第二のテーマ - 恋愛小説
第一節:新たなる指令 ─ 恋愛小説
神代 泰蔵が連れ去られてから、まだ数時間しか経っていないというのに、館の空気はすっかり変わっていた。
朝になっても誰の足取りも重く、口を開く者は少ない。
つい先日まで“文学界の生きる伝説”だった大御所が、あんなにもあっけなく退場させられるとは想像もしなかったからだ。
月代 祐紀が廊下の窓から外を見つめている。
灰色の曇天が広がるばかりで、まるで希望を打ち消すようにも見えた。
少し離れたロビーには、守屋 漣が腕を組んで壁にもたれている。
「やっと口うるさい大御所がいなくなったってわけか……」と呟く声は小さく震えていた。
その場に居合わせた根岸 千夏はスマホの画面を何度も擦り上げながら、SNSに呟きそうになる衝動をかろうじて堪えている。
「……さすがに今は無理だよね。他言無用だし、変なこと書いたら絶対に狙われそう」
そんな自分の浅はかさに気づいて、スマホをそっとポケットにしまった。
食堂の片隅でじっと座っているのは牧瀬 穂乃果と高森 雄一。
牧瀬の眼差しは宙をさまよい、心ここにあらずといった様子だ。
高森はテーブルを指でトントンと叩き、「次は一体、何を書かせる気なんだ……」と小声で自問する。
二人とも、神代の悲惨な退場を目の当たりにしたあの夜から、ろくに眠っていない。誰もが次は自分かもしれないという恐怖に蝕まれ、張りつめた糸がいつ切れてもおかしくなかった。
そんな沈黙を破ったのは、館内放送のスピーカーから響く謎めいた声だった。
「皆さん、おはようございます。神代 泰蔵先生の脱落、誠に残念でしたね。しかしゲームは続行します。では、早速ですが次のテーマをお伝えしましょう。今回のお題は――恋愛小説です」
低く響く声が終わると同時に、食堂に集まっていた作家たちの顔つきが一斉に変わった。
あの神代が退場してから間もないというのに、もう次の地獄が始まるのかと、心が軋むような感覚が走る。
最初に反応を示したのは月代 祐紀だった。
唇をぎゅっと噛みながらも、その目には何か燃えるような決意が浮かんでいる。
「恋愛小説か……悪くないわね。私には得意分野だもの。ここでこそ、私の実力を見せつけてみせる」
つぶやきはかすかな声だったが、自分の言葉を奮い立たせるようでもあった。
彼女の肩からは不安より闘志がにじみ出ている。
先の“異世界ファンタジー”では大衆受けとはかけ離れた評価だったのが悔しいのだろう。
大御所・神代に学んだ文芸性を自負しながらも、ネット投票で苦戦を強いられた記憶がまだ鮮明だ。
それだけに、「恋愛」なら巻き返せるはずだと信じる思いが、彼女の背筋を支えている。
一方の守屋 漣は、いつもの軽妙さを戻したかのように、「恋愛ならラブコメだろ。これはイケるかも」と肩をすくめて笑ってみせた。
しかし、その笑顔の裏にある陰影を月代は見逃さない。
まるで“本当に大丈夫か?”と自問しているような、揺れる視線だ。異世界ものなら独走状態だった守屋だが、今回の“恋愛”では果たしてどこまで票を伸ばせるか、自分でも確信はないのだろう。
もっとも、若年層が熱狂するようなドタバタ展開を軽快に描ききれば、ネット投票で上位を勝ち取れると踏んでいる様子には違いなかった。
根岸 千夏は守屋を横目で見ながら、小声で「#イケメンヒーロー とか #神展開 とかSNSで盛り上がりそうだけど……」と呟いたが、その声にいつもの勢いはない。
「前回、あたしのやつ“設定浅い”とかボロクソ言われちゃったからなあ……」
本来なら、恋愛小説の派手な盛り上げ方は得意中の得意だろう。が、異世界ファンタジーのときに指摘された“作り込み不足”がトラウマになっているらしい。
「でも書くしかないし……あんなふうに消されるのだけは絶対イヤだし」
言葉の端々に焦りがにじむ。
彼女はスマホをいじりかけては、すぐにやめるという動作を繰り返した。
ルール上、作品内容の事前宣伝はアウトに近い。
SNSを駆使する彼女にとって、それは大きな制約だ。
テーブルの奥、牧瀬 穂乃果が伏し目がちに座っている。
恋愛小説と聞いただけで、その表情は暗く沈むばかりだ。
「恋愛って……私、どうすれば……」
ホラーばかり書いてきた彼女にとって、甘くて切ない恋の世界など“未知の海”に等しい。
そう思ってか、指先で机を引っかくようにしてうつむいている。
思わず隣にいた高森 雄一が声をかけた。
「まあ、なんとかなるでしょ。俺も恋愛本格派ってわけじゃないけど、王道パターンでまとめりゃいいかと思ってるし」
しかし、高森自身も不安そうに眉をひそめる。
前回、大御所・神代が容赦なく切り捨てられた事実が頭をよぎるのだ。
どんなに無難に書いても、あるいは大衆受けを狙っても、わずかなミスで命を落としかねないことを悟らされている。
ましてや“安定路線”は、いずれ埋もれてしまうかもしれない──そんな疑念が、胸の奥に眠っている。
食堂を出る直前、月代がそっと口を開いた。
「牧瀬さん、書き方に正解なんてないと思う。あなたなりの“恋愛”を書いたらいいんじゃない?」
その言葉に、牧瀬はわずかに瞬きをして顔を上げた。
彼女の唇はか細く震えている。
「でも……私が書くと、どうしても血の匂いがしてしまうの。こんなの、恋愛じゃないって言われるだろうし……」
それに答えたのは、守屋の軽い調子だった。
「それでも、ホラーラブって面白そうだけどな。意外とウケるかもよ?」
苦笑交じりに言う守屋に、牧瀬は何も言わず、軽く目を伏せる。
自分のスタイルを曲げるか、それともこの“殺し合い”のような舞台で新しいジャンルを開拓するか。
そのはざまで、彼女は彷徨っているようだ。
こうして、五人の作家たちは、まだ生々しい神代 泰蔵の脱落という惨劇の余韻を引きずりながら、“恋愛小説”という次なる地獄に踏み入ることになった。
心のどこかでは、誰もが実感している。
ここで自分の武器を活かせなければ、神代と同じ末路を辿るだけだ。
月代は自信を奮い起こし、守屋はラブコメの海へ飛び込み、根岸はSNS頼みの誘惑と戦い、牧瀬は血の影を振り払おうともがき、高森は“王道”の安全策が本当に安定なのかを自問している。
床下のどこかからは冷気が漂っているかのようで、誰もが一瞬、背筋を震わせた。
そして館内放送のスピーカーから、再び主催者の声が鳴る。
「締切は1週間後。文字数は最低1万文字。準備を怠りなきよう。皆さんの“愛の物語”……楽しみにしていますよ」
不気味な笑いを残し、放送が途切れた。
先ほどまで以上に張りつめた沈黙が訪れる。
恋愛という言葉にほんの少し心が浮き立つ──そんな雰囲気は、この館のどこにもなかった。
むしろ、これが“ラストチャンス”かもしれないという恐怖が、作家たちの肌にまとわりついて離れない。
それでも書かなければ、次は自分が連れ去られる。
それを十分すぎるほど思い知らされた五人は、小説家としてのアイデンティティと生存本能の両方を賭け、ペンを握らざるを得なかった。
その筆先が本当の“愛”を描き出すのか、それとも地獄へ堕ちる入口を開くだけなのかは、まだ誰にもわからない。
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