第2話 目撃

 そんな時代が、

「日本という国の社会」

 というものを、一変させた。

 家族団欒という言葉がなくなってしまったのもその時代だったであろう。

 会社に残れたとしても、給料は減らされ、ボーナスもカット。

 もちろん、残業などありえるわけもなく、仕事が終わらないのであれば、

「家に持って帰ってやるか」

 あるいは、

「照明を暗くして、こっそり居残って仕事をするか」

 のどちらかであった。

 当時は、まだパソコンもない時代だったので、データを、媒体に入れて持ち帰るなどということはできない時代だった。

 資料などをカバンに詰め込んで持ち帰るということが当たり前の時代だったので、

「会社でやるか」

 それとも、

「家に持ち帰るか?」

 というのは、どっちにしても、楽なことではなかった。

 ただ、今の時代は、それから少し変わってきている。

 というのは、途中から、

「個人情報保護」

 ということが言われ出したことで、それは、

「企業においても言えること」

 ということになり、

「会社の情報を表に持ち出すことはタブーだ」

 ということになってきた。

 というのは、時代の流れの一つとして、便利になったことではあったが、それが、

「パソコンの普及」

 というものであった。

 パソコンの普及というのは、同時に、

「ネットの普及」

 というものであった。

 インターネットが普及してきたおかげで、それまで、電話であったり、ファックスだったものが、

「電子メール」

 というもので、やり取りができるようになった。

 そうなってくると、悪意を持った詐欺師連中が、

「ネットを使っての詐欺」

 を企むようになる。

 それが、

「コンピュータウイルス」

 と呼ばれるもので、

「それに感染してしまうと、いろいろな情報を乗っ取られる」

 というものであった。

 乗っ取られてしまうと、勝手に金が引き落とされてしまったり、勝手な課金をさせられたりと、好き放題にされ、大きな損を受けてしまうどころか、会社の方も、信用問題にかかわり、下手をすれば、倒産に追い込まれてしまったりするだろう。

 そのために、企業側でも、

「ウイルス駆除」

 というものには躍起になっている。

 だから、個人情報にあたるものや、会社の情報を勝手に会社の外に出してしまい、個人のパソコンが、よもや、ウイルスに犯されていたりすることで、情報が抜き取られたりしたら、

「それこそ、その社員一人の問題では済まなくなる」

 ということである。

 しかも、いくら、

「わざとではない」

 といっても、会社に大きな損害を与えると、

「懲戒解雇」

 だけではすまず、

「民事告訴」

 さらには、

「刑事告訴」

 という状況にもなりかねないということになるだろう。

 とにかく、

「時代は、人間が生活がしにくい時代になっていく」

 ということであった。

 特に日本では、

「バブルが崩壊してからこっち、成長がないどことか、沈み続けている」

 ということになっている。

 人間の暮らしも、考え方も、

「まったく変わってきた」

 といっても過言ではないだろう。

 特に今の時代は、

「何もできない」

 と言われる時代であり、それこそ、

「昔の常識が非常識」

 とも言われる時代だろうか。

 特に、子供の世界の苛めというのもその一つの例で、

「昔の苛めは、虐められる側にも理由があった」

 ということで、昔は、

「いじめっ子」

 や、

「いじめられっ子」

 という言われ方はしていたが、

「苛め」

 という言葉はなかった。

 それは、

「いじめっ子側にも、いじめられっ子側にも、それぞれに事情があった」

 ということからではないだろうか?

 今の時代は、

「苛めという行為が問題であり、いじめっ子による一方的で理不尽なものだけに、凶悪であり、理不尽であり、先生も立ち入ることのできない社会現象になってしまった」

 ということであろう。

 しかし、一方的に虐めている連中だって、そもそも、苛めというものを引き起こすようになった原因はあるわけで、それが、

「親から受ける虐待であったり、家族の離散」

 などという、

「家庭の事情」

 からくるものであろう。

 その家族の事情というのも、元々は、

「勤めている会社で受ける、パワハラというものが原因なのかも知れない」

 ということになると、

「原因追及は果てしない」

 ということになり、

「解決方法の一番」

 として考えられる

「元から正す」

 ということは不可能ではないかと思えるのだ。

 そうなると、

「社会のすべてを正すしかない」

 ということになり、

「それができるくらいなら、とっくにやっている」

 と言われるのがオチだろう。

 そうなると、

「今の時代というものは、結局は、過去からの積み重ねでしかないわけで、それをさかのぼったとしても、答えが分かるわけでもない」

 だから、今の時代は、

「雁字搦めで、暮らしにくい時代になった」

 といってもいいだろう。

 そんな時代なので、

「人を自分の価値観で判断し、その人に押し付ける」

 というのは、パワハラと言われるのだ。

 これは、親子の間でもいえることで、下手をすれば、その感覚が大きくなると、

「幼児虐待」

 ということになってくるのだろう。

 これも大きな社会問題」

 となっていて、この問題は、これからも、ずっと続いていくことになると思われる。

 子供が、学校でのいじめというものに遭うと、

「不登校になり、引き籠る」

 ということが、

「一連の流れ」

 ということになる。

「不登校」

 というものは、昔の

「登校拒否」

 とは違い、

「明らかに、登校できるという状態に、健康的にはあるのだが、学校にやむを得ない事情でいかない場合」

 ということで、この場合の、

「やむを得ない事情」

 というものが、

「苛め」

 ということになるのだ。

 だから、

「苛め」

 というものと、

「不登校」

 というものは、切っても切り離せない関係にあり、そうなってしまうと、家庭崩壊にもなりかねない。

 だが、それが、平成からこっちの、

「バブル崩壊」

 というものを原因とする、一連の悲惨な

「社会現象のひとつ」

 といえるだろう。

 そんな不登校になった子供が、部屋から出てこないという現象を、

「引きこもり」

 という。

「部屋に引きこもって何をしているのか?」

 というと、そのほとんどが、

「ゲームをしている」

 ということになるのだ。

 テレビドラマでも、昔は、そんな引きこもりを社会問題ということでテーマとしているものもあった」

 ということであるが、最近のドラマなどでは、

「引きこもりの子供が出てきても、それをテーマとすることはなく、ただの、家庭での一場面ということで触れることはない」

 それは、時代の流れということで、

「しょうがないことだ」

 として、社会が認識しているのであろう。

 特に、引きこもってしまった人を、力ずくで部屋から引っ張り出すということは、

「一番してはいけない」

 ということであり、

 これが昭和であれば、何とかなったかも知れないが、今の時代であれば、

「引きこもりから強引に表に出されてしまうと、今度は家出してしまう」

 からである。

 昭和に育った大人は、そういう発想はないだろう。

「子供は、親が育てるもので、親にはそれだけの威厳が必要だ」

 ということになるのだろうが、それはあくまでも、父親に本当の威厳があればということであり、その当時の親は、会社では、

「パワハラを受けていたりして、それを家族に当たっていないとも限らない」

 そんな親がいくら家で、威張ったとしても、それは、

「お山の大将でしかない」

 ということで、

「誰も従うわけはない」

 ということになる。

「子供が引き籠ったことで、母親は、精神を病むかも知れない」

 母親は、

「子供の成長だけが楽しみで、母親をしている」

 という人も結構いただろう。

 その子供が引き籠ってしまった。

「その原因がどこにあるのか?」

 ということを、母親が知ってか知らずか、結局は、

「自分が悪い」

 と、最初は自分を責めるだろう。

 そうなると、子供に対して、とにかく気を遣うということしかできなくなるというもので、

「余計なことはいえない」

 として、

「刺激を与えないということが一番」

 と思うようになるだろう。

 そうなると、目は子供にしか向いていないだろうから、父親が、何を考えているか、そして、会社でどのような気持ちになっているかなどということが分かるはずもない。

 しかも、自分のことなど後回しとなると、

「自分が精神的に病んできているということなど分かるわけはない」

 ということになるのだ。

 夫婦間の会話もなくなり、木が付けば、ヒステリックになってしまっている。

 父親にも抑えることができなくなると、父親とすれば、癒しを求めたくなり、不倫などに走ることもあるだろう。

 それは、母親にも言えること。

 自分が精神疾患であるという自覚があるわけではないので。当然、おかしな精神状態になっていて、右にも左にも傾いているにも関わらず、

「自分だけは気丈だ」

 と思っているかも知れない。

 その状態が一番危険で、まわりからの暖かさが、それがいくら見せかけだとしても、敏感になってしまっていることで、

「男に騙されやすい状態」

 ということになるだろう。

 そうなると、

「旦那の不倫」

 よりも厄介なことであり、

「男に貢ぐ」

 という状態になれば最悪だ。

 精神疾患に陥った母親とすれば、

「この人に捨てられたら、自分は終わりだ」

 と思うだろう。

 それだけ、今までは、

「家を守ってきたのは自分だ」

 という意識があったかも知れない。

 しかし、バブルが崩壊したことで、

「旦那だけの稼ぎでは生活できない」

 ということで、

「うちだけではない」

 とは思いながらも、理不尽と感じながら、働きに出なければいけない自分を、

「情けない」

 と思っていたかも知れない。

 しかも、家のことは、すべて自分任せ、これほど理不尽なことはないだろう。

 さらに、追い打ちをかけるように、

「一番の生きがいだ」

 と思っていた子供が引き籠ってしまった。

 そうなると、もう、

「家庭崩壊」

 というものは避けられない。

 もちろん、

「親の都合」

 と、

「子供の引きこもりというものの間に、何ら関係があるというわけではない」

 といえるだろう。

 それはあくまでも、

「どこの家族にも、簡単に陥ってしまうという、家庭崩壊」

 というものに過ぎないということになるであろう。

 そんな家庭崩壊というものが、昭和の時代であれば、形が違っていた。

「子供が不良化する」

 というのが、その一番であり、その代表が、

「積み木くずし」

 というものであった。

 元々は、

「家族が子供の不良化で崩壊していく」

 というドキュメント的な小説だったのだが、

「ドラマ化」

 というのも、

「映画化」

 もされたのだ。

 これは、子供が、

「堕ちていく」

 という意味では同じかも知れないが、

「その原因」

 というものであったり、

「それを取り巻く社会現象:

 ということではまったく、

「苛めによるもの」

 ということでは違っているといってもいいだろう。

 苛めによるものとしては。前述のとおりだが、

「積み木くずし」

 というものでは、子供の

「やり場のない怒り」

 というものが、爆発して、家族や学校で当たるということであった。

 これは、そもそもの原因として一番考えられることとして、

「教育問題」

 というものが挙げられる。

 というのは、

 戦後の時代に、日本国において、復興のために必要で、さらに、そこからの、

「経済成長に対応できるだけの頭脳を持った子供の育成」

 というのが、急務であるという時代になっていた。

 高度成長期というのがその時代であり、そこから、

「詰込み教育」

 というものが、生まれてきた。

 それが、

「受験戦争」

 というものを生み、そのため、

「子供の頃からの、競争社会ができてくることになった」

 ということである。

 子供の数から考えれば、その学力に、

「天と地ほどの差がある」

 ということは分かり切っていることであり、だとすると、

「どちらにその重点を置くか?」

 ということになる。

 つまり。

「成績の悪い子に合わせてしまうと、落ちこぼれというものは防げるかも知れないが、そうなると、せっかく、優秀な生徒のさらなる成長を妨げてしまうことになり、そもそもの教育方針が変わってくるということになる」

 というものである。

 だから、

「落ちこぼれというのはしょうがない」

 として、

「成績優秀な生徒のために、落ちこぼれは捨てていく」

 というような学校方針になっているのではないだろうか。

 そうなると、

「優秀な生徒は、優秀な学校で、ちやほやされながら、社会に出ていく」

 ということになり。落ちこぼれた生徒は、

「落ちこぼれ」

 と言われる学校に入るしかなく、そこには、同じような落ちこぼれがたくさんいることで、皆。

「社会から落ちこぼれた」

 という意識と、それに対して、

「社会から、一切の救済がない」

 ということで、そのストレスのもっていき場所を周りの社会にぶつけるのであった。

 だから、

「不良」

 というのは、

「落ちこぼれ」

 という言葉と同意語のように見られていた時代もあった。

 もっとも、

「エリートだからと言って、彼らに、まったくの不満はなにも尾ない」

 などということもなく、逆に、

「落ちこぼれたからといって、皆が皆、不良になる」

 というわけではないが、ほとんどが、

「この公式にあてはまる」

 ということであれば、

「おかしな世の中になった」

 と思ったとしても、しょうがないと感じている人も少なくはないだろう。

 それが、

「昭和の頃の構図」

 といってもいい。

 当時としては、

「これが当たり前」

 ということであり、今のような時代が、

「おかしな時代になった」

 と考えていたとすれば、

「昭和の時代が終わりを告げた」

 ということで、

「こういう時代が無限ではない」

 と理解したことで、平成以降の時代も、

「そのうちに終わりを告げる」

 ということで、昭和を知っている人は、真剣に思っているかも知れない。

 もちろん、

「昭和の昔に戻る」

 ということを考えているかどうか分からないが、少なくとも、

「時代は変わる」

 と、ずっと思い込んでいるとすれば、それは、

「今の時代というものを、甘く見ている」

 ともいえるだろう。

 少なくとも、

「今の時代のことは、今の時代に対応して考えなければいけない」

 ということなので、

「いくら時代が変わるかも知れない」

 と考えていたとしても、

「時代錯誤も甚だしい」

 と言われて、そう判断されて終わりではないかということになるだろう。

 実際に、今の時代に、

「昭和の、古き良き時代」

 といっている人は、

「時代に乗り遅れている」

 ということであろう。

 それが、文化であったり、風習であったりするのであれば、別に問題ないのだが、それは、

「教育方針」

 などというものであったとすれば、それは、

「時代錯誤」

 と呼ばれても仕方がないということになるであろう。

 そんな、

「人と関わりをもちたくない」

 と思っている人に降ってわいたような、

「巻き込まれ事故」

 といえるような世界、それがいよいよこのお話の展開となってくるのであった。


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