第2話 大雪の帰り道

 お母さんが話すには大学の頃に、初めて付き合った人に振られた時に知り合った人が一番、いい思い出だったと言った。

「関西の男の子でね。なんか喋り方が可愛かった」

「可愛い?」

「無理して標準語を喋ろうとしておかしいくなるところとか」

「へぇ。どうして二人は別れたの?」

 少しお母さんの顔が変わった。私のお母さんじゃなくて、別の女性になった気がした。

「…すれ違い」と言って、ちょっと淋しそうに笑った。

「すれ違いって、スマホがなかったから?」

 お母さんは「そうね。スマホがあったら別れてなかったかもね」と言うから、今の時代でよかったと恋人もいないのに私はそう思った。

「さあ、早く食べてしまって。後片付けして、買い物行きたいから。冬服、まだ着れる?」と言う。

「うん。いける。今日は頑張って勉強するから」と私はおにぎりを口に入れて言う。


 結子ゆいこは娘がおにぎりを頬張っている姿を見て、胸が痛くなる。あんな痛みを娘もこれから経験するだろうか。


 光一郎こういちろうと出会ったのは大雪の日だった。大学からの帰り道を歩いていた。家を出るときから雪が降っていたのに、履いて来たおしゃれブーツは歩きにくかった。

 裕子は振られたばかりで全身から力が抜けて、俯いて歩く。何もかも初めての相手だった。自分のことを好きだと言ってくれたから、付き合った。正直、好きなのかよく分からないまま、でもなんとなく恋人という存在に浮かれていた。だから男の言葉を信じた自分も悪い、悪いとは思うけど、とぶつぶつと心の中で繰り返していた時、大雪で道路が凍っていて、滑ったのだった。

「立ち上がれない」

 恥ずかしさと痛みと情けなさでもうこのまま行き倒れたい、と思った。

「大丈夫?」

 不思議な柔らかいイントネーションに首を上げる。心配そうな顔をして覗き込む男子学生がいた。

「あ、はい」とは言ったものの、立ち上がられない。

 手を差し出されて、掴もうとして手を下す。

(ほっといてください)と心の中で呟いた時、体が浮いた。

「家、近くだから、タオルあるし」と抱き上げられて、言われた。

「ちょっと」

「歩かれへんねんやろ?」

 その言葉に驚いて目を大きくした。

「あ、歩けます」

「良かった」とにっこり笑って、下ろしてくれる。

 大学前の通りで、みんなに見られて恥ずかしくなる。

「タオル貸すから来て」と言われて、とりあえずここから離れたくて、着いて行くことにした。

 横道を入って、何度か曲がると小さなマンションがある。

「ここ」

「あ、ほんと、近いね」と結子はただの感想を述べた。

 エレベーターに乗ると窮屈に感じて、困ってしまう。

「俺、柳田光一郎」

「あ、私は佐田結子」

「何年生?」

「二年生」

「同じやん」

「…柳田君は…関西の人?」

「あ、やば。隠してたのに」と本気で慌てる。

「え? 全然隠せてないよ?」と結子が言うと、光一郎は肩を落として落ち込んでいた。

 その様子が少しおかしくて、結子は思わず笑ってしまった。

「あ、おかしい?」と光一郎がなぜか嬉しそうに笑う。

「うん?」

「笑い顔、可愛い」

 突然、そんなことを言われて、結子は固まってしまった。エレベーターが開いて、廊下すぐの部屋だった。

「あ、鍵開けとくから、心配せんといて」と光一郎が言う。

「ううん」

 さっきのことは聞き違いかなと思って、結子はコートを脱ぐ。

「濡れてるやろ? 暖房の下で乾かすわ。貸して」とハンガーにかけたコートをカーテンレールに引っ掛ける。

 大学生の一人暮らしらしい小さな部屋だ。

「あ、これ、タオル。何かあったかいん飲む?」

「…え? いいの?」

「体冷えたし」

 廊下に備え付けられている電気コンロに薬缶を乗せる。

「コーヒーしかないねんけど…いい?」

 結子は頷きながら、すっかり関西弁を隠さなくなった光一郎を見た。

「大学の構内ですっごい青い顔して歩いてたから、気になって。スーパー寄って帰ろうと思ってたら、こけたから」

「そ…そう?」

「具合悪いんやったら、休んでいったら?」

「え?」と結子は警戒する。

 男が言う休憩は休憩じゃない。前の彼だって、と思っていると、光一郎はベランダの曇ったガラス戸を手で拭いて、外の様子を見た。

「大雪やし…。多分、交通機関止まってるで」

「ええ? 嘘。駅まで行ってみる。だって」

「うん。まぁ、後でスーパー行くから一緒に行ってもええけど。止まってるんちゃうかなぁ」

 結子は大きくため息をついた。お湯が沸いたとインスタントコーヒーを淹れてくれる。

「はい。どうぞ。怪我とかしてない? 消毒液とかあるで?」

「あ、大丈夫。ありがとう」

「元気だしいな。きっと良い事あるで」と光一郎がコーヒーを飲みながら言う。

 結子がどうしてそんなことを言うのだろうと見つめると、渋い顔をして

「砂糖と牛乳入れていい? ちょっと格好つけてしもたけど…。こんなん飲まれへん」と言って、冷蔵庫から牛乳を取り出す。

「いる?」と言われて、結子もコップを差し出した。

「ありがとう」

「どういたしまして」と少し得意げに言う。

「…私、振られたの」と突然結子が告白したから、光一郎は牛乳を落としてしまう。

 床に広がる牛乳は大惨事を招いた。

「わー、牛乳臭くなるのに」と結子は必死で借りたタオルでカーペットを拭く。

「ごめん。そんなことさせて」と光一郎は来ていたパーカーを脱いで拭く。

「タオルは?」

「タオル…。それしかないねん」

「えぇ」と結子は驚いて、牛乳浸しになったタオルを握る。

 タオルがないのに、貸してくれた光一郎はパーカーで必死に床の牛乳を拭きとっている。おかしくなって、結子は笑いながらタオルで拭いては洗面台に絞りに行くことを繰り返した。

 そうして何とか拭き終えて、タオルもパーカーも洗濯機に入れられた。

「じゃあ、行こうか。駅に」と立ち上がる。

 結子は少し名残惜しくなった。

「…うん」

 二人で大雪の中を駅まで歩く。

(電車が止まってればいいのに)と結子はいつしかそんな思いを抱えていた。

「佐田さんの家は遠いん?」

「うん。一時間半くらいかな」

「そっか。帰れるといいけど…」

 駅に着くと、運転している区間もあるが、止まっているところもあるらしい。そして今後も分からないと言う事だった。行けるところまで行こうかと、結子は改札に定期を通そうと思った時、光一郎が口を開く。

「よかったら…。自転車貸そうか?」

「え? 自転車?」

「でも雪やからまたこけるか」

 光一郎の後ろに電話ボックスが見える。

「俺、なんもせんから、うちに泊まってもええけど…。ビデオ借りて見る? トランプする? ウノあるで」

「…いいの?」

 なぜか光一郎が明るい笑顔になる。

「うん。スーパーでご飯買って、帰ろう」

 そう言われて、結子も楽しい気分になった。

「家に電話してくる。後…友達にも。アリバイ頼むから」と結子は電話ボックスに向かっていく。

 寒いからと光一郎も入って、二人で電話ボックスに入った。

「お母さん? そう…。うん。電車が止まるかもしれなくて。京子のとこ泊まらせてもらう。うん。そう…うん。分かった。はい」

 京子に電話すると「電話あったら、お風呂に入ってますって言うわね」と言った。

「じゃあ、行こか」と光一郎が言う。

 結子は頷く。今日、初めて会ったのに。しかも最悪な気分だったのに。

 雪はどんどん積もって行く。歩きにくいので、腕を組ませてもらう。距離がこんなにも近くなる。見上げると、暗い空から白い粒がどんどん落ちて来る。横には鼻を赤くした光一郎がいて

「寒いなぁ」と言う。

 その柔らかい響きと雪の冷たさがずっと残っている。今でも。

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