞬で理解した。心臓がバクバク鼓動を高めるくせに、脳に血液が行き届かない。頭が真っ白になっていく。


「おじさんに買われてる。汚いでしょ? バカだから、自分の生活費と妹の学費を稼ぐにはこれしか思いつかなくて。店の人に誘われて、こんな仕事で妹を大学に」


 はるかの言葉に嗚咽が混じる。


「もういい。もう話さなくていい」


 これ以上聞きたくないと思った。はるかは俺の親友で、親父を失った俺の心の穴を埋めてくれた特別な人。俺は涙を拭うように袖で顔を覆う。


 涙を拭き終え、再び目を開けた時、俺にははるかが尊い女神のように見えた。妹のために自分の生活を捨ててまで身を削って毎日を送っている。歯を食いしばって耐えている。


 殴られたはるかの頬に優しく手を当てる。


「綺麗だよ」


 涙が混ざった声で本心を告げると、はるかはさっきとは違う嬉しさの涙を流した。そして、潤んだ瞳で「ありがとう」と言葉にならない声でお礼を言った。


 俺はこれまで抑えつけていた感情が一気に解放され、はるかのことを抱きしめた。綺麗な瞳と目を合わせ、小声で「嫌か?」と確認する。はるかは少し驚いた表情を見せたが、嫌がっている素振りはない。自らを汚いと言ったはるかに上書きするように強く強く愛したいと思った。


 はるかの吐息を側で感じながら、俺は目を閉じてキスをした。

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