第一話

2024年3月25日


 カーテンが開く音がした。

 厚い雲の隙間から、柔らかな春の朝日が射し込み、優しく部屋を包みこんだ。


 午前5時57分。清宮涼介きよみやりょうすけはスマホのアラームが鳴る直前に目を覚まし、広いベッドからゆっくりと起き上がった。彼は無意識にダブルベッドの空白に触れ、彼女の不在を確認した。


 涼介は軽くストレッチをしながら、明かりが灯る洗面所へと向かった。冷たい水で眠気を払い、優しく口をゆすいだ。清潔感ある洗面台の鏡には、引き締まった彼の顔が映っている。眼の下には薄い隈が浮かんでいた。


 キッチンに入ると、爽やかなコーヒーの香りが広がっていた。彼が好む、イルガチェフェ特有の透明感ある柑橘系の香りだ。

 涼介はマグカップに熱いコーヒーを注いだ。オートミールにフルーツとナッツを添えて、手際よく朝食を整えた。


 彼の部屋はデザイナーズマンションの7階に位置していた。打ちっぱなしの壁に、モダンな家具と最新のスマート家電がバランスよく配置されている。


 涼介は部屋の隅々に置かれた観葉植物に水を与えた。ひとつひとつの植物を丁寧に観察して回る。水やりだけは、スマート家電に頼らず、自分の手で行う。彼は植物の呼吸を感じられる瞬間が好きだった。


***


 朝のルーティンを終えた涼介は、身軽なランニングウェアに着替えた。足音が響かないように、ゆっくりと階段を降り、マンションを出た。外の空気は澄んでいて、凛とした小鳥の鳴き声が春の訪れを告げていた。


 涼介の住む白桜町はくおうちょうは、都心に近い落ち着いた住宅街だ。町の中心には活気に満ちた商店街があり、個性豊かな店舗が軒を連ねている。


 彼は商店街の脇道から町を南下した。町の南には区役所があり、その先には地下鉄の白桜町南駅がある。さらに奥には高級住宅街が広がり、そこを抜けると瑞善寺川緑地ずいぜんじがわりょくちという広大な都立公園に出る。


 朝の光に包まれた緑地の遊歩道を、涼介は一定のリズムで走り抜けていった。清々しい空気が肺に流れ込み、全身に活力を与えていく。


風に揺れる木々のざわめき、川のせせらぎ、鳥のさえずりが、心地よく耳をくすぐる。時折すれ違う人々と会釈を交わす彼の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


 ふと、はるりとふたりでこの緑地を駆け抜けた、愛しき日々の断片が彼の脳裏に去来した。はるりは小柄な女性だが、類い稀な健脚で、スタミナがあった。涼介は冬でも汗の輝きを放つ彼女のひたむきな横顔が大好きだった。


 川沿いの遊歩道をしばらく走ると、左手に瑞々しい桜並木が現れる。この季節は桜の花弁が咲き乱れ、澄み渡る川の水面に美しい春の情景を映し出す。その中でもひときわ存在感を放つのが、千年樹『水鏡桜みかがみざくら』だ。


 涼介は水鏡桜の前で足を止めた。見上げると、枝先には薄紅色の花々がほころび始め、まるで彼を出迎えるかのように揺れていた。涼介の瞳に懐かしさと切なさが混じり合う。彼は深く息を吸い込み、再び前を向いて走り出した。


***


 ジョギングを終えた涼介は、白桜町南駅近くのジムに入った。さらなるトレーニングを重ね、最後にシャワーで汗を流す。身体を乾かしながら、新しい職場への初出勤に備えた。


 勤め先は、探偵事務所だ。


 涼介は失踪した自身の婚約者の行方を追うために、様々な情報が集う探偵事務所での就業を決めた。彼の事情を知った事務所側からのオファーに応じた形だった。


 仕立ての良いスマートカジュアルに身を包み、彼はジムを後にした。


 商店街を通り、事務所に向かう。白桜商店街では昔ながらの八百屋や肉屋、魚屋などが立ち並び、新鮮な食材がその存在を主張する。店主たちの威勢のよい掛け声や、買い物客たちの楽しげな会話が響き渡る。涼介はその活気を感じながら、北へと歩を進めた。


 商店街の中ほどまで来ると、レトロな雰囲気が漂う建物が目に入った。1階にはカフェがあり、その隣の階段を上がったところに、『藤堂とうどう探偵事務所』と記された小さな看板が見える。


 涼介はスマートウォッチを確認した。9時20分。始業時間までには、まだ少し早い。彼は一瞬の躊躇を見せたが、すぐに表情を引き締め、新たな職場の扉を開いた。

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