第三話

 事務所の古時計が正午を示す鐘を鳴らすと、涼介は席から立ち上がり、身体をぐっと伸ばした。

 全身の筋肉がバランスよく鍛えられた彼の身体は凝りに強かったが、ストレッチを入れることにより、集中力の回復を図る狙いがあった。


「お疲れさま」

 いつの間にか、背後に茉莉花が立っていた。彼女は涼介がこの数時間で処理した厚い紙の束を眺めた。


「この短時間でここまで捌くとは……やるな」

「ありがとうございます。でも、まだまだたくさんあります……」

「そうだね。でも、ひとまずお昼食べよ?」


 涼介は茉莉花の言葉の端々から、彼女の不器用な心遣いを感じ取っていた。彼はその厚意に笑顔で返す。


「はい。確かにお腹空きましたね。おふたりはいつもお昼どうしてるんですか?」

「ここで適当に作るか、デリバリー頼むか、外に食べに行くか……かな」


 事務所には小さな台所スペースがある。清潔に保たれた調理台。水切りには、センスの良い食器類がいくつか並んでいる。

 涼介は水切りの横に置かれた包丁スタンドを見て、そっと目を逸らした。茉莉花はその様子を見て、軽く首をひねった。


「……せっかくだから、商店街で食べたいっすね。おすすめのお店はありますか?」

「何か希望ある?」と、逆に茉莉花が尋ねる。

「残作業量から考えると……できれば事務所の近くがいいっすね」

「それなら1階のカフェにしよう。行ったことある?」

「半年ほど前に一度だけ」涼介は首肯した。

「カフェいこいっすよね。高齢のご夫婦が経営してる」


「うん。あの人たち、もうお店に立つのきついから誰かに事業承継したいって言ってて、最近新しい女の子が入ったの」

「そうだったんすね!」

「3週間くらい前からかな。今はもうほとんどその子ひとりでお店回してる」

「マジっすか!」

「その子、すごい人気だよ。めっちゃ客足増えたし」


 カフェ憩は、この商店街に古くからある老舗店舗だ。

 マスターこだわりのブレンドコーヒーが、常連客から高く評価されている。他方、品数が少ないフードメニューや、どこか威圧的な内装により、一見の客にはやや敬遠されがちでもあった。


 優秀な新人が入ったことにより、店にどのような変化が訪れたのか。涼介は興味を引かれた。


「ぜひ行ってみたいっす!」

「私たちも一緒に行くよ。ネコも入れるお店だから」

 そう言って、茉莉花はまたぐーすか眠っているジョシュの頬をつついた。


***


 3人は階段を降りて、カフェ憩に向かった。しかし、店の前に着くと、予想以上の混雑が広がっていた。行列が店の外まで伸びている。


「え? 今、こんなに人気なんっすか!?」涼介は驚きを隠すことができなかった。

「先週まではこれほどじゃなかったんだけど……」と、茉莉花がため息をついた。

 致し方なく、一同は一旦、事務所に戻ることにした。


 涼介は再び書類と格闘し、ジョシュは再び眠りに落ちた。

 豪快ないびきを掻いて眠るジョシュの身体から、不意に青白い光の粒が放たれた。その不思議な光の秘密を、涼介は知っている。


 『存在の力』。生物の記憶が放つエネルギーの呼称だ。

 初めて藤堂探偵事務所を訪れた日、涼介は茉莉花たちからそう教わった。


 茉莉花とジョシュには、事件解決に役立つ特殊な力がある。

 彼らはその能力で、普通は見破ることができない謎を解明することができる。今、眠るジョシュの身体から漏れ出ている光は、その力の断片なのだ。


***


 茉莉花の提案により、一同は14時に再度カフェ憩を訪ねた。幸運にも、今度はいくつかの空席があった。


 店内に入ると、さらなる驚きが涼介を襲った。


 あの個性的な内装が一新されている。白を基調とした壁が広々とした印象を与え、よく磨かれた重厚な木の床が空間に程よい落ち着きをもたらしている。所々に配されたアンティーク調の器具が目を引き、椅子には座り心地のよさそうなクッションが置かれている。


 窓際の席では、淡い光に照らされた常連客と思わしき面々が、美味しそうにコーヒーを楽しんでいた。その光景は、まるで絵画のようだった。


 カウンター席では、噂の新人店員が男性客と熱心に話し込んでいた。店員は涼介たちに気づくと、笑顔で彼らに近づいてきた。


「いらっしゃいませー!」


 可愛らしい雰囲気の女性だった。20代半ばだろうか。茉莉花と同じくらい、今夏で30歳になる涼介よりも少し若く見えた。


「おふたりさまとネコさまでよろしいですか?」

「うん」茉莉花が短く返事する。


「カウンター席でもよろしいですか?」

「うん」


 店員が微笑んだ。


「ふふっ、茉莉花ちゃんってほんと素っ気ないよねー」

どうやら、ふたりは顔馴染みのようだった。


 カウンター席に案内されると、ふたりの話題が涼介に向けられた。


「こちらが例のアシスタントの方?」

「うん」

「へえ、涼介さんっていうんだよね? 確かにかっこいい——」


 そう言いかけた店員を、茉莉花が鋭い眼差しで睨みつけた。

 涼介は、こうした状況に慣れた様子で、彼女たちの会話に参加した。


「清宮涼介です。今日から藤堂探偵事務所のアシスタントをやっています」

 そして、茉莉花に視線を向けて続けた。

「俺も紹介してもらっていいっすか?」


 茉莉花が応じようとすると、店員がにっこりと笑いながら自己紹介を始めた。


瑞木みずきです。瑞木真桜まお。今後ともよろしくねー」

「こちらこそ!」涼介は明るい笑顔を返した。


 しかし、彼の内面には、微かな戸惑いが生まれていた。彼女——真桜を間近で見ていると、彼の親しい人によく似ていることに気づいたからだ。


 肩にかかる軽やかなミディアムボブ。黒目がちな澄んだ瞳。筋が通った忘れ鼻。控えめな頬のえくぼ。ふっくらとした、華やかな唇。よく通る、甘美な声。溢れんばかりの元気感。小さな身体から発する、確かな存在感。


 涼介はそっと目を閉じた。

 はるり。

 心の中で、彼はその名を呟く。

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