第1章 夏休み

(1)

 御堂真尋みどうまひろが帰宅したのは、午後7時をまわってまもなくのことだった。


「ただいま」


 いつものように玄関口でドアを開けると同時に声をかけると、三和土たたきのすぐわきにある台所で洗い物をしていた妹が嬉しそうに顔を上げた。


「おかえりなさい、ヒロ兄」

「ああ、ただいま」


 真尋は靴を脱いで、夏物のジャケットと荷物を奥の和室の隅に置くと台所に戻った。わきにけた雛姫と入れ替わって石鹸で手と顔を洗う。それを見た雛姫が、心得た様子ですぐ後ろの冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


「もうご飯できてるよ」

「ああ。残りの片づけはあとで俺がやるから、先に飯にしよう」

「はぁい!」


 元気に返事をして、雛姫は冷えた缶ビールとグラスをふたつ持って和室に入っていった。真尋が冷蔵庫から作り置きの麦茶のガラス容器を出して後につづく。狭い6畳間の真ん中に据えられた小振りの食卓には、雛姫の手料理が所狭しと並べられていた。


「すごいな、今日は」

「うん。『1学期お疲れさま会』ってことで、ちょっとだけ豪華にしてみました」


 いつもの定位置に胡座あぐらをかいて座り、首にかけたタオルで汗を拭う兄にビールをぎながら、雛姫は得意げに胸を張った。グラスになみなみ注がれたビールを真尋はいったんテーブルに置いて、今度は雛姫のグラスに麦茶を注いでやる。そして、兄妹ふたりでささやかな乾杯をした。


「今日のメニューのコンセプトは『リストランテ雛姫へようこそ!』だよ。ヒロ兄の好きなマグロのカルパッチョと、トマトとモッツァレラ・チーズのイタリアン風サラダでしょ。カルパッチョのカイワレとサラダのバジルはベランダで雛姫が育てたやつなんだよ。あと、八百八のおじさんからほうれん草いただいたから、昨日の枝豆の残りと一緒に冷製スープにしてみたの。冷や奴とおひたしは『リストランテ』っぽくないけど、ご愛敬だよね?」


 自分のお茶碗に炊きたてのご飯をよそいながら説明する雛姫に、真尋は微笑して頷いた。


「充分店が開けるな」


 兄の言葉少なな讃辞に、雛姫は満足そうに笑った。


 網戸越しに窓から入ってくる夜風が風鈴を揺らし、涼しげな音色を奏でる。窓辺にぶら下げられたそれは、去年の夏祭りに真尋が雛姫に買ってやったものだった。表面に描かれた素朴な海の絵柄を眺め、真尋はグラスを呷った。咽喉のどを通る冷たいビールの感触と、汗ばんで湿ったシャツにあたる扇風機の冷風が心地よかった。



「いけない、忘れてた!」


 食事がひと段落したころ、雛姫が唐突に言って立ち上がった。なにごとかと目を瞠る真尋の横を身軽く通り過ぎ、なにやら茶色い大封筒を背後の本棚から取り出して真尋に差し出す。そして、すぐ横にちょこんと座った。


「今学期ぶんでございます。どうぞお納めくだされ」


 冗談めかして差し出されたそれは、1学期の通知票だった。仏壇代わりに本棚の上に飾られた両親の写真立てのまえに、学校から帰宅してすぐ、雛姫が自分で報告がてら供えておいたものだった。


「ヒロ兄、いっつもなんにも言わないんだもん。うっかり忘れちゃうとこだったじゃない」


 雛姫はそう言って口をとがらせた。


「俺がいちいち言わなくても、おまえはいつもちゃんとやってるからな」

「もうっ、張り合いがない!」

「保護者と子供のセリフがうちは逆だな」


 真尋は封筒から通知票を取り出しながら微苦笑を漏らした。


 両親が不慮の事故で早くに他界した御堂家では、雛姫が物心ついたときにはすでに、兄と妹のふたりの生活がはじまっていた。近くに頼れる親類もなく、幼い妹を抱えて苦労する兄を見て育ったせいか、少女は昔から手のかからない、聞き分けのいい子供だった。それどころか保育園に通うようになると率先して兄の手伝いをはじめ、小学校に入学するころには掃除や洗濯、簡単な食事の準備まで独りでできるようになっていた。

 勉強や宿題のことで真尋が口を出したことはこれまで一度もない。学生当時、生活のためにバイトに明け暮れていた兄を極力煩わせることのないようにと、雛姫が自分でルールを作って、忠実にそれを守っていたからだ。真尋が職を得たいまもそれは変わらない。自分ひとりではどうしても手に負えないことがあると頼ってくることもあるが、それも近頃では稀になっていた。


「1学期の体育はなんだったんだ?」


 身内の欲目だけでなく、実際、各科目、担任の総合評価など、文句なしの結果が記されている通知票を見ながら真尋は訊いた。途端に雛姫は憂鬱そうな顔になり、「跳び箱とポートボール。あと、ちょっとだけプールも」と答えた。

 なにごともそつなくこなせるできすぎの妹だが、唯一苦手とするのが運動全般だった。


「球技とか、道具使う運動って苦手なんだもん」

「ついでに走るのも泳ぐのも苦手だよな?」

「だって、走らなくたって生きていけるし、鮫じゃないんだから泳ぎつづけないと死んじゃうってこともないじゃない。普通に歩けてお風呂に入れれば充分だもん」

「そんなこと言って。2学期には運動会も持久走大会もあるんじゃないのか?」

「もうっ! これから夏休みがはじまるってときに、やなこと思い出させないでよぅ!」


 雛姫は顔を真っ赤にして、声もなく笑う兄の背中をポカンと叩いた。


「雛の運動音痴はヒロ兄譲りなんだからしょうがないじゃん」

「なに言ってる。俺はスポーツはひと通り平均以上にこなせるぞ」

「うそ! だって、根っからの屋内人間じゃない」

「民俗学なんて研究室にばかり籠もってる学問じゃないさ。いろいろ実査もある。第一、それと運動能力は別ものだろう? 俺は昔から運動は得意だったぞ」

「えー、ひとりだけそんなのずるいよ。ヒロ兄の裏切り者ォ!」


 本気で悔しがっている妹に、真尋は「どういう理屈だ」と苦笑した。


「雛が体育苦手なのって、お父さんに似たのかな。それともお母さん?」

「さあな。けど、どっちかには似たんだろう。いいじゃないか、ひとつくらい苦手なことがあったって」

「うーん……」

「いいから、後片付けして銭湯ふろに行くぞ」

「……はぁい」


 通知票を封筒にしまって両親の写真立てのまえに戻した真尋は、いまいちすっきりしない表情で立ち上がった雛姫の頭に手を置き、くしゃっと掻き交ぜた。


「今学期もよく頑張ったな」


 そのひと言で、雛姫の心を重く覆っていた曇天は、嘘のように明るく晴れていった。

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