親愛なるあなたに、悪意を込めて!

にゃみです



「悪いが、僕は君のことを愛していないんだ」



 アスタリア帝国に足を踏み込んだその日に、私たちは結婚式を迎えた。

 私たちというのは、今この目の前に立つ男と。私、ロゼッタ・フォン・システィーナのことだ。

 その日の夜、私よりも二つ上の、私の夫となった人は突然私を愛していないと言い出した。


 私の桃色の髪とは似ても似つかない銀髪の髪、お揃いなところといえば、このサファイヤのように輝く水色の瞳くらいだろうか。


 彼の名は、ルイス・ド・アスタリア。大国アスタリア帝国の第一皇子だ。

 聡明でいて、勉学だけでなく剣術にも優れており、完璧という言葉がこれほど似合う人間は他にいないと言い切れるほどの人だった。


 欠点を一つ挙げるとすれば。

 それは、彼が皇后の正式な息子ではないということだ。彼の母親は、皇帝の側室の一人だった。

 皇帝の正妻である皇后には、実の息子であるウィリアム・ド・アスタリア第二皇子が居た。

 第一王位継承権は、第一皇子に与えられる。つまり、あくまでこの国の皇太子はルイス・ド・アスタリア。

 だが、それを強欲な皇后が許すはずがない。皇后は自分の息子であるウィリアム第二皇子を、次期皇帝にしようと考えた。邪魔者である、第一皇子ルイスを殺して…。

 侯爵家の令嬢として生まれた彼女は、その身分だけでは飽き足らず帝国上の令嬢として最大の権力を持つ皇后へと成り上がった。そして今。彼女は自分の息子を皇帝とし、皇帝の母親になろうとしているのだ。彼女以上に欲深い人は、きっと他にいないだろう。



「これから先もずっと、君を愛すことはないだろう。」

「…そうですか。」



(まぁ、当然よね。)


 私とルイスの結婚を後押ししたのは皇后陛下だった。

 皇后はルイスを次期皇帝にさせないために、隣国システィーナ王国第二王女の私と結婚をさせた。彼にとっては、皇后の暴虐ぶりから逃げるためにも自国アスタリアでの権力を持つ公爵の娘辺りと結婚をした方が良いだろう。それがよりにもよって、小国の第二王女なんて論外だ。つまり、彼にとって私はお荷物な存在ということになる。

 我が国、システィーナ王国は経済には恵まれてはいるがアスタリアに比べて歴史も浅い。世界的に見ればただの成金王国だ。

 それに比べてアスタリア帝国は、大国と呼ばれるだけあって歴史も経済力も他の国とは段違い。

 そんな国の第一皇子と、成金王国の落ちこぼれ姫の私に婚約の話が来たと聞いた時は一体何事かと思ったが…。まさか、皇后の嫌がらせを受けた可哀想な皇子様だったなんてね。


(そんな混雑とした状況で、私のことを愛せという方が無理な話だわ)



「僕はソファで寝るから。君は長旅で疲れているだろう、ゆっくり休んでくれ。」



 第一皇子ルイスは自分の身分をまるで気にしないかのようにソファへと寝転がり、私をベッドへと寝かせた。


 私たち夫婦に用意されたベッドはとても広く、一人で眠るには自身の熱が布団へ中々広がっていかない。だけどそんなことも気にならないほどに私は疲れていた。普段から外へは中々出してもらえなかったのに、何十時間も慣れない大型の馬車に揺られて、着いたかと思えば結婚式にお披露目パーティー。私の体力は限界だった。


 私は、冷たい布団を抱きしめながら目を瞑った。私が寒いということは、ソファーで寝ているあの人はもっと寒いのではないだろうか。そんな疑問が一瞬だけ浮かんだが、すぐに気にならなくなった。


 だって、私たちは愛の無い偽りの夫婦だもの。





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「きてください……ですか……システィーナの姫君!!」

「んん…」

「いつまで寝ているつもりだ?」



 誰?私のことを呼んでいるのは。男性の声?私の使用人に男性は居ないはずだけど…。



「誰なの…?」



 ぼやける視線の先に見えたのは、銀髪の髪。その美しい髪はカーテンの隙間から差し込んでいる光に照らされて、キラキラと光っているように見えた。



「はぁ?君は自分の夫の顔も分からないのか」



 寝ぼけている私の耳に届いた夫という言葉にハッとし、軽く目をこすりもう一度前を見る。するとそこにあった水色の瞳とバッチリ目が合った。

 その瞳を見れば、私に話しかけている相手が一体誰なのか。その情報はすぐに頭に入り込んできた。



「ご、ごめんなさい!」



 昨日までの優しい声色はそこにはなく。何トーンも低くなった声色と、雑な口調に混乱してしまう。



「昨日までのあなたとキャラがまるで違うものですから…」



 逆に声だけの情報で、あなただと気づける方がおかしいでしょう。そう言いたくなったがグッと堪え、目の前の男に目線を送る。

 すると、彼は大きなため息を一つつき話し始めた。

 


「勘弁してくれよ、僕は自分の部屋でまであの面倒なキャラを通すつもりはないさ」

「面倒なキャラ、ですか。」



 キャラだと言い切る様子を見ると、私の前で猫を被るつもりはないらしい。

 親同士が決めた政略結婚だと言っても、一応は夫婦となったわけだ。その点では私を妻と認めてくれているのだろうか。



「何だよその顔、幻滅でもしたか?」

「いえ、別に…」



 薄ら笑いを浮かべながら話すルイスの様子を見ていると、その姿が何故か自分と重なる。

 幻滅というよりも、あの完璧だと名高いアスタリアの皇子にも裏があったということへの驚きの方が大きい。いや、この人も私と同じ人間なんだという安堵と言った方が正しいか。



「はっ、システィーナの姫君は流石だな。ここには君と僕しかいないんだ、遠慮することなんてない。心配しなくても、僕はもうすぐこの宮を離れることになるからすぐに自由になれるさ」



 彼の言う離れるとは、北部戦争に出征することのこと。それも、あと十日後に。

 皇后は自分の子供であるウィリアムを皇帝にしようとしている。だからこそ邪魔者のルイスを戦地へと送ることにしたのだろう。

 皇后はルイスを蔑ろにしている。その事実はシスティーナまで噂が届いていた。

 …つまり、私の両親はその噂を知っていて私を嫁がせたということだ。


(親の都合で振り回されるのはもううんざり。そこだけは少し、あなたの気持ちが分かるわよ。)


 皇后はルイスが戦場で死ぬことを本気で願っているのだろう。わざわざ彼が生き残った場合の保険として私を用意するくらいだ。もしかすると、何か罠を仕掛けているかもしれない。戦場はいくら皇族といえど、簡単に命を落とすことになる場所。



「自由にだなんて…まさか、私がそんなこと思っているはずないでしょう?一日も早くあなたが帰ってくることをお待ちしておりますわ皇子」



 心の奥底では捻くれたことを考えていても、それを表に出すことは許されない。彼に逆らえるような立場ではないことを私は理解している。



「上辺だけだとしても、そんな戯言を言うのは君くらいだろうな」



 小さく呟いたルイスの顔は、少しだけ寂しそうに見えた。

 彼の徹底された完璧さは、まるで上辺だけを飾った仮面のようだ。


 私と同じ、王族という恵まれた身分で生まれてきた、選ばれた存在のはずなのに。自身の親によってその身分を利用され、国の利益のために扱われる。

 彼と私の育った環境は、どこか似ているのだろう。だからこそ、彼の考えていることが少し分かるような気がした。





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「行ってくる。僕が留守間、よろしく頼むよロゼッタ妃」



 大勢の人々が見守る中、ルイスは私に微笑んだ。初めて出会ったあの日のように、完璧な王子スマイルを浮かべながら私に話しかける。

 銀色の髪が陽光に煌めき、彼の青い瞳はどこまでも澄んでいて、まるでこの瞬間だけを切り取れば絵画のように見えた。



「どうかお気をつけて。皇子の帰りを心待ちにしております」



 その笑顔に、システィーナ王国仕込みの完璧な王妃スマイルを返してみせる。

 演じることには慣れている。人々の注目が集まる今、夫を愛する献身的な妻を演じることはこの場における私の役割だ。


(誰があなたの帰りを心待ちにしているものですか。できることなら、ずっとここへ帰ってきてほしくないくらいよ。)


 ルイスは馬の上に跨ったまま、私を見下ろすと満足げに頷き、騎士団を率いてゆっくりと城門へと向かう。私はその背中を見送りながら、重圧から解放されたように深く息を吐いた。


 皇帝や皇后が集うこの地獄の空気から抜け出したかった私は、戦地へと向かう夫を最後まで見届けたいと皇帝に頼み、すぐに自室へと行き部屋に備えられていたテラスから身を乗り出した。そこからは城を後にしていくルイスの姿が良く見えた。

 暫く眺めていると、彼はまるで野生の勘でも働いたかのように遠く離れた私の存在に気付いた。そして騎士団の間からひときわ目立つほど堂々と手を上げ、私に向かって敬礼をしてみせた。

 私は彼の姿に気づいていないふりをして、その仕草に無視をした。


(何が、君を愛することは無いよ。そんなの、こっちのセリフだわ。)

 

 愛していない男が戦場でどうなろうとも。私からしたら、どうだっていいこと。


 そんなわけで、私は戦地へと向かっていった夫を想い涙を流す日々を送る・・・なんてことはサラサラなく。



「あぁ~アスタリアの皇宮って最高!」



 アスタリア帝国での生活を満喫させていただいていた。



「少し喉が渇いたわ、何か飲み物を持ってきてくれるかしら」

「かしこまりました、皇子妃」

「甘いものが食べたいの。ケーキを持ってきてくださる?」

「すぐにお持ちいたします、皇子妃」



 ふと周囲を見渡せば、私の周りには大勢の使用人。私の言葉にすぐさま反応し、誰もが二つ返事で従う。私は、戦場へ赴く夫の不在を嘆くどころか、皇子妃としての贅沢三昧を満喫していた


 ・・・だが、その幸せはそう長くは続かなかった。



「ねぇ、ちょっと。私の部屋に飾ってある花が枯れていたわよ」

「…そうですか。」



(そうですかって…それだけ?)



「貴女たちは忙しいから気づかないこともあるわよね。それじゃあ今から新しいものを生けてくれるかしら」

「忙しいのが分からないんですか?」



 メイドは冷たく言い放つと、こちらの指示も待たずにその場を去っていく。まるで「お前などに仕える気はない」とでも言うように。

 残された私は、その後ろ姿を呆然と見送ることしかできないでいる。

 そして、その光景を見ながら内心とても焦っていた。


(どうして今の今まで気が付かなかったのかしら…)


 皇宮の使用人はほとんどが皇后の手下。

 数日前、メイドたちが立ち話をしているのを聞いた。

 どうやら今、アスタリア軍は敵軍に押されてしまっているらしい。その時はそうなのね~くらいにしか捉えていなかったが、よくよく考えればかなりまずい状況だったことに気が付いた。

 ルイスの居るアスタリア軍が敵軍に押されている。その情報によって、メイドたちの頭からルイスが生きて帰ってくるという考えがほとんどなくなってしまったのだろう。皆、彼が戦地で死んで帰ってくると思い込んでいる。

 つまり、その皇子の妻である皇子妃など、もう媚びを売る必要はなくなったというわけか。


 ルイスには剣術の才能もあると聞いていたから、帰ってくるなと悪態をついていても。どうせすぐに勝利して帰ってくるものだろうと思い込んでいた。なにせ、私の夫は完璧なのだから。

 

 しかし、彼が戦死をして戦争に負けるとなれば話は別だ。そうなると、私の立場だって危うくなってしまう。

 今は皇子妃でも、皇子が死ねばただの異国の邪魔者。第一皇子のルイスが死んで、皇后の実の息子である第二皇子の即位が決まれば私は確実に皇宮から追い出されてしまう。

 貢女として嫁いできた私にとって、システィーナ王国まで無事帰ることができるかなんて分からない。


(こうなったら、何か策を考えなければ…!)




 そう、日々何か考えていると、ある日突然新人メイドのエリーが声をかけてきた。

 この子は比較的私に良く接してくれる。…といっても、他のメイドから蔑ろにされている私を哀れんでいると言った方が正しいかもしれない。

 ただの使用人に哀れまれることになるなんて。あぁ、もう最悪よ。



「ロゼッタ妃、そろそろ第一皇子様にお手紙を書かれてはいかがでしょうか?」

「……手紙?」



 予想もしていなかった言葉に、驚きのあまり思わず声が出る。


 エリーは私の問いに「はい」と答えると、シンプルな便箋と魔法のかかった移動石を私に手渡した。

 貴族や皇族の手紙のやり取りで、稀に使われることのある移動石。これはとても高価なもので、貴族だとしても中々手にすることができない。

 ルイスが皇宮を去ってから暫くして、私の居る皇宮での予算を格段に下げられてしまったから、まさかこんな高価なものを渡されるなんて思ってもいなかった。


 改めて手紙を書けと言われても、私と彼は長い時間を共にしたわけでも、親密な関係でもない。ただ、婚姻を結んだ夫婦というだけだ。

 建前上、戦地へ行っている夫に手紙の一枚も書かないというのは、世間から何と言われるか分からない。きっとそのためだろう。


 でも、私をちっとも愛していない男が、私の書いた手紙を見るとも思えないし…。

 

 ・・・そうよね、結局私の手紙を彼が読むことはないのよね?

 それなら、少しくらいこの不満をぶつけても許されるのではないか。



「そうね、手紙をだしてみるのも悪くないかもね…」



 私は傍に置かれた羽ペンを持ち、スラスラと文章を連ねていく。思っていたことを、全てぶつけるように、感情的な文章を。

 彼に読まれることのないこの手紙に、想い……いいや、悪意を込めて。




【親愛なるあなたに、悪意を込めてこの手紙を書きます。】





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【あなたの義理のお母様である皇后陛下からの嫌がらせが日々増しています。どうにかしてください。私は、あの大蛇に絞殺されるために遥々アスタリアまで嫁いできたわけではありません。】


【近頃、何故か第二皇子が毎日のように第一皇子宮であるサファイヤ宮殿に来られるのです。どうにかしてください、あなたの弟でしょ?はっきりいって、めんどくさいのよ!】


【皇帝陛下はどうしてあんなにも無口なのかしら?先日、皇帝陛下と皇后陛下、第二皇子と私で晩餐会が開かれたの。その空気ったら、本当に地獄だったわ。あなたは普段からあの中に居たの?信じられないわ、本当にもう嫌になっちゃう】



 ルイスが死ねば、私の居場所は無くなる。周りの態度で、その事実を日に日に実感してきた。


 何度送っても、返ってくることのない返事。

 それでも私は何通も彼に手紙を出した。

 それは、彼からの返事が欲しかったとか、自分の想いが届いて欲しいとか。そんなことではない。

 ただ、書き始めているうちに自分の鬱憤を文字に起こしてみると、気分が少し楽になるということに気づいたからだ。

 彼が私の手紙を読むことは無い。それをいいことに私は誰にも読まれない日記のような感覚で日ごろの不満を手紙に吐き出した。


 そんなある日、部屋の掃除をしていたはずのエリーが声を漏らした。



「ロゼッタ妃、こちらは…!!」



 仕事中の彼女が私に話しかけることはとても珍しく、声のする方へ視線をずらすとそこは部屋に備え付けられているテラス。そこはルイスが戦地へ旅立った時に私が彼を見送った場所だ。テラスからは、謎の光が醸し出されていた。緑の光を放ち、そこには一通の手紙がふわりと浮いていた。緑の光…それは移動石が放つものだった。


 移動石なんて高価なものを使って私宛に手紙を送ってくる人間。

 相手は誰だかすぐに分かった。分かりたくなくても、勝手に頭がその相手が分かってしまったのだ。



「嘘でしょう?……返事、来ちゃったの?」



 すぐに窓を開けて浮かぶその手紙を手に取ると、その光は弾け飛び消え去った。


 まさか、ルイスがわざわざ手紙の返事を送ってくるなんて…。

 あの日、私のことを愛すことは無い。なんて偉そうに言ってきたものだから頭のおかしい奴なのかもと思ったけれど、わざわざ返事を書くなんて意外と律儀な人なのね。


(というより、返事が来たということは、私のあの手紙を読んだということ?それはかなりまずいのでは…?)


 恐る恐る手紙を開き、美しい字で書かれた手紙を読む。


【ごきげんよう、ロゼッタ妃。お元気にしておりましたか?】


 怒りの感じられない丁寧な文章に、安心した途端。

 すぐ下の文に目が入り、思わず「う、」と声が漏れた。


【沢山のお手紙、ありがとうございました。一つ残らず、全て拝見させていただきました。多忙のあまり返事を書くのが遅くなったことをどうかお許しください。】

【ロゼッタ様は想像よりずっと、お茶目な方のようですね。】


 この一文を見ただけで、全てを察した。

 これは、私のことを馬鹿にしているのだ。それはおバカな姫の私でも、流石に分かりますよ皇子…。



「…まさかだけど。私が途中で気づいて送ってこないように返事をわざと書いてなかったんじゃないでしょうね」



 不満は浮かぶものの、あの手紙を書いたのは私だ。何も彼に言い返すことは出来ない。

 怒りと焦りで震える手を落ち着かせて、まだまだ続く手紙に目を通していく。


【あの人を大蛇と呼べる君なら、少しくらい言い返してみてはどうかな?】



「は、はぁ…?なんなのよ!」



【ロゼッタ妃、貴女は噂ではシスティーナの女神だと称されるほど美しく可憐で、純粋無垢なお姫様だと聞いておりました。ですが噂は違っていたようですね。】



「………エリー、すぐに新しい便箋を持ってきてちょうだい」

「ロゼッタ妃…?」



 メイドは、普段と様子の違う皇子妃の様子に驚き混乱しながらも「はい」とすぐに返事をした。



「ルイス・ド・アスタリア…好き勝手言ってくれるじゃない…」



 手に持っていた手紙が、力いっぱいに握ったことで紙からクシャリと音がした。



 その日から、私と彼の文通関係が出来上がった。



【メイドから聞きましたが、現在アスタリア軍は押されているようですね?一国の皇子が戦地へ向かっているというのに、一体どういうことなのでしょうか?】


【システィーナのお姫様はか弱いだけでなく、戦地の状況すら耳に入っていないとは、とても心配ですね。そんなことでアスタリアでやっていけているのでしょうか?君がこの手紙を送った時点ではアスタリア軍が優勢になっていたはずです。】



 そんな悪態をついた文章を暫く送るにつれて、いつの日か他愛のない会話もするようになった。

 戦地で手紙を書く彼の姿は、宮殿で優雅に過ごす私には想像もできないけれど。

 皇后からの圧に耐え、第二皇子からの謎の好意に耐え、私を見下す使用人たちの元で暮らすちっとも幸せとは言い切れない環境で。

 彼との文通だけが、唯一本音を話せる時間になっていた。





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「帝国の月、ヴィヴィアン・ド・アスタリア皇后陛下にご挨拶申し上げます。」



 皇后宮の重厚な扉が音もなく閉じられる。私の背筋は緊張でこわばり、無意識に息を詰めた。



「来たわね、システィーナの姫よ。」



 突然、皇后宮に呼び出された。皇后は私のことを毛嫌いして、顔を合わせるたびに嫌味を言っていたにも関わらずどうして突然皇后宮まで私を呼んだのか。

 そう半信半疑になりつつも、皇后の呼び出しを無視することなど出来るはずもなく、こうして皇后宮へと来たわけだ。



「皇后陛下、お呼びでしょうか」



 ほんの少し震えが混じりながら、そう声に出す。

 すると、ヴィヴィアン皇后の紅玉のような瞳が私を射抜いた。



「貴女…近頃、あの生意気な小僧と手紙のやり取りをしているそうね」

「…小僧とは?」

「あの忌々しい、第一皇子のことさ」



 皇后は長く伸びた真っ赤に彩られた爪を口元に寄せ、不敵な笑みを浮かべる。


 少し、わざとらしかっただろうか。皇后が私との話題に出し、嫌悪感を現した呼び方をするのはルイス皇子ただ一人だろう。

 私はそれを分かった上で、おバカな皇子妃を演じるためにとぼけたふりをして見せた。



「あの小僧と随分仲が良いのかしら?」



 急に声のトーンが低くなった。目を伏せて、私を睨みつけるその真っ赤な瞳は、まるで人間の生き血のよう。

 私のことを品定めするような目で見る皇后の姿は、どこか私のお母様であるシスティーナ王妃と重なった。

 ヴィヴィアン皇后の赤い瞳と、お母様の青い瞳。正反対の色の瞳を持つ二人が、私の中で重なり合う。

 

(そう言えば、あの人も機嫌が悪いとよく私を呼びだして愚痴を聞かされたわね)


 真っ赤な口紅を塗った口を大きく開いて、ヒステリックに私に怒鳴り散らかす。年老いた肌を隠すようにして、白い白粉を顔にはたいて。


 …彼も、ルイスも私と同じ思いをしていたのかしら?



「妻として、戦地で戦う夫に手紙を送ることは当然ですわ。」



 お母様への扱いは、姉妹の中でも私が一番得意だったの。ヒステリックなおばさまへの扱いは慣れているのよ。

 私が微笑を浮かべたままそう告げると、皇后は不満げに眉をひそめた。



「本当に、それだけ?」



 一体、私からどんな言葉を求めているのか。

 皇后は足を大胆に組み、長く伸びた髪を指先で通す。ヴィヴィアン皇后陛下の、髪をだらしなく降ろしたヘアスタイルは年齢層では珍しいものだった。そのヘアスタイルが、ますます私のお母様と重なる。



「皇后陛下、第一皇子は私がアスタリアに嫁いできてからたった十日間で戦地へと向かわれたのですよ?その間、私たちは夫婦の務めも果たしておりませんし、正直に言って良い仲とは到底言えませんわ。」



 私の冷静な言葉を聞いた皇后は目を細めて、しばらく私を見つめた後、満足げに微笑んだ。



「そう、それなら良いのよ。安心したわ。」



 皇后は満足そうにうなずくと、ふと気を緩めたように背もたれに寄りかかる。



「それなら問題は無いわね」



 安心したと言いながらも、皇后の表情は何かを企んでいるもの。

 そして、次に皇后が発した言葉は、私の想像を超えたものだった。



「貴女、第一皇子と婚姻を離縁しなさい。」

「…はい?」



(この人は一体何を言っているの?)


 突然の皇后からの命令に、私は自分の耳を疑った。困惑する私を気にも留めず、皇后は構わず話を続ける。



「あら、何も貴女にメリットの無い話ではないわよ?あの小僧と離縁して、第二皇子と結婚なさい」



 さも当然のこととでも言いたげに微笑むヴィヴィアン皇后陛下。

 この方は、本気で言っているのか。



「ウィリアムがね、わたくしにお願いをしてきたのよ。ふふっ、あの子ったら…貴女を随分と気に入ってしまったようなの」



 ウィリアム第二皇子からの必要以上な好意は感じていた。だがそれは、単なるライバルである兄の嫁に対する興味本位なものかと思っていた。しかし、皇后が言うにはそうではなかったようだ。



「…それはとても光栄ですわ。ですが私の一存で決められることではありません。それに、私は第一皇子に嫁ぐとしてシスティーナより参りました。ですのではたして私の両親がそれを許すでしょうか」



 遠回しに断りをする私を気にもせず、皇后は「それなら問題ないわ」と食い気味に話をかぶせてくる。



「わたくしが後ろ盾について差し上げると言ってるのよ」



 ヴィヴィアン皇后陛下が私の味方になる。

 

(…一体それに何の価値があるのかしら?)


 ルイスと違って、この女の生まれはたかが一国の侯爵家。大した生まれでもないくせに、一国の王女であった私に命令をしているの?



「皇太子になれない出来損ないの皇子よりも、未来の皇帝となる我が息子。第二皇子ウィリアムの方がよかろう?」



 第二皇子ウィリアムが皇帝になるためには、第一皇子のルイスが命を落とすか、ルイスが自ら王位継承権を破棄すると宣言することしかない。


 …皇后は、ルイスが戦地で死ぬことを疑ってすらいないんだ。

 だから第一皇子の妻である私に、第一皇子はもうすぐ死ぬから第二皇子と結婚しろと言っているのね。



「少し考える時間をいただけますでしょうか?なにせ私も、アスタリアに来てから日が浅いものですから。」

「フン、それもそうね…」



 ヴィヴィアン皇后の彼女の薄っぺらい笑顔が消える。

 その場を取り繕うために頭を下げると、私はゆっくりと皇后宮を後にした。


 皇后の言葉が頭の中で何度も再生される。

 ルイスが戦地で命を落とすことを見越して、既成事実を作り、私をウィリアムの妻として取り込もうとしているのだろう。


(…ふざけないでよ。腐っても私は、あの人の妻なのよ。)


 廊下を歩きながら、自分の置かれた状況を再確認する。

 現在の私の立場は微妙だ。ルイスが生きて帰らなければ、私の地位は確実に危うくなる。

 でも、だからといってヴィヴィアン皇后の手のひらで踊らされるつもりは無いわ。

 




∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





【アスタリアの食事はとても美味しいですね。ですが、どうしてこんなにも量が多いのでしょうか?いつも食べきることに必死になってしまいますわ。】


【システィーナ式の食事を口にしたことが無いから何とも言えないが、皇子妃である君が無理をしてまで食事を口にすることはない】


【お言葉ですが、あなたは私の状況を分かっていないからそのようなことが言えるのです。近頃は何故か第二皇子が私と食事をすると来られるのです、ただの貢女の私が皇子からの申し出を断り、その上食事を残すことが許されるとでもお思いですか?】


【ウィリアムはあの皇后の息子なだけあって、かなり強引なところがあるからな。僕は彼に嫌われてしまっているから、君がウィリアムに好意を持たれていることには羨ましく思うよ。まぁ、僕だったら耐え切れないけどな】


【あなた、それは馬鹿にしているでしょ?私は本当に困っているのよ!】



 悪態を着くときもあれば、アスタリア帝国とシスティーナ王国。お互いが育った国の話をすることもあった。

 彼から送られてくる文章はいつだって冷静沈着。でも、どこか腹立たしい文章だった。

 それに対して子供の私は感情的に返事を送ってしまう。そして、彼はそのことをまたからかってくる。


 そんなある日、彼からの手紙が普段と違う様子だった。

 いつもの余裕たっぷりなあの腹立たしい笑みを感じられない、どこか普通じゃない様子。


【もしも、僕がこの戦地で命を落とすことになったら。君は未亡人となり、皇后の手により修道院にでも送られることになるかもしれない。】



「…ふん、よくわかっているじゃない。」



 でも、どうして突然こんな手紙を送ってきたのかしら。

 戦地ではアスタリア軍が優勢になっていると聞いたわ。もうすぐ、勝利して帰ってこれるはずでしょう。

 疑問に思いながらも、指を文字に沿わせ文章を読み進める。


【だが、僕が生きている間なら。皇子という立場を使い、婚姻を破談してシスティーナ王国に戻れるように手配できる。】



(え…?)


 システィーナ王国に、帰れる?私の生まれ育った、あのシスティーナに。

 彼と結婚をしたことによって変わってしまった。アスタリアという名を捨てて、システィーナに戻れるというのか。


 ……そうね、それも悪くないかもしれないわ。

きっと、それは私にとって最善の選択でしょう。

 いい加減、ここにはうんざりしていたの。私に偉そうに命令する皇后にも、兄の妻である私にしつこく付きまとうあの第二皇子にも。皇后に虐められている自分の息子を気にも留めない意気地なしの皇帝にも。いつも、私を見下しているただの使用人たちにも。


 私を誰だと思っているのか。私はシスティーナ王国の、一国の姫なのよ。

 たかが使用人に見下されるほど、落ちぶれてはいない。 腹が立っていたのよ、本当に。みんなみんな私を馬鹿にして。


 この場所を去れるなら、願ったり叶ったりだわ。


 …でも、そうなればあなたはどうなるの?

 この生活を、あなた十八年間も過ごしていたのでしょ?たった十八歳という若さで戦場に送られて。


 私は優しいの。あなたとは対面の状態では数えられるほどしか会話が出来てなかったけれど、一年間も手紙を交わして情が湧かないほど私は冷酷な人間ではないのよ。



「…この際何だっていいわ。私に対しての怒りでも何でもいいから、さっさと勝って帰って来なさいよね」



 一度他国へ嫁いだ私が、今更帰ったって歓迎されることはないだろう。


 だから、さっさと皇子のあなたが帰ってきたらいいだけじゃない。


 だから早く、帰ってきて。

 あなたと言い争いをしている時の方が、ずっとマシだわ。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





【あなたが死ななければ良いだけのことでしょ?】

【それが分かっているなら、さっさと戦争に勝って、早く帰ってきてください。】



「…勝手なことを言ってくれるな」



 そのガサツな口調とは思えないほど、美しい丁寧な文字で書かれた手紙を読み。男は口角を上げて微笑んだ。   



「おーいルイス!お前、さっきから何をそんなにニヤニヤしてんだ?」



 騎士団長アレックス・バレンティアは上司の肩に肘を置きニヤリと微笑む。



「なぁ、おーい聞いてんのか?……って、いってぇな!!」

「お前は僕を誰だと思っているんだ?」

「はあー?うるせえな、お前のことは俺が一番よく知っているさ。ルイス・ド・アスタリア皇子様?」



 中々返事をしないルイスにアレックスは催促をするように話しかけるが、何度も肘で肩を突くアレックスに痺れを切らし、ルイスはアレックスの頬をつねり上げる。

 アレックスの生まれは由緒ある公爵家の貴族。次男とはいえ、皇子の遊び相手に選ばれるほど地位の高い人間だった。物心の付く前から共に居た二人は戦場で背中を預けられるほどお互いに信頼している旧友だった。



「近頃嬉しそうに見ているその手紙は一体何なんだ?わざわざ移動石なんて高価なものまで使って…」



 アレックスの目線の先に合ったのは、近頃ルイスが大切そうに保管していた一つの手紙。

 外側から見ると、宛先は書いておらず特別な装飾もされていないシンプルな手紙。



「まさか愛人か!?いやぁ、お前も隅に置けないな!!」

「どうして愛人になるんだ…。この手紙は、僕の妻からさ」



 こそこそと、移動石まで使って手紙を送り合う関係だから、てっきり愛人とのやり取りかと思ったアレックスだったが、すぐにルイスによって違うとあっさり切り捨てられた。



「妻っていったら……あぁ、あのシスティーナから嫁いできたっていうお姫様か。でも、結婚してすぐ戦地へ来たんだからろくに話もできていないんだろ?」

「あぁ、そのシスティーナのお姫様のことだよ」

「なんだよルイス。お前、そのお姫様に惚れ込んじまったのか?まぁ無理もねぇか。お前はずっと皇后に制御されてまともに令嬢と話もできなかったもんなぁ…。神聖なるシスティーナ王国の美しくもお淑やかなお姫様の虜になっちゃったってわけか」



 アレックスの言葉にルイスは軽く微笑むと、小さく呟いた。



「お淑やかな、お姫様ね…」



 その言葉に「なんて?」と聞き返すアレックスだったが、その声にルイスが返事をすることは無かった。



「僕の妻は、噂に聞いていたよりもずっと面白い人なのかもしれないよ」

「あ?なんだそりゃ」

「そろそろ行こう、アレックス。さっさとこの戦争を終わらせて僕らの国に帰ろうじゃないか」

「おいおい、どういう風の吹き回しだよ。あんだけ皇后に会わなくて済むって喜んでいたのは他でもない、お前じゃないか!」



 アレックスの言葉に「そうだったかな」とはぐらかすように答えたルイス。

 少し目を伏せ、手に持っていた手紙を見つめ、もう一度微笑み直す。



「早く帰ってこいと、言われてしまったからね」



 見慣れない親友の嬉しそうな顔を見て、アレックスは言葉が出なかった。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





「ロゼッタ妃!!ロ、ロゼッタ妃!!」



 バンッと大きな音を立てて扉が開くと、そこに立っていたのはメイドのエリーの姿が。



「ケホッ、ケホ、もう…そんなに慌ててどうかしたの?」



 昼下がり、ティータイムを楽しんでいた私は、驚きのあまり飲んでいたお茶を吹き出しそうになってしまう。

 興奮気味に息を荒げる様子を見ると、ただ事ではないことを察することができた。

 どうかしたのかと聞くと、エリーは息を一気に吸い上げ、目を見開き答えた。



「皇子様が、ルイス皇子様が。…戦争に、勝利したそうです!!」



 彼が、私の夫が、あの北部戦争に勝利したというのか。

 彼が帰ってくる。

 その報告を聞いたのは、彼がここを発ってから一年間が経ってからのことだった。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





 ルイスが戦争に勝利したという話を聞いてから、皇帝は大喜び。

 それに反して、皇后や第二皇子は顔面蒼白になっていることだろう。


 しかしここに、次期皇帝など関係なく、皇子の帰りを焦っているものが居た。


(それが、私…。)


 改めてルイスと対面で会うとなれば、今更だが急に焦りが襲ってきた。

 やっぱり、まずかったわよね…?ただの貢女として嫁いできた私が、皇子であり次期皇帝候補になった皇子にあんな暴言を…。


 どうしよう、どうしようと慌てる私に時間は待つことが無く。

 あっという間に彼は、皇宮へ帰ってきた。



「ほら!皇子妃様、是非妻である皇子妃様が一番にお出迎えしてあげてくださいませ!」

「え?えぇ、そうね…」



 エリーはとびきりの笑顔を作り、後方へ下がっていた私の背中を押す。

 エリーに限らず、皇宮の使用人たちは明らかに私への対応が良くなった。それだけじゃない、貴族たちや皇帝陛下まで…。皆、手のひら返しが激しいんだから。


 すぐ先にルイスを含めた戦地へと向かっていった騎士団たちが見える。


(覚悟を決めるのよ、ロゼッタ…!)


 気まずさのあまり、下を向く私の視線には、目の前まで来たルイスの足が見えた。



「お帰りなさいませ、皇子。皇子の帰りを心待ちにしており……きゃっ!」



 代表として、皇子への挨拶をしていると突然私の体は彼に抱きしめられる。


(は…?なんでこいつ私に抱き着いてるわけ?!)


 民衆や貴族たち、ましてや皇帝や皇后が見ている前にもかかわらず、ルイスは私を抱きしめた。

 やっぱり、あの手紙のことを怒っているのね。


 まさか、私をここで処刑するつもりなんじゃ…。



「あの、皇子?」



 抱き着いたまま、暫く何も言わないルイスに恐る恐る声をかけてみる。しかし、彼は黙り込んでいる。

 どうしたものかと思っていると、彼はやっと重い口を開き話始めた。



「…やっと、帰ってこれた」



 そう呟いた彼の声は、少しだけ震えていた。

 この場に居る大勢の人々にはけして聞こえていない、私にだけ聞こえる声で。


 私が何と返事をするべきかと悩んでいると、その沈黙を破ったのは皇帝陛下の一声。



「ほう、皇子と皇子妃はあまり時間を過ごせていなかったはずだが、皇子と皇子妃は戦場に行っている間、手紙のやり取りをかかさなかったと聞いた」



 どうしてその話を皇帝陛下が知っているのか。あの皇后がわざわざ皇帝陛下に伝えるはずが無いし、その他に私とルイスが文通を行っていたことを知る者は…


(エ、エリー!あいつの仕業ね!)


 まさか皇帝陛下、あの手紙の内容を見ていないわよね…?

 流石に移動石を使ったものだから、第三者の目には入っていないはず。そうでなければ今頃私は皇族不敬罪であの世に行っているはずだから…。



「皇子は皇子妃をとても大切にしているようだな。これは、我が国アスタリアとシスティーナ王国にとっても喜ばしいことだ。」



 自身の顎髭を触りながら、満足そうに微笑む皇帝陛下。



「…皇子?」



(ちょっとちょっと、何か返事をしなさいよ)


 皇帝陛下の言葉にルイスはだんまりを決め込んでいた。

 私が声をかけると、やっと彼は私の体を離し、目が合った。



「まぁ何ですか!皇帝陛下がお声をかけられているというのに、返事の一つもしないなんて!」

「は、母上の言う通りです!」



 外野の声…皇后とウィリアムはこれでもかとルイスの批判を始める。

 皇后陛下はもちろんのこと、ウィリアム第二皇子は今誰よりも焦っているのだろう。皇后は第二皇子にこれでもかというほど、ウィリアムが皇太子になれると言い聞かせてきていたし、それをウィリアムもまともに受け止めていた。


 だが、ルイスが無事帰ってきた今。ルイスが皇帝からの寵愛を受けることは既に確定してしまっている。

 ウィリアム第二皇子が次期皇帝陛下になれる可能性はもう、無きに等しい。



「口を閉じろ皇后に第二皇子よ。構わん、第一皇子も長い戦で疲れておるのだろう。まずはゆっくりと休むがよい」



 皇帝のその一声で、皇后とウィリアムはすぐに黙り込む。

 今まで皇帝陛下の姿を見てきて、皇后やウィリアムを注意したところを見たのは初めてだった。そこまで憎き敵を打ち取った息子が愛おしくてしかたなくなったのか…。



「ありがとうございます皇帝陛下。…行こうロゼッタ妃」



 皇后やウィリアム第二皇子のことなどまるで気にしていない様子でルイスは私に話しかける。

 行こうと彼に手を差し出されては、私に残された選択肢はその手を取ること。それだけしか残されていない。



「は、はい……」



 きっと私の声は、アスタリアに来てから一番と言っても過言ではないほど震えていたはずだ。


(お願いだから不敬罪処刑だけは勘弁して…!)


 なにせ、自分の生死がかかっているのだから。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





「ロゼッタ妃、早くご準備を。」

「どうしても行かないとダメかしら…」

「ダメですね。」

「そ、そうだわ、体調不良ってことにしましょう!」

「皇子妃が体調不良となればきっと医者を呼ばれてしまうでしょう。仮病だとばれてしまい、その後の対応の方が大変かと思われますが」

「…それもそうね。」



 彼が皇宮に帰ってきてからは、全てが変わった。


 長年悩みの種だった北部戦争に勝利を収めたルイスをとても気に入った皇帝は、ルイスのために七日間も続く大きな宴を開いた。

 その様子を見た皇后は激怒していた。そりゃあそうだ、ずっとルイスに何をしようとだんまりだった皇帝陛下が自分の実の息子であるウィリアムではなく、側室の息子を可愛がりだしたのだ。冷静ではいられないのだろう。


 そして、何だかんだ私が一番面倒だったアイツ…こと、第二皇子ウィリアムは近頃余計に私の後を付きまとってくるようになった。

 きっと皇后は私にだけではなく、ウィリアムにまであの戯言を吹き込んだのだろう。だれがあの大蛇の息子と結婚するものですか!


 ルイスとは、腕を引かれて連れていかれそうになった時。

 騎士団の仲間たちに囲まれたルイスとそのまま離れ、今日の今日までまともに話をしていない。内心助かったと心から思ったことは、ここだけの秘密だ。

 アスタリア帝国の救世主となった彼に、ただのお飾り妻である私は中々会う機会などない。

 

(まぁ、私が避けているっていうのもあるんだけど…)

 


「はぁ、分かりました。それでは途中参加ということにいたしましょう。皇子妃は体調不良にもかかわらず、夫の祝いの日のために必死の思いで身支度を済ませ、途中からパーティーに参加された。…これならだれも文句は言えません。」



 深い溜息をつき、私にそう提案したエリーの姿は何だか輝いて見えた。

 昔はあんなにも憎たらしく見えていたが、彼女は一歩間違えれば修道院行きのへっぽこ皇子妃の私に唯一優しくしてくれたメイドだ。少しばかりだが、信頼関係は築けている。



「エ、エリー…!貴女生意気だけど中々良いこと言うじゃない!よし、それで行きましょう」

「……はは、お褒めにあずかり光栄ですわ皇子妃様」



 メイドのエリーの提案に従い、私は途中参加としてパーティー会場へ向かった。

 皇帝陛下や皇后陛下の目を盗み、ルイスやウィリアムの目を盗み。

 無事、パーティー会場の裏にある静かな庭園へと抜け出すことができた。

 ここへ来るまで、沢山の令嬢たちと会ったけれど、ルイスたちの姿は見られなかった。どこか別室で話でもしているのかしら。


(…私と彼の、離婚の話とか。)


 会場を去る時、背後からは幾つかの令嬢たちの話し声が耳に入った。彼女たちの話題は、私がシスティーナに帰る日が近いことや、ルイス皇子が帰ってきたのに私が遅れてパーティーに現れることへの不満を吐き出していた。

 そして、その中で最も不快だったのは「皇子妃とウィリアム皇子は不倫関係だ」という噂だった。

 本当、好き勝手言ってくれるわよね。人の気も知らないで…。


 暗がりの中で冷たい風が私の頬をかすめる。春物仕様の薄いドレスが風に触れて、身に沁みる寒さが肌を刺す。春とは言え、まだまだ夜の冷え込みは厳しい。


(そう言えば、私がアスタリアに嫁いできた日も。春なのに寒かったかしら。)


 ふと、遠い記憶に心を取られたその瞬間、背後から突然声がかかった。



「探したよ。僕の妻はこんなところに隠れていたんだね」



 その声に、私は思わず背中を硬直させた。振り向くと、そこには予想もしなかった人物が立っていた。

 私が今最も会いたくない相手――ルイスだった。



「皇子…ど、どうしてこちらに…」



 私は驚きのあまり声が震えたが、冷静を装って尋ねた。だが、彼はそんな私の姿を一瞥して、少しだけ微笑んだ。



「会場で君の姿が見えなかったものだから。…懐かしいな。昔、僕もパーティーであの女から逃げるために何度もここへ来たよ。ところで、君はここで一体何をしていたんだ?」



 ルイスは私に笑顔を向けた。

 その笑顔は初めて出会ったあの日と変わらない完璧な笑顔。


(笑顔の方が逆に怖い…)



「少し散歩を…」

「へぇ、声をかける少し前に君を見つけたが、その時は立ち止っていたはずだ。君は歩かずとも散歩ができるのか?それは是非とも僕にご教示いただきたいくらいだよ」

「……今は休憩中です。」



 何がそんなにも面白いのか、ルイスはクスクスと笑い出す。



「…笑わないでください」

「あぁ、すまない。君があんまりにも可愛らしいものだから。」

「か、かわっ…って、」



 彼は頭でも打ってしまったのだろうか。

 それとも、戦地での環境があんまりにも過酷だったから、中身が完全に変わってしまったのだろうか。



「……皇子、戦場はお辛かったのですか」



 考えるままに、彼に質問をしてみた。

 私の言葉に、ルイスは少し驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔を崩さずに答える。



「…そりゃあ、今までの人生で経験してきたどんなことよりも辛かったさ。あの大蛇に泣きついて、皇太子の座ならウィリアムに譲るから帰らせてほしいと願いたいほどにね」



 彼の言葉に冗談めいた口調が混じっていたが、その目の奥には確かな疲れと苦しみが浮かんでいた。



「どうしてそうしなかったの?」



 別に、特別そこまで興味があったわけではない。

 会話の流れ的に、質問してみようかなと思った。それだけ。

 すると、彼は少しだけ目を伏せて話し始める。



「そうなれば、君は今ここにいないだろうな」



 彼はそう言うと、ゆっくりと私の近くに歩み寄り、その手を伸ばし私の頬に触れる。驚きとともに、彼の手の温もりが伝わってきた。


(どうして彼は、こんなにも私を愛おしそうな目で見つめるのか。)


 久しぶりに彼の顔をきちんと見た。

 背丈があの時よりも少し伸びているように感じる。顔立ちも、あの時よりかっこよく成長している。

 ルイスのお母様とは、一度だけ顔を合わせたことがある。そう言えばかなりの美形だった。ルイスの端正な顔立ちは、きっと母親譲りなのだろう。

 

 

「アスタリアでの生活はどうだ。僕が居ない間、何か苦労はあったか?」



 そう問う彼の声は穏やかで、どこか懐かしさを感じさせるものだった。



「それは沢山お伝えしたではありませんか…」


 

 私は少し冷たく返事をしたが、彼は楽しげに笑って答える。



「それは手紙でですか?」



 「...そうですよ」と不満げに答えると、彼はまた軽く笑う。手紙の話題を出したくなかった私は、あえてそれを避けるようにして話していたのに彼の方から出されてしまった。



「なるほどな、君がどうして僕を避けるのか不思議に思っていたが…そうか、あの手紙のことを気にしていたんだな?」

「...やっぱり、怒っていらっしゃるのね」

「僕が怒る?どうして」



 私の問いに、ルイスはわざとらしく首をかしげた。そのわざとらしい仕草が腹立たしく、思わず言葉を詰まらせた。



「そ、それは。だって、私はあなたにあんなにも失礼な態度を…」

「へぇ、失礼だと自覚していたんだな」



 ルイスの目がわずかに細められ、からかうような笑みを浮かべる。それが余計に私を追い詰めているようで、心がざわついた。



「……そうですよ、分かっていましたよ。分かった上で私はあなたに手紙を送っていたのですから!」



 少しだけ自嘲を込めた声で答えると、ルイスは肩をすくめて笑った。だが、その笑みにはどこか温かさが混じっていた。



「君は本当に面白いね、ロゼッタ。自分で失礼だと思いながら、あんなにも僕に言いたい放題だったのか」

「それは…」



 顔が熱くなっていくのを感じる。

 初めに手紙を書いていた時は、どうせ読まれることはないだろうという考えで、思うままにペンを走らせていた。

 けれど、後々彼がそれを読んでいたと知り、手紙の返事が届いた後も。私は変わらず自分をさらけ出した手紙を書き、彼に送り続けた。


(あぁ、穴があったら入りたい)


 あんなにも無礼な言葉を並べたのだから、何を言われても仕方がない。どんな処罰を受けたとしても私はそれを受け入れるつもりだった。



「どうして僕が怒ると思うんだ?」



 ルイスが身を屈めて、私の顔を覗き込む。その視線はあまりにも真っ直ぐで、思わず目をそらしてしまう。



「そんなの当然でしょう?戦場で命をかけて戦っているあなたに、皇子であるあなたに。ただの皇子妃である私があんな無礼な言葉を送りつけたのだから……」

「それは違うよ、ロゼッタ。」



 その静かな声に、私は思わず彼の顔を見上げた。

 ルイスは穏やかな笑みを浮かべながら、違うと言い切る。



「あの手紙が僕にとってどれだけの救いになったか、君には分からないだろう。…君のその飾り気のない言葉で僕に向き合ってくれたことが、どれだけ嬉しかったか。」



 夜空に漂う春の冷たい風が、彼の低く柔らかな声に吸い込まれていくように感じた。言葉の一つひとつが、私の胸の奥深くを静かに揺さぶっている。



「戦場は、君が想像するよりずっと過酷だった。誰かを信じることも出来ず、自分の正しさを疑うこともある。そんなときに君の手紙を読むと不思議と気持ちが軽くなった。君が僕に怒ったり、不満をぶつけたりしてくれることで、僕は自分がただの人間であることを思い出せたよ。」



 彼の言葉を、私はただ黙って聞いていた。

 胸の奥に広がる感情を、どう言葉にすればいいのか分からなかったからだ。



「怒るどころか、君に感謝しているんだよ。僕を皇子ではなく、一人の人間として見てくれる君に」



 そう言って、彼は優しく微笑む。その笑顔を見た瞬間、心の中で長い間閉じ込めていた感情が、少しずつ解けていくのを感じた。



「……私は」



 言葉を紡ごうとしたとき、ルイスの手が再び私の頬に触れた。その温もりが、春の冷たい風を忘れさせてくれる。



「それに、着飾った君よりも。本性を現した君の方がずっと可愛らしかったしね」



 その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。



「……最悪だわ。」



 震える声でそう言うと、彼はただ笑っていた

 すると、彼は「おほん」とわざとらしく咳ばらいをして、私を見つめ直す。



「ロゼッタ・フォン・システィーナ様」



 私の旧姓を呼ぶ声が、真摯な響きを帯びている。



「君が居たから、僕は生きて帰ってこれた。」



 そう言うと、いつの間に用意していたのか。彼の手元には小さな箱があり、わざわざ地面に膝をついて、それを私に差し出している。



「ロゼッタ...どうか、僕の妻になっていただけませんか。」



 その言葉と共に、彼は持っている方と反対の手で箱を開く。

 その箱の中身は、指輪だった。

 大きなダイヤモンドが真ん中に置かれているが、シンプルな装飾はその指輪をより素敵に見させた。


 

「…何を言いますか、私は既にあなたの妻ではありませんか」



 私は静かにそう言いながら、彼の真摯な眼差しから目を逸らすことができないでいた。


 彼の言葉には矛盾があった。

 だって、私は既に彼の妻なのだから。

 今からちょうど一年前。私たちは政略結婚として婚姻を結んだ。だから、私は彼の妻だし、彼は私の夫だ。だからどうしてルイスがこんなことを言い出したのか、私にはまるで理解が出来ない。


 結婚式を終えた後、彼が私に向かって言い放った。「君を愛することはない」という言葉はいつまでも私の頭の中に残っていた。だからこそ、彼が膝を地につけ真摯な表情で結婚を申し出る姿に戸惑いを隠せなかった。


 私たち王族の人間にとって、愛は贅沢品だ。

 親が選んだ相手と、国家の繁栄のために結婚する。それが私たちの宿命。

 そして何より、私たちの間には、愛など存在しないはずだ。

 それなのにどうして突然妻になってくれなんて言い出したのか。この国で今一番と言っても過言ではないほど名誉を得たあなたが、私に跪いてまで頼むことでは無い。



「あぁそうだ。君は僕の妻さ」



 その言葉が夜風に溶け込むように響いた後、彼は穏やかに微笑む。



「分かっているなら、どうしてそのようなことを仰るのですか」



 私は問いを返す。胸の奥底から湧き上がる動揺を抑えきれず、声が微かに震えた。



「君を愛していない。そう、あの日君にかけた言葉がずっと心残りだった」



 その言葉を聞いて、息が詰まった。

 今から一年も前の話を、覚えているはずがないと思っていたのに。彼もまた、私と同じようにあの日の出来事を覚えていたんだ。



「だから今、改めて君に伝えたい」



 彼の声は低く、それでいて温かかった。



「僕と結婚してほしい。君を、愛しているんだ。」



 彼の瞳には、嘘偽りのない誠実さが宿っていた。

 

(なんなの…?)


 愛している?私のことを。

 なによ、突然。私を愛すことは無いと言っていたじゃない。


 私の心の中には、今までため込んでいた不満が流れ込む。

 

 慣れない地で、顔見知りが一人も居ない土地で、私がどれだけ不安だったか。

 それなのに唯一心を許せると思っていた夫から、君を愛すことは無いと言われた私のことが分かる?どれだけ辛くて寂しい思いをしたが。


 不安で、怖くて、それでもシスティーナの姫として恥ずかしくないように、頑張ってきたのよ。


 ・・・でも、私の目を真摯に見つめて。少し緊張しているのか、垂れ気味の眉をギュッと吊っている彼の顔を見ているとそんな気分も去ってしまった。

 


「…仕方のない方ですね」



 私は一度ため息をつき、彼によって差し出された手を取る。

 小箱を掴む彼の手に、下から手を添えるようにして触れると、ピクリと彼の手が揺れた。



「いいですよ。...あなたの妻となって差し上げます。私のことを愛している、あなたの妻に。」



 私の言葉に、彼は暫く何も言わず私を見つめた。

 その顔は、何を考えている時の顔なのか。私はまだ、直接彼と会っての状態では日が浅い。彼のことをちっともしらない。



「仕方ないでしょう。私だって、ずっと帰りたかった自国に帰りたくないと思ってしまうほどあなたを愛してしまったのですから。」



 私の言葉に、彼は安堵したかのように微笑むと静かに私を抱きしめた。

 彼が私に言葉を返すことなく、ただ静かに私を抱きしめ続けた。





∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴





 私の薬指には、一年前に自分でつけた結婚指輪と新たに、夫によってはめられた指輪。その二つが上下に並び左薬指で輝いている。

 私たちは会場に戻ることなく、ベンチに横座りし今までの時間を取り戻すかのように話をした。



「そう言えば、皇后陛下があなたと離婚してウィリアム第二皇子と結婚しろと言ってきたわ」

「そんなことになれば僕は君を争って弟と戦うことになるな」



 ウィリアムの話をすれば、少しは彼の拗ねた所が見れるのかと思ったが、ルイスは薄ら笑いを浮かべ気にする素振りも見せずに淡々と答えた。



「…意味が分かって言っているの?そうなった時には皇后とも戦うことになるのよ」

「一年間ずっと国のために戦ってきたんだ。妻のために戦うくらい、なんてことないさ」



 さも当然だとでも言うように言い切る彼の横顔は、一年前と変わらない自信満々な顔。「妻の名誉のために戦わない夫がどこにいる」と続けた彼の横顔は、長く伸びた睫毛が美しい瞳に覆いかぶさっていた。



「あなたが帰ってくるのが遅いから、沢山酷い言葉をぶつけられたわ」

「全員刑に処せばいい。君は僕の妻なんだ、君の気が晴れるまで、君に無礼を働いたものに罰を与えよう。」



 どうして彼はそう攻撃的な考えになるのか。そう疑問に思ったが、だがそれも仕方ない。何故なら彼は一年間も戦地の中心に居たのだから。



「そうじゃないわ!」



 彼の頬に手を添えて、無理やり視線を私へ向けさせる。少し力が強かったのか私の手と彼の頬が当たりパンッと大きな音が響き渡った。



「私はあなたの妻なのよ。もう一人にしないで、ずっと私の傍に居て、私を守ってくれるって約束してちょうだい」



 彼の目を見つめてそう言うと、彼は数回瞬きをした後直ぐに「痛っ、」と苦しそうな声を漏らす。そしてそのまま俯いた。

 蹲るほど頬を叩かれたのが痛かったのだろうか。と焦りが襲う。



「え?嘘、そんなに力を込めたつもりは無かったのだけど…」



 「大丈夫?」と俯いた彼の顔を覗こうとしたその瞬間。彼は私の手首を掴みそのまま私の顔を自分の顔の元へ近づけた。


 彼の青い瞳と目が合った時、私と彼の唇が触れ合った。


 …キスをされた。



「な、な、何してっ…!!」



 今までにないくらい、私の顔が熱くなるのを感じる。

 頭がまるで回らない、顔から火が出てきそうになるほど私の顔に熱が溜まった。



「分かった、約束するよ」



 彼の満足げで、楽しげな顔を見ればさっきまでの行動が全て演技で会ったことが分かった。

 騙されたことへの苛立ちと、突然の彼からのキスに頭がいっぱいいっぱいになってしまう。

 


「ど、どうして急に…!」

「ははっ、そんなの君が好きなこと以外の理由はないだろう」



 何よそれ。とでも突っ込みを入れたくなったが、流石完璧と言われる皇子様ですこと。そう甘いことを言われてしまえば、怒ることが出来なくなってしまうじゃないか。



「…あなたにそんな子供らしい一面があるだなんて知りませんでしたわ」



 楽しげに笑う彼を見ていると。必死に考えていた自分が馬鹿らしく感じてしまい、何だか私の方まで笑えて来てしまった。



「そうでしたね、そんな顔をしていたわ。…目じりが少し垂れていてちょっぴり釣り気味な眉。それに、私と同じ水色の瞳。」



 顔立ちを確かめるように、彼の頬を撫でる。

 右頬に手を添えて、愛らしい目元の下から口元まで…。すると、くすぐったかったのか彼は右目を閉じる仕草を見せた。



「酷いな、忘れていたのか?」



 ウィリアムの話を出した時とは違い、少し不満げな顔をしたルイス。眉をひそめていても、彼の美しい顔立ちは美しいままだ。



「だって、一年間も会っていなかったのよ。あなたの顔よりもあなたの書く字の方が鮮明に思い出せるわ」



 小綺麗な顔をしているのに、剣術が得意で意外と筋肉があるところ。

 とても綺麗な字で文章を書く人。真面目で、数回程度しか会っていない手紙を交わしていただけの契約上の妻の私を忘れないで居てくれた一途な人。



「あなただって私のことを全て覚えていたわけじゃないでしょう?」

「……。」



 返す言葉が浮かばなかったのだろう。彼は誤魔化すように私の肩に顔を埋めて、小さく息を漏らした。

 お互いの気持ちをついさっき確認し合ったばかりだから、彼の積極的な距離感に緊張して体が固まってしまう。



「これからは私のことを、記憶に残してくださいね。」



 静かにそう呟くと、私は彼を抱きしめ返す形で首に腕を回す。

 そしてそのまま、やり返しだと言う意味を込めて、彼の頬にキスを落とした。


 私が彼のことを忘れかけているとなれば、きっとそれは彼も同じこと。

 それならば、これから沢山覚えてくれればいい。


 暗がりの中でも、彼の頬が赤く染まっていることが分かった。だが、きっと彼よりもずっと私の方が赤くなってしまっているだろう。


 彼は小さく「そこは口にするところだろ」と呟いているが私は「もっとはっきり大きな声で喋ってくれないと聞こえませんよ」と冷たい態度で返した。


 そんなに小さな声ではなく、はっきりと大きな声で、あなたの声を直接聞かせてちょうだい。


 だって。

 私と彼の想いは今、直接繋がっているのだから。


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