大物
すっかり睦月(一月)の
正月を満喫していた。家族でおせちを囲む家もあれば、初詣に神社へ出かけ、一年の幸せを願うもの、顔を墨だらけにしながら羽根つきをする子どもたち、絵に描いたような平和が、龍砦長屋のみならず、江戸中に広がっていた。
榎本孝衛門も、その中の一人であった。こたつに入ってぬくぬくし、お餅を伸ばしながら汁粉を食べている。餅は最初こそ孝衛門の手中の中に収まっていたが、どんどん伸びていき、やがて孝衛門も背筋を精一杯伸ばさずを得なくなっていた。あまりにも長く伸びるので孝衛門も困り眉をした。
「んんっ、、、。」
思わず呻き声をあげる。餅はやっとちぎれ、孝衛門は顔を上に上げ、咀嚼した上で飲み込んだ。
今の彼は一人だが、普段であれば、親友である銀兵ヱ、滝吾郎と一緒におせちや雑煮を食ったりしているのだが、今年の彼らは違う。今、滝吾郎と銀兵ヱは二人揃って初詣に出かけており、三人組の中で今現在長屋に残っているのは、孝衛門一人だけである。これは別に二人が孝衛門を除け者にしたわけではない。
というのも、彼は正月早々仕事を頼まれたのだ。しかしそれは町医者としての仕事ではなく、
また別の仕事である。
だから彼はこうして、汁粉を食べながら、使者を待っているのだ。
(もうそろそろ来ても、おかしくねえな、、、)
今や榎本孝衛門は汁粉の餅を全て食べきり、残された汁を飲み干す段階に移っていた。ちょうど汁を全部飲み切るかというその時、外に気配を感じた。それに殺気はないものの、ほとんど気配を消している。
しかし僅かな気配を、孝衛門は感じとっていたのだ。
(きたか、、、)
孝衛門が半目で汁を飲みながら戸の方を見る。
やがて戸を、三度叩く音がした。
孝衛門は器を置いて、戸の前に行くと、そのまま開けずに、低い声で言った。
「戸を開けんでもいい。名前を言った後、要件を言え。」
孝衛門がそういうと、戸の前の気配は、声低く話した。
「へい、古ノ葉屋の使いのもんでござんす。旦那様が、おいで願いたいと、、、」
孝衛門はそれを聞くと、目を閉じて、深いため息を漏らす。そして、
「承知した。すぐに向かおう。」
孝衛門は重い腰を上げた。
孝衛門は使者についていき、長屋を抜けて、やがて古ノ葉屋という料理屋に辿り着く。料亭ほど大きく、高級なものではなく、少し大きな飲み屋程度だったが、なりが整えられていて清潔感があった。
その中に入ると、店の奥に案内される。中も外と同じく綺麗に掃除されており、埃一つ落ちていない。
厨房の中に入っていくと、やがて一番奥に暖簾が見える。
その暖簾は、さっきの使者を送った男が普段住んでいる住居につながっていた。
暖簾をぬけると、こっちに背を向けて、一人の男があぐらをかいて座っていた。がたいがよく、
本をめくる音がする。
男は気配に気づくと、こっちを向いて、その大きな体を向けた。
鼻は大きくて、先が丸いが、鼻筋は通っている。目は二重で大きくもなく、小さくもない。髪型は町人髷で、顔の皺がだいぶ深くなっている。いかにも初老の男という雰囲気だった。
その目が孝衛門を捉えると、赤くて薄い口がニコッと笑った。
「やあ孝衛門さん。よくぞおいでなすった。」
孝衛門は最初こそ立っていたが、
「まあ、お座りなさい」
と促され、やがて正座で座った。普段は猫背の彼だが、この時は背筋を伸ばしていた。
初老の男ー元右衛門は正座をしながら、目にかけていた眼鏡を外した。さっきまで大きかった目が、急に小さく見えた。
「早速本題に移りたいところだが、、、まぁ、まずは新しい年が始まったということで、一つご挨拶をしておこう。」
元右衛門はそういうと、孝衛門に向かって頭を下げた。孝衛門は一切動じず、神妙な顔でそれを見つめていた。
「元さん、御託はいい。早いところ本題に移ってはくれんかね?」
孝衛門は表情を一切変えず、口だけを動かして、静かに言った。その姿は、親友二人の前でおちゃらけてみせ、のんびりしている彼からはとても想像できぬ。
元右衛門はそう言われると、やがて目を閉じて、下を向いて頷きながら、後ろ頭を掻いた。
「ふ、ふふふ、、、せっかちなお人ですなあ。だがそれが、孝衛門さんの良いところじゃ。」
元右衛門はのんびり、ゆっくりと言った。
孝衛門はそれにも反応せず、表情を変えずに元右衛門を見つめていた。
「、、、まあよい。早速本題に移ろう」
元右衛門はそういうと、さっきの笑顔から一転、目から光はなくなり、冷たく、慈悲を感じさせない顔で、
そして冷徹な声で言った。
「、、、鬼畜をまた一人、斬ってもらいたいのだ」
それを聞いた孝衛門は一切動揺せず、代わりに、両目を瞑って、元右衛門から見て左斜め下を向き、髷をかいた。
「元さん。いくら仕事とはいえ、正月早々とはあきまへんなあ。」
「それについては本当に申し訳ないと思っておりまする。しかし、あやつのようなものを生かしておけば、ほんの僅かとはいえ、世の中が少しずつ腐っていくことになりましょうぞ。」
元右衛門はさっきの飄々とした様子からは全く想像できない、冷たくて感じの悪く、尋常ではない殺気を体中から放っていた。部屋の空気が重々しくなり、隅で見ていた使者は、思わず唾を飲んだ。
しかし孝衛門は、それに全く怯んでいなかった。
むしろ、「面倒くさい」とも言いたげな様子だった。
「お言葉だが元さん、わし一人だけということは、今度の仕事はそこまで面倒な仕事ではないのではないか?」
と孝衛門
「いうとおり、標的は一人。しかし相手はかなり手強い。何より山犬のような浪人でな。これのために何人の罪のない女子供、力のない者たちが死んでいったかわからぬ。」
元右衛門は頼んでもいないのに、標的がどのような者で、今までどんな悪行を重ねてきたのか話し始めた。
話を一通り聞いた孝衛門は、しばらく黙っていたが、やがて元右衛門の目を見て一言。姿勢は元の猫背に戻っている。
「いくら出るんでさ?」
元右衛門は、孝衛門から見て、右斜めを向いて、目を閉じて、口元を緩ませた。笑いを堪えているようだが、なおも凄まじい殺気は消えておらぬ。
「まあ、相手が相手だ。20両ってところか?」
それを聞いた孝衛門はしばらく考えてた。
(20両あれば、あいつらと、そこそこ豪勢なものが食えるなぁ、、、)
ふと、孝衛門はそう考えると。やがて顔をまた元右衛門の方に向き、一言言った。
「よろしい。やりますよ。」
そういうと、まるでさっきの殺気(ダジャレじゃないヨ)が嘘のように消え去り、元の好々爺に戻った。
「そうかあ、引き受けてくださるのかぁ。本当にありがたいことだ。」
元右衛門はフハハっと笑った。
「ではよろしくおねがいいたしますよ。金は仕事が済んだ後に、直接、、、」
「わかっておりますよ」
孝衛門は若干微笑んで言った。
やがて孝衛門は、古ノ葉屋から長屋へ帰り、自分の部屋にいた。
帰って早々、孝衛門は物入れの戸を開けると、あるものを取り出した。
それは、とても立派な、大小の刀であった。
孝衛門はあぐらをかいて座ると、また物入れから、今度は打粉うちこや拭い紙など、手入れ道具を引っ張り出した。
孝衛門は大刀の目釘を、目釘抜きを使って抜いた。そして、刀を鞘から抜く。
刀はまるで、つい最近まで使われていたかのように、鋼色に鈍く光っている。
やがて色々と工程が終わって、刀に打粉をかけ始める。
その時の孝衛門の目は、町医者の時のような優しい目ではなく、
元右衛門と同じ、冷酷な殺戮者の目をしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます