第3章「姉と猫目の女神」~ 第4章「夜の囁きと歪んだ想い」

第3章「姉と猫目の女神」


美輝は休日の朝、珍しく姉に連絡を入れてみた。

「ちょっといい?母さんのことで話したいんだけど」

わずかに緊張した声が口からこぼれる。

けれど電話越しの姉は、相変わらず受け身な口調だった。

「うーん、今ちょっと子どもが熱でね。今度ゆっくり話せるといいんだけど…」

そのあやふやな返事に、美輝は言いようのないもどかしさを覚える。

「大丈夫、また今度にする」

そう答えて通話を切ったあと、ため息をつく。

母親の浪費癖も父親の過去の暴力も、姉に頼ってどうにかなるとは思えないけれど、わずかな期待があるのも正直な気持ちだ。

気分転換しようと、茶髪のクルクルロングが印象的な友人とカフェで待ち合わせをした。

猫のようにつり上がった目で笑う彼女は、キャバクラでNo.1を誇る華やかな存在。

けれど美輝には、何でも包み隠さず話せる数少ない相手だ。

「はいはい、今日もシャイニングTシャツね。元気そうじゃん」

友人は軽くウインクして、美輝を席に誘う。

テーブルに腰掛けると、美輝はやや遠慮がちに言葉を探した。

「実は母さんがまた買い物しててさ。借金、増える一方で…」

友人はあきれ顔を浮かべながらも、すぐに真剣な表情に戻る。

「そっか。でもあんたの夢は諦めないでよ。ちゃんとネイリストになるまで貯金するんでしょ?」

美輝は頷きながらカップを手に取る。

温かいラテの香りが、ささくれた心に少しだけ染みる気がした。

「ホントは早く辞めたいんだけどね、コンカフェ。たまに嫌な客もいるし…」

言葉の途中で、美輝は一瞬言い淀んだ。

父親に襲われた記憶の痛みはまだ消えていない。

それでも、友人は何も聞かずにカップを置き、美輝の手をそっと握る。

「大丈夫だよ。無理しすぎないようにね。何かあったらすぐ言って」

その一言が、まるで灯りのように美輝の胸を照らす。

父親の存在が頭をかすめるたびに強まる男性への苦手意識。

それを抱えながらも生活を続けるのはしんどいけれど、こうして味方でいてくれる人がいる。

「ありがとう。ネイリスト目指してること、忘れないようにする」

美輝はシャイニングTシャツの袖をつまみながら、小さく笑みを浮かべる。

カフェを出るころ、友人はいつもの茶目っ気ある笑顔に戻っていた。

「キャバクラでもネイル映えするし、私に可愛いデザインよろしくね」

その言葉に美輝は笑って頷く。

借金やトラウマが消えるわけじゃないけれど、目指す道が明確になればきっと支えになる。

友人の猫のような瞳が、ひときわ優しく美輝を見つめていた。


第4章「夜の囁きと歪んだ想い」


美輝はコンカフェのカウンターで、タブレットに届いた予約リストを確認していた。

「今日もあの人、来るのかな…」

ここ数日、しつこくLINEを送ってくる常連の姿が頭をよぎる。

仕事とはいえ、客の要望をすべて受け入れられるわけじゃない。

しかし彼は店外デートを狙ってまったく引く気配がないようだ。

奥の席にその常連客が現れたのを見つけると、美輝は胸の奥で小さく身構える。

「美輝ちゃん、今日は終わったあと空いてる?」

相手の口調は軽いけれど、目は笑っていない。

美輝はやんわり断ろうとするが、途中で言葉を遮られてしまう。

「大丈夫だって。俺が送るから」

彼の厚意を装った口調に、嫌な寒気が背筋を伝う。

休憩に入った美輝は、ロッカーを開けてスマホを取り出す。

画面には母親からの長いメッセージが並んでいた。

今月の請求がさらに増えたらしい。

「あぁ…どうしよう」

思わず声を漏らし、ホットパックを貼った腰のあたりを押さえる。

PMSの痛みがじわりと増してきそうだ。

店に戻ろうとした瞬間、脳裏に父親の姿がちらつく。

数年前に絶縁したはずなのに、いまだに身体が硬直する感覚は残っている。

客の強引な視線が、あの頃の暴力を思い出させるからかもしれない。

呼吸を整えてホールへ出ようとするが、気持ちが落ち着かない。

同僚が心配そうに声をかけてくる。

「顔色悪いよ。大丈夫?」

美輝は曖昧に笑ってみせるしかない。

「ちょっと疲れがたまってるだけだから」

そう言いつつ、ゆっくりカウンターへ足を運んだ。

仕事が終わる頃、美輝はほとんど頭痛と腰痛で動きがぎこちなくなっていた。

しかも、例の常連客がカウンター越しにまだ粘っている。

「美輝ちゃん、今日は必ず一緒に飲みに行こうね」

無視するわけにはいかず、美輝はなるべく穏やかな声を絞り出す。

「ごめんなさい…私、明日も朝から用事があって…」

言葉を続けようとした瞬間、彼の手がカウンターを握りしめるのが見えた。

嫌な緊張感に襲われたとき、店長がさりげなく間に入ってくれた。

「本日はもう閉店時間ですので…」

美輝は店長に小さく頭を下げ、慌てて自分の荷物をまとめる。

恐怖が全身を固めているようで、客に背を向けるまでに少し勇気がいった。

深夜、マンションに帰り着いた美輝は、シャイニングTシャツを脱ぎ捨てるようにハンガーに掛けた。

スマホに目をやると、母親からまた「ごめん」というメッセージが届いている。

母親の買い物依存が止まらないなら、借金は増え続けるだろう。

そして、自分が働いて返さなきゃと考えるだけで息が詰まる。

布団に潜り込もうとしても、先ほどの常連客の顔と父親の暴力的な影がちらついて眠れない。

「どうして、こんなに苦しいんだろう…」

美輝は枕を抱きしめながら、ネイリストになるための専門学校のパンフレットをそっと取り出す。

これを叶えなければ、いつまでも闇の中にいるような気がした。

目を閉じると、うつ伏せにかがみこんだ自分の姿が思い浮かぶ。

体調も精神もギリギリかもしれない。

けれど、ここで折れてしまわないように、小さく拳を握る。

「頑張らなきゃ…」

その言葉をかすれた声でつぶやくたびに、胸の奥から痛みと希望が入り混じった感覚がこみ上げてきた。

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