第9話 月下の影
倉庫街に満月が昇る頃、黒い影が二つ、建物の間を滑るように移動していた。
レイヴンは足を止め、大きな倉庫を指差しながら状況を説明した。
「見張りは三か所。屋上に二人、正面入り口に一人。裏口は……今のところ誰もいない」
リリアは月明かりに照らされた三階建ての建物を観察する。鎧戸の下りた窓からは、かすかな明かりが漏れていた。
「私が見張りの注意を引きます。その間に」リリアが提案すると、レイヴンは無言で頷いた。
リリアは建物の陰から姿を現し、通りを歩き始めた。
わざと足元をふらつかせ、大きな物音を立てる
屋上の見張りが声を荒げた。「誰だ?下にいるのは」
「あれ?ここは……どこ……?」リリアは上擦った声で返す。そして、その瞬間、レイヴンの姿が月明かりの届かない影に溶けるように消えた。
正面の見張りが近づいてきながら、優しげな声で話しかけてきた。「ここは危ないところですよ、お嬢さん。こんな夜更けに」
リリアは千鳥足を強調しながら答えた。「そう、なんですか?私、宮廷の夜会に行くはずだったのに……」
その言葉に、見張りたちの間で視線が交わされる。宮廷という言葉が、明らかに彼らの神経を逆なでしたようだ。
見張りの一人が近づいてくる。その手つきには、ただの親切心とは違う何かが感じられた。
「表通りまでお送りしましょう」見張りが言葉を掛けた時、港の方から大きな物音が響いた。
見張りたちが一斉にその方を向く。レイヴンの仕業に違いない。
リリアは千鳥足のまま後ずさりながら、慌てた様子で声を上げた。「す、すみません!私、やっぱり自分で……!」
慌てて走り去るリリアを、見張りは追おうとしない。物音の方が気になるようだ。
倉庫の裏へと回り込むと、レイヴンはすでに裏口の鍵を開けていた。二人は倉庫特有の埃っぽい空気の中、積み上げられた木箱の間を忍び足で進んでいく。
階段の方から物音が聞こえ、二人は即座に木箱の陰に身を隠した。重い足音と共に、二人の男が言い争いながら階段を下りてくる。
「こんな日に運び出すのは危険だって言っただろう」一人が苛立った声で言う。
もう一人が慌てた様子で応じた。「でも、ルーカス様からの指示が」
「その指示だって、きちんと確認したのか?」
「いいから、早く済ませろって」
レイヴンとリリアは息を殺して会話を聞いていた。
ルーカス――第二王子の名前が出てきた。
(エステル様の兄上が、この件に関わっているというのか!)
男たちが通り過ぎるのを待って、二人は二階へと向かった。レイヴンが先導し、リリアは後ろを警戒する。
二階に上がると、大きな机が置かれた執務スペースが目に入った。レイヴンは素早く机の上の書類に目を通しながら、一枚の紙を手に取った。
「これは……」レイヴンは紙に目を走らせながら、声を落として説明した。「毒薬の製造記録と、暗殺の実行計画。そして報酬の支払い記録だ」
リリアもその文書に目を通す。エステルへの暗殺未遂も含まれているが、それだけではない。標的のリストには、エステルの名前と共に、第一王女カタリナの名前もあった。
レイヴンは文書をさらに確認しながら、冷たい声で言葉を紡いだ。
「女性継承者を狙っているのか。これは単なる個人の野心ではないな」
その時、階下で大きな物音が響いた。見張りたちが戻ってきたのだ。
レイヴンが素早く文書を写し終えると、二人は来た時と同じ経路で倉庫を後にした。
月明かりの下、二人は再び影となって闇に溶けていく。しかし、その胸に去来する思いは重かった。
これは、単なる後継者争いの策謀ではない。もっと大きな、そして危険な陰謀の予感が、二人の心を捉えていた――。
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