八葉の栞|春の泡沫
Tatsuo
第一章
プロローグ
2024年4月5日
桜舞う川のほとりにひとり、私は佇んでいた。
柔らかな風が吹き抜け、髪に絡まった花びらが、ゆっくりと流れ落ちる。
見上げると、薄紅色の桜並木が歌うように揺れていた。
雨のように降りしきる花びらが、水面を鮮やかに彩り、辺りを春色に染めていく。
ふと、春の向こうに人の気配を感じた。
目を細めて前方を見つめると、遠くにぼんやりとした黒い影が浮かんだ。
名状しがたい不安が胸に芽生える。心が激しく鼓動した。
震えを抑えるように、左手を強く握りしめた。
影が近づいてくるたびに、不安もまた膨らんでいく。
それなのに、暗い不安の真ん中に、微かに輝く懐かしさを感じた。
矛盾した思いが込み上げて、胸が苦しくなる。
叫びたくても声は出なくて、逃げ出したいのに足が震えて動かない。
影が眼前で立ち止まり、それが大きな男の人なのだとわかった。
「はるり」と、彼が呼んだ。穏やかで、深みがある声色。
私が——『はるり』と呼ばれた私が、きっと好きだった声。
その声は、私の中に眠る何かを激しく揺り動かした。
こんなに近くにいるのに、彼の顔がぼやけて見えない。
私は彼を知っている。知っているはずなのに、思い出すことができない。
不安が悲しみに変わり、胸を締め上げた。
希望のように感じたはずの懐かしさが、悲しみを一層深くする。
熱い涙が頬を伝った。
不意に強い風が吹き、舞い散る花びらと私の涙を攫って、雲ひとつない空の彼方へと飛ばしていった。
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