FtW
保坂星耀
FtW
自分が嫌いだ。昔から大嫌いだった。
胸の左右にある膨らみも、毛以外なにも生えていない股間も、無駄にやわらかい奥の割れ目も、毎月一回そこから垂れ落ちるものも、なにもかもが嫌いだ。
化粧をしなければいけないのが嫌いだ。毛を剃らねばならないのが嫌いだ。制服だなんだとことあるごとにスカートを履かされる。大嫌いだ。痩せてなければ人でないように言われるのが嫌いだ。子ども、そろそろ産まないとでしょなんて囁かれると、腹立たしいを通り越して相手を絞め殺したくなる。なのに、笑顔でいなければいけないのも嫌いだ。少し強く言っただけでヒスを起こしたみたいな目で見られる。嫌いだ嫌いだ嫌いだ。大っ嫌いだ。
自分が女であること、そうと見られること、扱われること、全部が嫌いだ。
なのに、と菜々子はチョコレートの箱がいっぱいに詰まった紙袋を睨みつけた。バレンタインデーにはこうしてきちんと準備をしている、そんな自分に吐き気すら覚える。
今年のバレンタインは水曜だ。
朝七時に出社して、現場へ車で移動して九時に作業開始、午後三時頃に作業終わり、そこから社へ戻って事務仕事を片付けて終業は午後五時。一番近いデパートまでは会社から一時間なので、平日にチョコレートを買うことは可能ではある。
だが、一日中パイプを外したり錆の浮いたバルブを開け閉めしたりで、全身は冬でも汗まみれ、爪には土だか埃だかわからないものがびっちり詰まって洗っても洗っても落ちない――そんな体を引きずっていく気には到底なれなかった。ましてやそこまで頑張る理由が見当たらない。そんなこんなで今年も休日を利用して、同じことを考えている女性たちと押しつ押されつしながらどうでもいい小箱を買い集めることになった。
本当に、心底どうでもいい。
心の中で吐き捨てて、菜々子はロッカーから紙袋を引っ張り出した。二階建ての事務所は一階が経理や事務の作業場と社員全員の荷物置き場、二階が作業員たちの詰め所になっている。荒々しくなりそうな足取りを苦労して軽いものにしながら階段を登っていくと、そこには普段なら階段を登ることすら嫌がる重松さんがいた。去年の一月に入ったばかりの事務の新人である――新人といっても亭主も子どももいる三十代後半ではあるが。
「ねえ、今年はなんにした?」
重松さんが話しかけてきたので菜々子はちらりとその背後を見た。既に数班が戻ってきている詰め所には男性社員が何人もいて、書き物をしたり談笑をしたりしていた。
「メリーです」
菜々子がちょっと紙袋を広げながら言うと、重松さんは露骨に嫌な笑みを浮かべた。
「また? 去年もそれだったじゃない」
高い声が詰め所に響き渡っている。数人の社員がこちらを気にするように振り返っているのが見えて菜々子は声を潜めた。
「あんまり高いのだと気を遣わせちゃうかと思いまして」
「私はねえ、ピエールマルコリーニ。見て見て! 今年の箱、可愛いの!」
「わあ! ほんと! 可愛いですね!」
必死に高く声を張ったが、はたしてそう聞こえただろうか。様子を伺う菜々子など目に入っていないかのように――事実、目に入っていないのだろう。自慢できる相手、しかも女でさえあればそれでいいに違いない――重松さんは男性社員からデカいと常々噂されている胸を張った。
「ここ、社員多いじゃない? 人数分買うだけでも大変でさあ。社長のなんか一万越えだったし」
「すご~い! じゃあ、お返しは期待ですね」と調子をくれると、重松さんはそれで満足したように手を振りながら階段を降りていった。
貼り付けていた笑顔をごっそり顔面から落としながら菜々子はそれを見送り、馬鹿じゃないのか、と内心で言った。ここの男たちときたら、チョコレートはもらって当然、美味けりゃ満足の博覧会である。かてて加えてお返しで見栄を張るのは社長とその息子たちくらい、気を遣ってくれる人もいることにはいるが、基本はその辺のスーパーで調達したものをぽいとよこすだけだ。中にはお返しという文化を知らないおっさんまでいるのに、ご苦労なことである。
ひとつ息をついてから笑顔を浮かべ直し、菜々子は振り返った。事務の女性社員ならともかく、作業員の菜々子なんかにチョコレートを配られて喜ぶ社員なんていない。ぽいぽいと目につく端から小箱を配って、まだ帰社していない人の分は事務机の一角に山積みにし、メモを書いて貼っておいた。
「やあ、もうそんな時期だったんだね」
振り返るとまた一班が帰ってきたらしい。班長のヤマさんが四角い帽子を脱ぎながら菜々子が作った山を見ていた。
「お疲れさまです。これ、どうぞ」
山から一箱取って渡すとヤマさんはもともと細い目をさらに細めて笑った。
「これこれ。毎年これが楽しみでさあ」
「いやあ、そんなたいしたものでは」
「だからいいんだよ。チョコレートはこいつが一番美味いんだ。正直さ」とヤマさんは声を潜めた。「事務の若い子たちがくれるやつって、見た目は綺麗だけど美味いんだか不味いんだかよくわかんなくて。ここだけの話にしてくれよ」
菜々子は思わず吹き出しかけ、必死に飲み下した。そりゃそうだ。男性作業員たちの好物といったら家系ラーメン、カレー、ハンバーグ、ステーキ、どんぶり飯――間違っても海鮮の類ではない、がっつり豚丼か牛丼の大盛りである。パスタを食べたいと言ったら大盛り太麺低価格がウリのミートソーススパゲティの店を案内するような男どもが喜ぶのは、一粒いくらの質ではなく一袋いくらの量であろう。
「そんで、お返しはなにがいい?」
お返しに気を遣ってくれる一派のひとりであるヤマさんは、メモ帳を取り出しながらそう尋ねてきた。無論、菜々子がそう尋ねられてディオールのイヤリングなんて言わないことを承知の上での質問だ。
「そうですねえ。ニジマス食べたいです」
ヤマさんがよく釣り堀に行くと言っていたのを思い出して菜々子は答えた。時々、お裾分けを持って出社してくるくらいだ。これならば迷惑にならないだろう。
「じゃあ、今度釣ってくるよ。ホワイトデーより前でも構わない?」
「後でもいいですよ。楽しみにしてます」
そう言って菜々子は詰め所をあとにした。足早に階段を降り、菜々子専用となっている女子ロッカールームに閉じこもる。
今年もお勤めが終わった、そう思うと涙がにじんできた。いったい自分はどうしてこんなことをしているのだろう。女じゃないのにチョコレートを配って、女じゃないのにヘラヘラ笑って、馬鹿みたいだ。
そう思うのにチョコレートをあげないという選択をすることもできない。
戸籍上の菜々子は女で、会社に提出した履歴書にも作業員の届け出にも女の方に丸印がついている。誰も菜々子が女じゃないなんて思ってない。
その証拠に聞いたことがある。あいつがいると気を遣うんだよな、エロ話とかできねえし。
誰が話していたのかは忘れた。男性作業員と同等の働きができるように頑張ってきて、男だとは思われてないにしろ、性別なんて関係ないと思ってくれてるだろうと信じかけていた頃だった。経理や事務の女性社員よりぞんざいな扱いを受けている自覚はあって、だからこそ、その会話は衝撃だった。
自分は女だと思われていないのではなかった。格下の女、ちやほやする必要がない女、股を開いてほしいとは思わない女、そうと思われているだけだったのだ。
泣いたら化粧が崩れてしまう、と菜々子は上を向いた。
いっそ胸を張って女を捨てられたらいいのにと思う。なのに、それは怖い。チョコレートを配らなければ陰口を叩かれるかも、いつも笑ってバカや失礼を許してあげてないと舌打ちされるかも、そう思うとテンプレート通りの女らしさの上を歩かずにはいられない。私は女じゃないのにとあとで後悔するとわかっていても、どうしてもやめらずにいる。
終業の鐘が聞こえてきて、のろのろと菜々子はロッカールームを出た。早く今日の作業内容をまとめないと。残業なんかして仕事ができない女、そう思われるのだけは嫌だった。
* * *
株式会社フジタでは水系消防設備の設計、施工、保守を請け負っている。
水系消防設備とは、天井のスプリンクラーや廊下なんかに置かれている消火栓などのことで、要するに水で火を消し止める為の設備だ。天井から突然水が溢れてきただの配水管が凍結して破裂しただのの対応で、時と季節によっては忙しくなることもあるが、基本的には消防法で定められている点検が主な業務なので、定時出社定時上がりができないことのほうが珍しい。
そして本日はといえば、その珍しい方だった。点検作業を終えて一息ついていた菜々子たちの班のところに、工事を割り当てられていた班から応援要請があったのだ。
ある薬局がビルから退去することになって復旧工事をすることになった。ところがそのビル、法律で半年に一回と定められている点検を二年も放置していた上、別の設備会社に工事が必要と指摘されていたのを、はいはいとやり過ごしていたのだから驚き――というほどでもない。
消防設備は設置にも保守にも大変な金がかかる。点検時に指摘したことが次の点検時に直っているのは優秀も優秀、一年や二年の現状維持なんてのはよくある話だ。
指摘されたなら直せよ、と常人なら思うだろうが、残念ながら設備会社それ自体は強制力を持たないんだから仕方がない。設備会社はあくまで点検結果を書類にまとめてお客様に渡すまでが仕事なのだ。
じゃあ、力を持っているのは誰なのかというと消防である。点検結果を持ったお客様が消防署へ行き、問題箇所があれば指摘されたり指導されたりする。そこではい直しますとなれば世はもっと安全なのだろうが、そうはいかないのが常だ。問題は、つまり金である。そして、消防は指摘指導はしても金を出してくれない。そうなると消防署も無体は働きづらく――というふうに菜々子は先輩から教わっている。
もっとも、最近ではあまりに悪質な場合は公表するといった具合に対策されているようだが、それはさておき、問題は目の前の老朽化しまくっている配管である。
錆塗れの埃まみれ、カビまで堆積している配水管はちょっとやそっとでは動かなかった。いや、天井から吊られているだけなので揺するくらいはできるのだが、連結金具とガッチリ噛みあったままうん十年を過ごした配水管は簡単には回らないのだ。配水管はネジで連結金具と噛みあっているので、回らないことには話にならない。
薬局跡地のコンクリートがむき出しになった室内に散らばっている作業員同様、菜々子も脚立に登ってパイレン――パイプレンチのことである――を握りしめ、彼らとは違うことに顔を真っ赤にして唸っていた。
外れない。外れないのだ。どころかびくともしない。配水管は天井からの吊り具が左右に振れるに合わせてひたすらぶらぶら揺れているだけである。
先輩も後輩も脚立に登り、次々に配水管を外しては下で控える運搬係に渡している。菜々子がたったひとつの連結部でうんうん言っている間に作業がどんどん進んでいく。これでは自分がここに来た意味がないし、給料泥棒と言われたって仕方ない。焦って一番大きなパイレンを道具置き場から持ってきてみたが、やはり配水管は1ミリたりとも回らなかった。
「おい、貸せ」
額から目尻へと流れていく汗を拭いながら見ると、社長が不機嫌そうに右手を伸ばしていた。社長はとにかく現場仕事、特に工事が大好きで、御年八十歳ながら鼻歌交じりに脚立を上り下りしたり配水管を担いだりと、とにかく頑健な人だ。男気に溢れ、よく気がつき、朗らかで気前も良いので社員をはじめ、お客様からは頼りにされている。一方で扱いが難しいところがあって、意味不明な場面で爆発して怒鳴ることがあるので菜々子は密かに苦手としていた。
「すみません」と、菜々子は不格好に脚立から降りながら言った。狭い足場で踏みしめていた両足ががくがくしている。それでなくとも昼間の点検現場は大病院だった。朝っぱらから昼過ぎまで歩きまわったところにこれはきつすぎた。
社長は菜々子からパイレンを受け取るなりするすると脚立を登り、数秒の間はパイレンの柄を上げたり下げたり格闘していたが、ややもすると勘が働いたのか、ある角度でそれを構えてえいやと引き下ろした。またするすると脚立を降りてきて、社長は「ん」と言いながらパイレンを差し出してきた。
「ちょっと固かったな」
「すみません」
そう言うほかになく、菜々子は頭を下げた。社長は聞いているのかいないのか、菜々子の手にパイレンを押しつけるなり運搬の手伝いに行ってしまった。
自分でもぎこちないと思う動きで菜々子は脚立を登って配水管を回し始めた。あれだけ固かったのが嘘のように、時折きしみながらも配水管は回っていく。
私は男じゃない。これまでこの仕事をしながら何度も思ったことを、菜々子はまた胸の内で呟いた。
今日一日働いたのはみんな一緒なのに、息切れをしているのは自分だけだった。視界の端で運搬係が配水管を何本か束にして運んでいる。同じことをすれば菜々子ならよろけてしまうところを、彼の頭はただ歩様に併せて上下するのみだった。背後から聞こえる金属音が、呼吸を合わせた声が、菜々子を責め立てている。八十才の老人にだってできることが、菜々子にはどうしてもできなかった。
努力をしなかったわけではもちろんない。株式会社フジタに入社した時、菜々子は電工ドラムひとつ運ぶだけで息切れするほど体力も筋力もなかった。新入社員の給料ではジムに通うことは難しかったので、ネットに上がっている動画を見ながら筋トレをした。ウォーキングを始め、徐々に走れるようになって、ランニングもするようになった。やがて、一日二万歩を歩いてもへばらなくなり、継手で満杯になったカゴも、コンクリ塊がみっしり詰まった麻袋だって運べるようになった。
けれども、ほかの作業員と同じには――男とまったく同じにはなれなかった。
工事用ではない、けれども1キロはあるパイレンをいつも腰にぶら下げていなければならなかった。そうでなければ開けられないバルブがたくさんあったからだ。そのたびに誰かを呼ぶなんてこと、当然できやしない。そのほかの工具だって、誰より多く持ち運ばなければならなかった。開けられないネジがあった。動かない個所があった。押せないパッキンがあった。そんなことばかりだった。
新人はすぐに菜々子の上を行ってしまう。先輩なんて言うまでもない。その力を見るたびに菜々子は思い知らされた。自分は女でしかない。だけど、女じゃない。でも、男でもない。
じゃあ、といつも菜々子は思うのだ。いったい自分はなんなんだろう。
* * *
ようやく家に帰り着いた頃には時計は十一時を指していた。早く風呂に入ってごはんを食べて寝なくては。そう思うのに、気付いた時には玄関に座り込んでいた。
『私』は誰なのか。それを考えるようになったのは小学校に上がった頃だ。
幼稚園の時はまだ心から信じていられた。いつか自分にもおちんちんが生えてきて、男子のようになれるのだと。そんな考えに変化が兆したのは、今でもハッキリ覚えている、書道教室での出来事がきっかけだった。
菜々子が通っていたその教室は地域の集会所を借りて開かれており、小さなストーブのほかには冷暖房設備はまるでなかった。なのにその日は真夏日で、クーラーがない教室は地獄の様相を呈していた。集中しようと思っても額から噴き出した汗が目に染みて、その痛さといったら目を開けていることなんてとてもできない。目を擦ろうにも両手は墨だらけである。そうこうしているうちにぽたりぽたりと汗が半紙に落ちて、せっかく書いた字を書く端から乱していった。
窓という窓、扉という扉は開け放たれていたものの風が死んでいたので意味はなく、蝉の声ばかりが無闇に響いて耳に痛い午後だった。教室に集まった子供たちの半数以上はだれていて、菜々子もやる気を失っていた。
そんな生徒たちを見てだろう、先生がアイスを買ってくるように手近な子に言った。わーいと誰かが言い、また誰かがアイスアイスと連呼した。そのうち、喜びが最高潮になったのか、ある男子がランニングシャツをぽいと脱いだ。何人かの男子がそれに続いてシャツを脱ぎ、アイスを買いに行く子を追いかけて走りだした。菜々子は同じようにTシャツを脱ごうとした。
その時だった。「菜々子ちゃん!」と先生が叫んだのだ。
びっくりして菜々子が固まっていると、それは駄目だと先生は言った。わけがわからなかった。どうしてあの子たちは良くて自分は駄目なのか。質問をぶつけると先生は答えた。
「あなたは女の子でしょ」
ふと教室の中を見渡せば、女子たちが異質なものを見るように菜々子を見ていた。まるで同じ人間ではない、と言っているように彼女らの目は冷えきっていて、その日からしばらくして菜々子は書道教室を辞めた。女子から無視されるようになったからだ。
それから幾年もせず、さらなる変化はやってきた。同じクラスの女子たちが匂い付きの小瓶を見せ合って、中身を交換しあっていた。同じ頃、菜々子は男子と廃マンションを探検したり手打ち野球したりするのが楽しくて、その意味を深く理解しようとはしなかった。そうしている間に小瓶はぷっくり膨らんだシールになり、ピンク色のサイン帳になり、鏡付きのエチケットブラシやリップクリームになった。
その頃には菜々子はハッキリと悟っていた。あの子たちと自分は違う。
けれども、男子たちにも変化は訪れていた。彼らは菜々子を家に上げなくなり、一緒に遊ぶのすら避けるようになった。この子たちも自分とは違う、菜々子は悟らざるをえなかった。
では、自分は誰と同じなのか。探し求めていた答えが見つかったのは、ネットという世界に親しんでしばらくした頃だった。菜々子が小さい頃はオカマやオナベと言われていた人たちに違う名前がつき始めた。性同一性障害なるものがテレビドラマに取り入れられ、それはやがてMtFやFtMという名称に代わっていった。いや、変わったのかどうか、菜々子にはわからない。その過渡期に菜々子はすっかりやる気を失っていたからだ。
自分は女ではないと思った。彼女たちの好むところを菜々子は好まなかったし、面白いと思うらしい話が面白くなかった。かといって、男たちの輪にも入れなかった。そもそも仲間に入れてもらえないのもそうだが、彼らの話す内容が下世話に過ぎて、菜々子の方でも彼らを避けるようになっていた。
「お前は男じゃねえだろ」
信頼している男友達に悩みを打ち明けた時、そう言われた。彼は直後にAVの画像を見せてきて、菜々子が顔を背けると「ほらな!」とどこか嬉しそうに言った。
「そもそもさ、本気で男になりたいんなら手術するんじゃないの? なんでしないの? すごい金がかかるから? だったら、体売ったらいいじゃん。お前、体は女なんだからさ、すぐに稼げるベ」
「いや、だからさ。女として扱われたくないわけ。女として接客して? セックスもしろって? そんなことされたら私、きっと相手を殺すと思う」
「ほら見ろ」
その時の彼の顔といったら、鬼の首を取ったようとはこういうことと言わんばかりに誇らしげで嬉しげだった。
「その程度しか本気じゃないんだよ!」
玄関にへたり込んだまま、菜々子は改めて彼に違うと呟いた。本気じゃないわけない。本気じゃなかったら、こんなふうに何十年も悩んだりしない。
男女の恋愛劇を見るとどっちの気持ちになればいいのかわからなくて、集中できなくて、それでみつけたのがBLだった。BLは女性向けのコンテンツで、それを好む人を腐女子というらしい。けれども、彼女らと交流してみて、この人たちも自分とは違うと思った。菜々子が交流した腐女子たちはいわゆる受け――女性側の役割を担う男性に自らを重ねているようだった。菜々子は違った。男性側の役割を担う男性に自分を重ねて、こんな男の子を愛してみたいと思った。
じゃあ、女じゃない自分はなんなのか。男の同性愛者――ゲイなのか。
自分でもよくわからなくなってしまって、それで菜々子は全てを諦めたのだった。株式会社フジタに転職したのはその頃のことだ。少なくとも女を求められる仕事から離れられるに違いないと思って作業員を希望し、そして、毎日のように男ではないことをつきつけられた。
FtXというものがあるらしい、という噂が聞こえてきたのは最近のことだ。男でもなく女でもない人たちや未だ性別の区分けの上で悩んでいる人たちをそう呼ぶらしい。だけど、もう菜々子は自ら情報を得ようとは思わなかった。その人たちとも違ったら、自分はどうしたらいいのだろう。
性的指向、性的嗜好――もうどちらだっていい。だって、とても疲れてしまっていた。
ぼんやりと靴箱に頭を預けながらスマホを取り出し、菜々子はともちゃんにメッセージを打った。ともちゃんは大学時代からの友達で、唯一、菜々子の話すことを受け止めてくれる人だった。なにか答えを示してくれるわけではない。ただ黙って、菜々子の話を聞きながらビールを傾けてくれてるような、そんな大切な友達だ。
「私もう頑張れないかも」
そうメッセージに打ち込んで菜々子は笑った。自分でも自分を面倒くさいやつだなと思った。いつかともちゃんにも見限られるだろうか。そしたら自分はどうするだろう。たったひとり、誰もいない部屋に向かって恨み言を垂れるのだろうか。
「どしたー」と、ともちゃんが反応してくれたので、菜々子は思いの丈をメッセージにぶつけた。自分でもどうかしてると思いながら、それでも止まらなかった。
既読はすぐについたが返事はなかなか来なかった。やがてぐるぐると入力中の表示が点灯し始めたが、それはすぐに消えた。また点灯する。また消える。十五分以上が過ぎた頃、ようやくともちゃんの言葉が表示された。
「ペット飼ったら?」
「えっと。どういう意味?」
「ペットはいいよ。人間がどんなでも気にしないし」
「ともちゃんはトイプー飼ってたよね」
「そうそう。生理の時さ、股間ペロペロしてくんの。やめろってーの」
「そうなんだ……」
「ペット、マジでおすすめだよ。ナナの場合、猫がいーんじゃない?」
「私、犬派なんだけど」
「ペットはさー、人間を愛してくれるんだよね」
愛する、その言葉が妙に心に刺さった。ともちゃんのメッセージは続いている。
「男とか女とか関係ないの。ばくち打ちの煙草のみの酒飲みだって、お世話してくれるならいい人間なの」
「それって都合のいい人間じゃなくて?」
「いいじゃん。都合がよくても。だって、無条件だよ。餌やって水やってうんち片付けて、犬なら散歩もいるけど、たったそんだけで百パー愛してくれるなんてある?」
「人間ならそれはヒモだね」
「ヒモなら働けだけど、ペットは寝て食べて愛して愛されるのが仕事だから」
「なるほど」
「あと、ヒモは愛してくれるとは限らない。都合のいい財布か、都合のいい女か。おおかたはそのどっちかっしょ。つーか、愛してくれてもヒモはないわ。無理」
私も無理かな、と返信を打った。即座に追撃がともちゃんから飛んできた。ペットいいよ、ペットおすすめだよ、ナナならこんな子はどう、この子可愛いと思わない。
靴箱に頭をもたせかけたまま、菜々子はドアを見つめて思った。明日、仕事が終わったらペットショップに行ってみようかな。作業着が汗臭くても、爪が黒く汚れていても、私が女でも男でも、男を愛してるのでも女を愛してるのでも、愛してくれる子がいればいいんだけど。
想像はそのままぼんやりと拡がっていき、そのあまりの馬鹿らしさに菜々子は笑ってしまった。そうしてペットショップに行ったら、同じ動物好きの男に出会えたりして、なんて。まるで少女漫画じゃないか。
「少女漫画、ほとんど読んだことないけど」
言いながらようやく立ち上がる。ともちゃんに返事を打っているとポロリと涙がこぼれてきた。そうか、と思ったのだ。私は『私』を愛してくれる人に出会いたかったのだ。たとえ『私』がなんであろうと、そんなことは気にせず愛してくれる唯一の存在、それが私の望みだったのだ。
こんな動機が許されるだろうか。こんな動機でひとつの命を預かっていいのだろうか。
新たな悩みが胸の内に湧き上がったが、それはそのままに菜々子は思った。
絶対に裏切らない。あなたが猫でも犬でも鳥でも、ほかのなんだっていい。どんな姿をしていても、どんなことがあってもあなたのことを愛します。愛し抜くと誓います。ですから、これだけは約束してくれますか。『私』がどんな姿をしていても赦してほしい。愛してほしい。そうしたら、それ以上の愛をあなたに捧げるから。どうか、どうか。お願いします。
きっと一生涯かたちの定まらない『私』をどうか愛してください。
FtW 保坂星耀 @hsk_starlight
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます