第2章 予兆

(1)

 翌日、午前中のうちに駅前の家電量販店でエアコンを購入した真尋と雛姫は、決済と配送手続を終えて店をあとにした。


「あーあ。ほんとに買っちゃったね」


 嬉しそうに言う雛姫に、真尋は頷いた。


「雛、このあとどうする?」

「んー、どうって?」

「足伸ばしついでに図書館にでも寄ってくか? 朝遅かったから、昼は帰りがけにでも食べていくことにしよう」

「うん、いいよ」


 ふたりは大雑把な予定を立てて、駅向こうにある公立図書館にのんびり足を向けた。

 長身の兄は、小柄な雛姫に合わせていつもゆったりと長い足を運ぶ。その歩きかたが、優しいキリンみたいでいいな、と雛姫はひそかに気に入っていた。


 4年に進級すると同時に学童通いをやめ、鍵っ子の生活へと切り替えた雛姫にとって、こうして兄とずっと一緒にいられる時間は、なににも代えがたい無上の喜びだった。真尋にもそれがよくわかっているのだろう。休みのときは必ず雛姫の希望を最優先にして、嫌な顔ひとつせず聞き入れてくれた。

 昨夜、自分はモテないと兄は言っていたが、そうではないだろうことぐらい、子供の雛姫でも充分察しがついた。

 学業とアルバイトの両立に加え、まだ幼かった雛姫の世話にも追われていた学生のころとは違い、現在の真尋は、不安定ながらも大学の専任講師としての職を得て、多少なりと金銭的にも時間的にもゆとりが持てるようになっている。真尋はそれでも、自分のことは二の次にして、雛姫との時間を無条件で優先させる傾向があった。

 真尋に恋人がいないのは、仕事が忙しいからではなく、そのためであろう。日頃の妹の寂しさを埋め合わせるため、他者の介入を意図的に避けているふしが真尋にはあった。

 雛姫にはそれが申し訳ない反面、大好きな兄を独占できることを、やはり嬉しく思わずにいられなかった。



「ねえ、ヒロ兄、今年は学会はないの?」

「ああ。夏休み中はないな。秋ぐちにひとつ、大きなやつが予定されているが」

「じゃあ、夏の出張はないんだね」

「そうだな。だから大学の行事抜きで、ふたりで旅行に行こう」

「ほんと?」

「9月まで、何日か研究室に顔を出さなきゃならないが、それ以外ならいつでもいい。雛が好きなように決めていいぞ。行きたいとこややってみたいこと、いろいろ考えておけ」

「うん! 図書館のガイドブックで調べてみるね」


 雛姫は顔を輝かせた。その反応に、真尋は表情をやわらげ、自分の胸の位置より下にある小さな頭を軽く叩いた。かぶっていた麦わら帽子の角度がそのせいで微妙にずれる。雛姫は、つばの位置を慎重になおすと真尋を見上げて、へへっと笑った。


「おう、雛姫ちゃん! 今日は兄さんとお出かけかい?」


 商店街を通りかかったとき、八百八のまえで大将が気さくに声をかけてきた。


「あ、おじさん。こんにちは。昨日はありがとうございました」


 立ち止まってぺこりと頭を下げる雛姫の横で、真尋も「いつもすみません」と丁寧に挨拶をする。大将は大照れに照れて、厳つい顔のまえで勢いよく手を振ってみせた。


「なあに、いってことよ。雛姫ちゃんはうちのお得意さんだからな。またいつでも寄ってってよ」

「はい」


 それじゃあと手を振って、雛姫はふたたび兄とともに歩き出した。


「昨日、おやつにマドレーヌもいただいちゃったんだよ。あとで一緒に食べようね」


 雛姫の言葉に、真尋は穏やかに頷いた。

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