第五話

 男は高岡たかおか真也しんやと名乗った。


 一同はその場で簡単な自己紹介を済ませ、一旦解散することとなった。真也が喫煙所に寄りたいと言い出したからだ。

 白桜商店街の店舗はすべて禁煙のため、最寄りの喫煙スペースは商店街を北に抜けた先にある白桜町駅前となる。往復で約10分ほどの距離だ。


 喫煙所に向かう真也を見送り、涼介たちは事務所へ戻った。

 カフェをオーナー夫婦に任せ、真桜も少し後から合流した。


 彼女はかねてより、カフェを訪れる客たちから藤堂探偵事務所の評判を耳にしていた。人々の満足げな様子が事務所への信頼を物語っていると思っていた。


 しかし、真桜自身は茉莉花たちに何かを依頼したことはない。今回、真也を紹介したからには、成り行きを見守る責任があると彼女は感じていた。


 そう語る真桜に、涼介は先程より気になっていたことを尋ねた。


「話変わって申し訳ないっすけど……カフェ憩の新しい内装は真桜さんが考えたんですか?」

「そうなのー! 私、ずっとカフェやりたかったから、いつも頭の中で自分の理想のお店のイメージを膨らませてたんだよ」


 なるほど。だから、わずか3週間で内装を変えることができたのかと涼介は得心が行った。きっと彼女は、ずっと思い描いていた夢を叶えたのだ。

 真桜の熱意は彼の胸を打った。彼女が事業承継すれば、この先はカフェ憩はさらに成功していくことだろう。そう思えた。


 そのとき、テーブルの向かい側から軽い舌打ちが聞こえた。


「遅い。何本煙草吸ってんだ、あいつ」

 古時計を見ながら、茉莉花が悪態をついた。


 真也が喫煙所に向かってからもう30分近くが経っている。待ちくたびれたジョシュが眠たげに大口を開けて欠伸した。


 その数分後、涼介と真桜がコーヒーを淹れ始めたとき、インターホンの呼び出し音が事務所に響いた。


 涼介が扉を開けると、濃厚な煙草の香りが漂った。茉莉花が小さく顔をしかめる。待たされたことの苛立ちと重なり、彼女はひどく機嫌を崩していた。


 だが次の瞬間、茉莉花の瞳に星が瞬いた。


「よお」と言いながら入ってきた真也のその手には、ハーモニー食堂の保冷バッグが握られていた。


***


 来客用のテーブルに、人数分のコーヒーとケーキが並んだ。


 ハーモニー食堂はその名が示すとおり食堂だが、スイーツも展開しており、大変な好評を博している。常に長蛇の列ができていて、ケーキを買うだけでも一苦労だ。


 純白のクリームの下に鮮やかな苺のムースが隠された新作ケーキは、茉莉花の心を強く魅了した。ほのかに漂う甘い香りは、幸せへの誘いだ。彼女はスイーツを心から愛していた。


 真也は美味しそうにコーヒーを啜り、本題を切り出した。


「実はよ、俺の店からレコードが盗まれたんだ」

「レコード?」涼介が聞き返す。

「ああ。俺は中古レコード店を経営してんだ。そこから、貴重なレコードが盗られっちまったんだよ」

 真也は拳を握りしめ、声に力を込めた。


「俺は誰がそのレコードを盗ったのか知りてえんだ。力を貸してくれ!」

 真也の表情は真剣そのものだった。空気が震えるような強い気迫が周囲に伝播する。


 涼介は思わず唾を飲み込んだ。彼にとって初めての依頼だ。微かな緊張が全身を駆け巡る。


「わかりました。協力させてください」涼介は真摯に答えた。


「任せろ。ケーキの恩は返す」茉莉花はケーキを口に含んだ。


「おいどんたちは決して悪を許さない、正義の味方にゃす!」ジョシュは息を巻いた。


「うえっ、ネコが喋った!?」真也は仰天して目を見開いた。


「おー、ほんとに喋ったー!」真桜はなぜかパチパチと拍手した。


 真也は現実を確かめるように、頬をつねったり目をこすったりしている。その様子を見て、茉莉花は軽くため息をついた。


「そう。こいつは喋るネコ」

 茉莉花がジョシュを指差すと、ジョシュは胸を張って声を張り上げた。


「探偵助手のジョシュにゃす!」

 チリンと、首輪の鈴が軽やかに鳴った。


「えっ……あ……はい、よろしくお願い……いたします」

 真也は完全に混乱していた。茉莉花は面倒な説明を省くため、強引に話を本筋に戻した。

「そんなことどうでもいいから、依頼の話を聞かせて」


「あ、ああ。よし! 俺の話を聞いてくれ」


***


「盗難事件が起こったのは、2月22日。盗まれたレコードは、史上最強のパンクバンド『The Crimson Royalsザ・クリムゾン・ロイヤルズ』の代表作、『Scarlet Revolutionスカーレット・レボリューション』の初回プレス盤だ。売れば、300万円くれえになるな」


「うわあ」と真桜が声を漏らし、ジョシュの目には真也への同情の光が浮かんでいた。真也はその反応に複雑な思いを感じながら、言葉を続けようとした。


「あの日、俺は——」

「ちょっと待って」突然、茉莉花が真也の発言を制した。


「私たちは特殊な能力を使って調査するから、あなたはもう話さなくても大丈夫」

「は? どういうことだよ?」真也の顔に困惑の色が浮かぶ。


 茉莉花は構わず続ける。


「ここにいるこいつはただのネコじゃない」

「まあ、喋るしな……」

「このネコには人の記憶を読んで、記録として書き起こす能力がある」

「は、はい?」


「百聞は一見に如かずだにゃ。シンヤの記憶を見せてもらってもいいにゃすか?」

「ど、どうぞ……」

「そんじゃ、失礼しますにゃ」


 ジョシュはトコトコと真也に近づくと、ソファに飛び乗り、彼の右腿に前足を乗せた。


 次の瞬間、ジョシュの身体が青みを帯びた光の粒を放ち始めた。真也は息を呑んだ。蛍のように宙を舞う淡い光の粒子が、午後の日差しの中へゆっくりと溶け込んでいく。


「ここだにゃ!」

 ジョシュの瞳が青く輝き始めた。周囲の空気が僅かに震える。


 まるで水面に映る月影のように、真也の記憶が光となって揺らめき始めた。ジョシュはその光を、まるで見えない糸で手繰り寄せるように、慎重に前足で掬い上げていく。


 次第に光は形を成し、巨大なシャボン玉のような光球となった。球の中で、真也の記憶が万華鏡のように旋回している。時折、記憶の断片が表面に浮かび上がっては消えていく。


「マリカ!」


 ジョシュは前足に光球をまとい、茉莉花の方に駆け寄っていく。茉莉花はノートブックと万年筆をテーブルの上に置いた。ジョシュは前足で器用に万年筆を握りしめた。光球が万年筆に吸い込まれ、青白く光るインクとなった。彼はそのまま、凄まじい速度でノートに光る文字を書き込んでいった。


「ネコが……ペンを持って……文字を書いてる……」

 ブツブツと呟く真也に、涼介は優しく微笑んだ。

 ふたりは目を合わせ、小さく頷き合う。


「これはもう、こういうものだと思ってください。考えてわかるようなことじゃないっす」

「あ、ああ……。そうだな。俺は、もう考えるのをやめるよ」

 このとき、ふたりの間に奇妙な連帯感が生まれた。


「できたにゃす!」


 ジョシュは一息ついて、万年筆を置いた。彼の足元のノートには、幾ページにも渡り、文字がびっしりと書き込まれていた。


「こりゃいったい何なんだ?」真也がもっともな疑問を口にした。


「おいどんの能力、『記憶きおくしずく』だにゃ!」ジョシュが得意げに答えた。


 『記憶の雫』は、ジョシュが触れた人間の記憶の中から、必要な情報だけを抜き出して、文章にまとめる能力だ。ジョシュはこれを『記憶の海から目的の情報を掬い取る』と表現している。


「マジかよ……」真也は目を見開き、ノートを凝視した。

「このノートには、事件当日の真也さんの記憶が綴られてる」

 茉莉花はノートを広げ、全員が見えるようにテーブルの中央に置いた。

「この記録を読むことで、私たちも事件当時の様子を追体験することができる」


 ジョシュは茉莉花の膝の上に飛び乗って右足を挙げた。万年筆から溢れ出す光は、もう消えていた。


「さあ、シンヤの記憶の世界にレッツゴーだにゃ!」

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