第二節:執筆開始 ─ 5通りの恋物語
執筆用のブースへと続く長い廊下は、やたらと薄暗かった。
床のきしみや空調の風音までもが神経をざわつかせる。
先ほど「恋愛小説」と告げられたばかりの五人の作家たちは、それぞれの部屋にこもり始める。
誰も口に出さないが、神代のいない空席が心を重くしたままだ。
勝つには書くしかない――その思いだけが、一歩を踏み出す原動力となっていた。
月代 祐紀の執筆室からは、静かなタイピング音が一定のリズムで響いてくる。
中断することなく、まるで心に描いたストーリーが見えているかのようだ。
モニターには彼女の新作『キスより遠い隣人たち』の冒頭が映っている。
<< 降り続く雨のなか、彼女は傘をささずに立っていた。その理由を知りたくなるほどに、彼女の瞳は孤独を宿していた…… >>
何度も書き直しながらも、その文章は淡々と深みを増していく。
パソコンの画面には、都会の喧騒を背景にした“静かで切ない恋愛”が浮かび上がりつつあった。
月代は小さく息を吐き、椅子の背にもたれる。
「ここまでは悪くない……でも、もっと心の暗がりを描かなきゃ。読者を泣かせられるほどの深い孤独を」
自分が得意とする“人間ドラマ”の精髄で、読者と専門家の心をしっかり掴む。
それこそがこの場で生き残る術だと信じているようだった。
一方、守屋 漣は隣のブースでテンポの速いキーボード操作を繰り返す。ときどき「よしっ」と声を上げたり、「あれ、ここギャグにするか?」と悩んだり、まるで自分で芝居を打ちながら書いているような軽快さだ。
すでにタイトルは『おれに惚れるな! でも惚れちゃう!?』という、いかにも彼らしいラブコメ路線。
<< 放課後の教室で、可愛い後輩にいきなり告白!? ちょ、俺、そういうの慣れてないんだけど……いや、嘘。慣れてたり? >>
自身の作品を読み上げてはニヤリと笑う。元来のエンタメ気質が全開だ。
しかし、その笑顔の裏でほんのわずかに曇りが見えたのを、誰かが見ていれば気づいたかもしれない。
派手な異世界ファンタジーではなく、恋愛というテーマだ。
守屋は「ネット票は間違いなく取れる」と踏む反面、“深み”を問われることに対し、本当はどこかで怖れを感じているようだった。
さらに奥のブースからは、根岸 千夏がスマホを見ながら独り言を漏らす声がする。
「やっぱ映え狙いの恋愛がいいよね……でもなあ、前回みたいに“浅い”って叩かれたら」
指先はSNSを開く寸前だが、運営のルールを思い出してはため息をつく。
それでも彼女の作中作『#片想いハートブレイク 〜スマホ越しのあの人〜』は書き進められていた。
<< “好き”の気持ちはどこから始まる? スマホ通知に心が弾むたび、私の胸は痛くなる。これが片想いってやつ? >>
ポップで鮮やかな文章の端々に、どこか焦りと切実さが織り交ざっている。
根岸は「あたしだって、ただの軽い作家じゃないんだから」と自分に言い聞かせるように呟いた。
神代の脱落により、このデスゲームの苛酷さをまざまざと思い知らされた以上、もう勢いだけで乗り切れるとは思っていないのだ。
そして、牧瀬 穂乃果のブースでは、小さな声で「これ……本当に恋愛って呼んでいいのかな」と自問しているのが聞こえる。
机上にはホラー色全開のメモが散らばり、そのなかに彼女の恋愛小説『死神がささやく夜に』の画面がちらつく。
<< 愛してる、だから壊したい。あなたを我がものにしたいなんて言えない──。この鎖が、私たちを永遠に結ぶと信じたいのに…… >>
打ち込むたびに、ぞくりとするような表現が現れるのに、牧瀬はそれをどうにか“恋愛”へ近づけようとあがいていた。
だが、気がつけばいつものダークな描写に傾きがちだ。
「みんなに引かれちゃうかもしれない。でも、私にはこれしか書けないし……」
神代の無惨な退場が頭をよぎっているせいか、その小声は震えていた。
そして、高森 雄一。
彼のブースのモニターには、すでに『君の笑顔を守りたい』の冒頭が明るい文体で並んでいる。
<< 大丈夫、勇気を出して告白すれば、明日から新しい世界がきっと開ける。そう信じて、一歩踏み出そう…… >>
いつもの“王道”を貫こうと決めたらしい。
少年漫画的な熱量で、安心感のあるラブストーリーを紡いでいく。だが、その瞳には迷いも色濃い。
「そろそろ、何か新しい要素を入れないと……王道だけじゃまた埋もれるんじゃないか……」
声に出さずとも、頭の中を不安が駆け巡っていた。
安定策と攻めの姿勢、その間で心が揺れる様子が、文面にもにじみ出ているようだった。
かくして五通りの恋物語が、同時進行で書き始められる。
廊下を行き交うスタッフや監視カメラのレンズが、彼らをじっと見張っていることを忘れるわけにもいかない。
だが、「書かなければ死ぬ」と言ってもいいほどの緊張感は、逆に筆を進ませる原動力ともなっている。
今この瞬間も、どこかで“仕掛け”をもくろんでいる誰かがいる──そんな気配を感じさせる小さな物音や、時折の照明のちらつきが、不穏な伏線として空間に漂う。
それでも作家たちのペンは止まらない。
月代は渾身の言葉で孤独を描き、守屋はコミカルな台詞を連打しながら笑いのなかにときめきを盛り込む。
根岸はSNS文化を駆使したアップテンポな恋を、牧瀬は危うい狂気を秘めた愛の形を見つけようと苦しみ、高森は読者が「微笑んでしまう」ようなストレートなラブストーリーを追求している。
だが同時に、彼らの心には静かな警鐘が鳴り続けていた。
次に落ちるのは自分かもしれない。
その思いが、より濃密な“愛”の物語を生み出すのか──あるいは、また一人、デスゲームの犠牲になるのか──。
答えは遠いようで、締切はすぐそこまで迫っている。
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