第7話 影の契約
夜明け前の港は、まだ闇に包まれていた。波が岸壁を打つ音と、早朝の荷揚げ作業を始める船乗りたちの声が、冷たい空気に溶けていく。古い倉庫の建ち並ぶ一角は、明かりひとつない静寂に沈んでいた。
リリアは地図に示された場所――錆びついた看板を掲げた三階建ての倉庫の前で足を止めた。昨夜の投げ針は、間違いなく相当な手練の仕業だった。
そして、それは単なる警告ではなく、確かな技術を持つ者からの接触だということは分かる。
だが、相手が敵か味方かも分からないのに、こうして来てしまって良いものか。リリアは胸の内で思案を巡らせる。
(しかし、エステル様を守るためなら……!)
決意を固めて倉庫に足を踏み入れると、埃の混じった空気が鼻をつく。すぐに人の気配を感じ取り、リリアは反射的に剣に手をかけた。暗がりから冷たい声が響く。
「待っていた。来ると思っていた」
月明かりが差し込む窓の下で、黒い装束の人影が姿を現す。顔は覆面で隠しているが、昨夜の投げ針の主に間違いない。その姿は、まるで影そのもののようだった。
リリアは落ち着いた声で言葉を紡ぐ。「シーフギルドの方とお見受けしました。あの投げ針の技術は闇市場でよく見る型のもの。ただ、麻酔の調合が実に正確でした。街の治安を陰で支える、シーフギルドならではかと」
相手は僅かに首を傾け、冷静な声で返した。
「事情通だな。そして、あなたはヴァレンフォート家の剣士。飛行魔獣を倒した腕も本物のようだ」
黒装束の人影は倉庫の奥に目をやり、もう一つ付け加えた。
「そして、エステル様の護衛」
リリアは瞬時に身構えた。エステルの名前を出された以上、警戒は解けない。
黒装束の人影は倉庫の奥から一枚の地図を取り出しながら、淡々と語り始めた。「私はレイヴン。エステル王女を狙う組織を追っている」
「王家に関わる事態なのに、なぜシーフギルドが」リリアは疑問を投げかけた。
レイヴンは地図の上に小さな印を付けながら説明を続けた。
「非合法な暗殺依頼の増加、その調査が私たちの任務だ」
「特に毒を使った王族への依頼が、ここ最近、目立つようになった。この三ヶ月で七件。その全てが新興の組織を通じて依頼されている」
リリアは息を呑んだ。エステル様への毒殺未遂は、その一つだったということか。数の多さに、背筋が凍る。
レイヴンは地図の中心を指差しながら、さらに続けた。
「昨夜の連中は新興組織の下っ端だ。だが、その上にもっと大きな存在がいる」
「……宮廷街の中枢部に、何者かが根を張っている」
「幹部クラスの居場所は」リリアが訊ねると、レイヴンは歯がゆそうに言葉を切った。
「まだそこまで追えていない」
「私一人では、限界だ。奴らは巧妙に表の顔と裏の顔を使い分け、証拠も残さない。下っ端を捕まえても、上には繋がらない仕組みになっている」
リリアは考えを巡らせる。シーフギルドの協力は心強い。彼らには裏社会の情報網がある。
しかし、それは同時に事態の深刻さを物語ってもいた。シーフギルドですら追い切れないほどの組織が、エステルを狙っているのだ。
(エステル様を、こんな危険に晒すわけには……!)
迷いのない声で、リリアは決意を告げた。
「協力させていただきます。私からは宮廷内の情報を」
レイヴンは新たな地図を広げながら短く返した。「これが今把握している組織の構造図だ。まずはここから始めよう」
二人は顔を見合わせ、無言の了解を交わす。表立つことのない協力関係。それは、守るべき者のための影の契約だった――。
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