第二話
「おはようございます」
涼介は事務所に一歩足を踏み入れて、明るい声で挨拶した。
「おはよう」
透き通るような女性の声が返ってくる。
涼介は視線を巡らせた。
木のぬくもりと自然光が織りなす、モダンな空間。壁面の棚には整然と資料が並び、その傍には観葉植物がささやかな安らぎを添えている。入り口近くの窓際には、柔らかな色合いのソファとガラス製のテーブルが配置され、相談者を迎える心地よい空間となっていた。
事務所の奥には重厚な天然木のデスクがあった。先程の声の主、所長である藤堂
涼介は軽く頭を下げ、そのデスクに向かって歩いた。
「早いね」
茉莉花はそう言いながら立ち上がり、デスクを回り込んで涼介と向き合った。腰まで伸びた艷やかな黒髪が、陽光を受けて淡く輝き、彼女の凛とした顔立ちを一層引き立てている。
彼女は探偵と助手の2名しかいない、この探偵事務所の代表者だ。
茉莉花は女性としては長身だった。180センチ近い涼介と比べても、10センチほどの差しかない。白いブラウスに紺のカーディガンを着こなすその姿は、すらりと伸びやかだった。ロングスカートのシルエットが、優美な気品を感じさせた。
「初日なので、少し早めに来てみました」
「うん。偉い」
茉莉花は頷くと、くるりと涼介に背を向けた。長い髪がさらりとなびく。
彼女は簡潔に事務所の案内を始めた。口調こそ素っ気ないが、その的確な指示からは細やかな配慮も感じられた。
涼介は無駄のないその説明から、言外にある情報まで汲み取っていった。
***
「……っていう感じ」
茉莉花が説明を終えると、涼介は礼を述べた。そして、気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、ジョシュさんは今日いないんですか?」
「あいつは寝てる」
茉莉花は軽くため息をついた。
「涼介さんが来るの楽しみにしてたんだけどね……読みかけのミステリー小説の続きが気になって、夜更かししたみたい」
「なるほど」
涼介が口元を緩めたそのとき、茉莉花のデスク横に堆く積み上げられた書籍の山から、ハチワレのネコが姿を現した。
「おはようございにゃす……」
今にもまどろみそうな瞳でそう呟くと、ネコは大きな欠伸をした。
このネコこそが、ジョシュ。人語を解する不思議なネコだ。
白と黒のパッチが特徴的なハチワレで、首には小さな鈴のついた赤い革の首輪をしている。体格は平均的なネコよりやや大きめで、茉莉花の膝の上にちょうど収まるくらいのサイズだ。
ジョシュは人間の言葉を理解し、話すことができる。一人称は『おいどん』。ネコと言えば『吾輩』だが、それは偉大なる先達たちのもの。自らをその域にまで至っていないと考えるジョシュは、代わりに大好きな西郷隆盛の一人称を拝借することにしていた。
涼介は初めてジョシュが喋ることを知ったときに受けた衝撃を思い出す。さすがの彼も、そのときばかりは自らの認識を疑った。だが、彼はすぐにその現実を受け入れることができた。
それは涼介が、『自分の目で見たものは、たとえ非科学的な現象であっても、信じるべき』という、柔軟な考えの持ち主だったからに他ならない。
前足で目を擦るジョシュに、涼介は優しい笑顔を向けた。
「おはようございます」
「リョースケ! ようこそにゃす! 汚いとこにゃけど、くつろいでにゃ〜」
ジョシュは尻尾を高く上げ、満面の笑みで答えた。首輪の鈴が軽やかに揺れる。
整理された事務所の中で、ジョシュの作業スペースだけが散らかっていた。本の山、ネコのおもちゃ、そして何枚もの走り書きされたメモ用紙が無造作に広がっている。
涼介はそれを稚気に富んだ愛らしさの現れだと感じたが、茉莉花は本の山を一瞥し、静かに舌打ちした。
「涼介さんには、古本屋さんへの荷物運びを頼みたいところだけど、まずは通常業務からにしよう」
ジョシュはギクッとして、本をかばうように前足を広げた。涼介はそんなジョシュの背中を撫でながら、茉莉花の作業説明に耳を傾けた。
涼介は探偵アシスタントとして、書類のデジタル化を担当することになった。電子機器に疎い茉莉花と、ネコのジョシュには難しい作業だったからだ。そして、これら資料の中には、涼介が探している情報が紛れている可能性があった。
デバイスやアプリの扱いに馴染んだ涼介にとっては簡単な業務だったが、書類の量が膨大であるため、大変な手間がかかった。
作業効率化を試みながらも、時間は矢のように過ぎていった。気がつくと、時刻は正午に迫っていた。
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