第三節:執筆開始 ─ 3通りの人間ドラマ
月代 祐紀は、うっすら黄ばんだ原稿用紙を前に、軽く震える指先でペンを握っていた。
いつもなら文章が自然と流れ出すはずだが、今回は違う。
自分自身の過去や感情をストレートに書く——それは、彼女にとって“文学的技巧”を超えた試練だったからだ。
「私の人生なんて、書けば書くほど重くなる気がするわね……」
彼女の小さな独白は、静かな部屋に染み込むように消えていく。
続いて紙に落ちるのは、彼女がとっさにひねり出す比喩でも、美しさを狙った繊細な文体でもなく、まるで自分の心の奥底を覗いたままの生々しい一行だった。
<< 生まれた家が何より重荷だった。愛されているふりをすることが、いつしか習慣になっていた── >>
それは彼女が書き始めた『破れた繭(まゆ)の、朝』の冒頭であり、ある種の覚悟を帯びた文章だった。
かつては神代 泰蔵という大御所に憧れ、その権威が“文学”のすべてだと思っていた時期もある。
しかし神代は、異世界ファンタジーを満足に書けないまま消されてしまった。
今やネットや若年層からは「老害」「時代遅れ」と蔑まれ、その存在すら忘れ去られそうだ。
月代には、その惨たらしい現実がどうしても脳裏にこびりついて離れない。
彼女は無理やり意識を取り戻すと、再びペンを走らせる。
「そうよ……私は逃げないわ。どんなに苦しくても、ここに私の生きてきた証を刻むしかないのだから」
一方、守屋 漣は執筆ブースに腰を下ろしながらも、相変わらず落ち着きがなく、膝を上下に揺らしている。
彼はいつもならテンション高くキーボードを叩きまくるところだが、今回ばかりは自分でも戸惑いを隠せない。
人を笑わせるのが得意な守屋が、どうやって涙を誘う物語を書けばいいのか。
「えーと……こりゃどうすりゃいいんだ。オレんとこに悲しいエピソードなんてあったっけ? いや……ああ、そうだよ、あれは笑いじゃ誤魔化せなかったな」
実際、彼には笑いに変えられなかった“穴”がある。
漫才師を夢見た父親との別れ、家庭の金銭的な苦境——そんな記憶に触れようとするだけで、胸がぎゅっと締め付けられる。
だが、その痛みを避けてはもう勝てない。
そう悟っているからこそ、守屋はぎこちなくノートPCの画面に文字を打ち込む。
<< 芸人を目指していた父の背中は、笑っていたはずなのに、どこか寂しそうだった。僕は、そのとき初めて“笑い”を武器に生きようと決めたんだ…… >>
新作のタイトルは『僕は笑うために、泣いたことがある』
これまでの守屋なら、こんな仰々しい題をつけるはずがないが、追い詰められたデスゲームの最終局面では、軽口ばかり叩いても仕方ない。
「まあ、やるしかないよな」と、独りごちる。
タコやザリガニを登場させていた頃とは明らかに違う空気が、彼の中で膨れ上がっていた。
そして、新鋭作家の根岸 千夏は、ほぼ手放せなかったスマホを今は机の端に置きっぱなしにして、古めかしいノートPCを覗き込んでいる。
SNSでの“いいね”こそが全てだったこれまでの自分を振り返るたび、どうしても冷たい汗が浮かんでしまう。
「……どうせまた“浅い”って言われるのかな。いや、ここで書かなきゃ変わらないんだ、私」
彼女が選んだタイトルは『きらめきの、裏側で。』いつもなら文章冒頭に派手な絵文字やSNS用語をちりばめるところだが、今回の原稿にはそうした飾りが見当たらない。
<< 通知音が鳴るだけで、生きてる気がした。だって、ほんとの私はすごくちっぽけで……SNSで承認されることでしか、自分を好きになれなかったから >>
わざとらしいハッシュタグも、可愛い流行語も、いまのところ打ち込めない。
その代わりに、自分が感じてきた孤独や、いじめられた記憶、そして取り返しのつかない失敗を、一行ずつさらけ出していく。
「これを書いたら、SNSでの“私”はどうなるんだろ……でも、そっか、気にしてる余裕なんてもうないもんね」
根岸も神代の脱落を思い出す。
あの威厳ある大御所でさえ、「異世界ものなんか書けるか」と言った途端に翻弄され、そして姿を消した。
それを嘲笑う声がネットで散々飛び交っていたのを見たとき、自分の中で得体の知れない不安と怒りが入り混じった。
「あんな権威だった人を……みんな手のひら返しで“老害”って言ってた。えぐいよ、でも、それが今の世界……私だって、もし失敗したらそう呼ばれるのかな」
だからこそ、彼女は心の奥を抉り出す書き方で勝負する。
もうバズ狙いの軽いノリだけじゃ、ここから生き残れないのは分かりきっている。
三人の部屋にはそれぞれ孤独な執筆の息遣いだけが漂い、一方で外の廊下ではスタッフや警備が淡々と巡回している。
このデスゲームの主催者たちは、おそらく監視カメラ越しに彼らの苦悶を眺めているのだろう。
時折、作家同士が休憩スペースや食事で顔を合わせることがあっても、互いに口を開かない。
むしろ、こちらからすれば何かを語り合う余裕などないのだ。みな、それぞれの過去のトラウマを文章に凝縮しようと必死だから。
月代は紙が何枚も何枚も重なっていくたび、息が苦しくなる。
守屋は筆が止まっては再開し、時折「クソ……」と舌打ちする。
根岸はキーボードを打ち込む速度が徐々に落ちていき、涙の痕のようなものを時おり画面の端で拭う。
だが、どんなに胸がえぐられるような思いをしようと、締切は無情に迫る。
こうして三人は、それぞれの“人間ドラマ”を丹念に執筆し続ける。
筆に乗りきらない思いも、書けば伝わらないかもしれない不安も、すべて抱えたまま。それでも書き進めるしかないのだ。
次に待つのは、作品を公開し、読者と専門家の評価を受け止めるという、命運を左右する審判——。
その重圧を感じながら、夜が深く冷たくなるまで、三人の作家は机にかじりつき、己の一番痛い部分をさらけ出す言葉を探し続けた。
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