第九話 - 真也の記憶
隼人が帰ってから間もなくして、今度はミカが店に来た。
こいつも顔馴染みだが、れっきとした客だ。灰谷目当ての客だ。
「いらっしゃい」
せっかくの俺の眩しい笑顔をガン無視して、ミカは灰谷に話しかける。
「新しいレコード入った?」
「さっき陳列したばかりだ。ミカさんが好きそうなジャズのコレクションが……」
俺はつまらなくなって、ふたりの会話から耳を逸らした。
灰谷はモテる。あいつは、長身で翳のあるイケメンってやつだ。ミカをはじめ、あいつのファンは多い。男からも人気ある。
俺にはそういうのは全然ねえ。だけど、灰谷に僻むほど、腐ってもねえぞ?
俺は俺で気になってる人がいるんだ。たくさんの人々から愛されるより、俺はたったひとりと魂を震え合わせることができりゃ、それでいい。
灰谷と楽しげに話し込んだ後、ミカはレコードを3枚買っていってくれた。正直、助かる。
***
18時になった。灰谷が帰る時間だ。あいつは毎日10時から働いてくれてる。俺はその時間に起きるのつれえから、マジ助かってる。
ここからは俺ひとりになるから、このタイミングでトイレに駆け込んでおく。
灰谷が店を出て、俺はひとり天井を仰いだ。あと3時間だ。頑張ろう。
煙草が欲しくなったけど、勤務中は吸わねえことにしてる。正確には、最近吸わねえようになった。
そして、その理由が今まさに俺の前に現れた。
18時15分。女性がひとり、入店してきた。
彼女は時々、店の前を通り過ぎていく女性だ。 思い詰めた顔して歩いてることが結構あって、最初はそれが気になってた。そんで、何度か目で追う内に、すげえ可愛い人だなって思うようになった。
先月くれえから、ちょくちょく店にも立ち寄ってくれるようになった。近くで見るとさ、マジ可愛くて、すげえいい匂いすんだよ。そっからはもう、ぞっこんだ。
女性は入口付近の棚を眺め始めた。いつものことなんだが、なんでか入口のセンサーは彼女に反応しねえ。だから、よーく入口見てねえと、彼女の入店を見逃しちまうことがある。故障してるのかもしれねえが、直すのめんどくせえんだよな。金ねえし。
女性は店内のレコードに目を通した後、「こんばんは」と俺に挨拶してきた。
心臓が飛び跳ねた。
彼女の方から声をかけられたのは初めてだ。とろけてしまうような、甘い声だった。
こほんと、ひとつ咳払いしてみる。喉の調子は悪くねえ。今日は引きこもってくれてた花粉たちに感謝だぜ。
「こ、こんばんは」
噛みそうになりながら、あらためて彼女を見た。
すげえ可愛い、小柄な女性だ。
はっきりとした顔立ちに、ピンクベージュのふんわりボブが似合ってる。豊かな曲線を描く身体に、華やかな桃の香りをまとってる。やばい。やばすぎるぜ!
実は以前にも一度だけ言葉を交わしたことがあった。だけど、そのときは彼女が俺の煙草のにおいを嫌そうにしてて……まあ、そういうことだ。
あの日から俺は店に立つときは煙草吸わねえようにしてるし、洗面所行ったら即効でブレスケアする。
今日、彼女から声をかけてくれたという幸運は、このひたむきな努力に運命の女神が微笑んでくれた結果に違いねえ。
しかし……いざチャンスが来ても、気の利いたセリフが出てこねえ。
彼女の視線を感じて、俺は言葉を探すのに必死になった。頭の中は真っ白で、まともな言葉が浮かんでこなかった。狂ったリズムで鳴り響く鼓動がうるさくて、全然集中できねえ!
しどろもどろになった俺を、彼女が不思議そうに見つめてくる。やべえ、可愛すぎる!
俺は慌てて、レジの下に隠しておいたレコードを取り出した。
プレイヤーのスイッチを入れ、そっとレコードを乗せる。針を落とした瞬間、甘いバラードが店内に響き渡った。
女性ウケ抜群の逸曲だ。まずはムードを作り込む!
だが、俺の思惑とは裏腹に、彼女は眉をひそめ、視線を床に落としてしまった。明らかに困惑してんのが俺にもわかった。
甘ったるいバラードは彼女の好みじゃなかったみてえだ。店の雰囲気とは明らかにミスマッチで、居心地の悪さを感じさせちまったらしい。
女性は無言で店を去っていった。千載一遇のチャンスを逃がした俺は、がっくりと肩を落とした。
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