闇から来たのは

 江戸の街はすっかり暗黒に包まれていた。お天道様は身を隠し、その代わりに、真ん丸のお月様が漆黒の闇夜にポツンと光り輝いていた。鳥の鳴き声は鳴りを潜めて、川の水が流れる心地の良い音がしていた。


 当時の江戸というのは、一体に水路が引かれており、代表的なものを挙げれば、現代では花火で有名な隅田川、日本橋川、神田川、大川など、その数実に、約118箇所は下らないとされている。


それもそのはず、当時の江戸の街というのは、人口の数は100万人超という、世界的に見てもトップクラスだったのである。それほどの数の人間が生きるためには、並大抵の量の水路ではまともに生活できるわけもなく、その結果、このような

膨大な水路が引かれることとなったのである。


 そして生活物資を輸送する川や、堀沿いの陸地の河岸では市場が積極的に行われており、代表的な例を挙げると、日本橋地域や、蔵が置かれていた本所、深川地域を中心に七十ヶ所もあったとされている。


 そしてそのうちの一つ、隅田川は浅草茅町河岸、そのすぐ近くにある両国橋に、ある一人の男が歩いていた。


 その男の身なりは、上に黒い着物を身につけ、袴を着用しており、そして腰には大刀を一本差していた。髪型は総髪で、目はどんぐりのように小さく、鼻は異様に大きくて、先端が丸い。目は虚になっており、誰が見ても


「普通の人間ではない」


 ことは、明白であった。


 この男、名を松田源十郎と言い、かつてとある大名のもとで家臣として仕えており、公務の態度も真面目で、特に目立った言動もないため、

周りからは「至って真面目な男」として見られていた。


 しかしそれは「表向き」である。


 実際の彼には、隠れた異常な

「欲望」があったのである。

それが


「人を斬る」


という欲望であった。


 その欲望にはとても逆らうことができず、夜な夜なほっかむりを着用し、まるで彼のどす黒くて暗い負の感情を表すように真っ黒な着物を身につけて、夜な夜な街に繰り出していた。


 そして道端に寝ている、いくところもない物乞いや、夜鷹、提灯を持って帰路に着く町人など、力のないものを狙っては


「次々に斬り捨てていった、、、」


 のである。


 しかも卑怯なことに、いかにも腕の立ちそうな浪人、または、襲ったはいいものの大声を出して抵抗されたり、なかなかの手慣れだった場合は、すぐさま刀を戻して、すたこらさっさと闇に消えていくもんで、奉行所が探しても犯人が見つからず、当時江戸の街には明かりがほとんどなかったものだから、顔も見えず、そして松田は、表向きは真面目を装っていたので、疑われることはまずなく、捜索は難航していた。


 しかしある日、松田にとって初めてのことが起きたのである。それは、いつものように松田が良さげな獲物を見つけ、後ろから気配を消して襲撃を仕掛けたのである。その仕掛けた相手というのが、江戸の浅草あたりで


 古ノ葉屋


 という料理屋を営む、


 元右衛門


 という名の男で、この日はとある用事があって、両国橋あたりを訪れていたのだ。

 松田はこの男に、いつものように辻斬りを仕掛けようとし、後ろから刀で襲撃をかけたのだが、


 この男、元右衛門、なかなか、いや、かなり腕の立つ男だったのである。元右衛門はまるで来ることがわかっていたかのように、松田の袈裟斬りを交わし、持っていた提灯を顔に投げつけ、それに怯んで刀を落としたところに、みぞおちに拳を叩き込んだのである。


 それに怯んだと同時に、辻斬りを仕掛けてきて初めて反撃されたことから、


「死への恐怖」


 という感情が生まれ、一目散に走り去っていったのである。



 しかし、この時に松田は、致命的なミスをしてしまったのである。というのも、松田が逃げようとしていた時、一足先に元右衛門が投げていた提灯を取り直していたのである。その際に元右衛門に顔を見られてしまったのである。


 しかし、問題はそこではない。むしろ松田からしたら、少し強いが、普通の町人に顔を見られたぐらいにしか思っていなかっただろう。しかしこの元右衛門は、「普通の町人」ではなかったのである。


 このことで奉行所に足がつくことを恐れた松田は、脱藩して浪人となったのだが、それでも人を斬る欲求は捨てきれず、未だに辻斬りを続けているのである。


 最初に戻ろう。松田は今夜も、獲物を求めて隅田川あたりを徘徊していた。その目にはまるで獣のような白い光を灯していた。


 ふと前を見る。


 その前から、一人の男が、提灯も持たずに歩いてきていた。


 その男を見た時、松田は思わず息を呑んだ。


 別に格好が異形とかだったわけではない。むしろ見た目は、そこら辺にいる町人と大差なかった。

 抹茶の着物の上から黄色の袖なし羽織という格好だったのである。


 ただ一つ、腰に大小の刀を差していたことを別にすればの話だが。


 しかし、特筆するべきはそこではない。


 その男から放つ殺気が、尋常ではなかったのである。


 その殺気は、一般人では近くによるだけでその気に押しつぶされて圧死しそうなほどで、並大抵な武士でも到底耐えきれないものであった。


 その男を見た瞬間、松田は


「この男には、手出しをしてはならん、、、!」


 と思い、急ぎ足で男の横を通り過ぎようとした


 その時だった。


 それは、一瞬の出来事だった。

 突如、その町人風の男が、大刀を引き抜いて、松田に横一閃したのである。


 不意打ちを喰らった松田は、慌てて刀を引き抜いて反撃しようとするも、

 その隙を与えず、素早く逆袈裟を喰らわす。

 松田の体から、赤い鮮血が飛び出した。

 松田の体は刀を掴んだまま、膝をついて仰向けに倒れた。



 町人風の男、、、いや、榎本孝衛門は、大刀を鞘に納めると、その絶対零度のように冷たく、光のない目で、松田の体を見つめる。

 そしてそのまま、江戸の闇に消えていった。


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