冬の蛍

きこりぃぬ・こまき

冬の蛍

 乱れた呼吸を整えるように大きく息を吸う。凍てつくような空気が肺を満たす。血液に紛れて体内を巡って温まり、白息として口から吐き出る。

 両手を顔から下ろし、大の字になるように腕を広げる。白息が薄らと視界を曇らせる。視界を晴らすように瞬きをしていると、柔らかな温もりを感じる淡い光が目の端に揺らめく。え、と音にならない声を上げて淡い光を目で追いかける。

 右も左も分からない暗闇を照らす小さな命。ひとつ、またひとつ。冬の心を掬いあげるように浮かび上がってくる。

 ゆらりゆらりと揺らめく光がどこへ向かうか分からない。ただ、迷子の足元を照らして、優しく導いているみたいだと思った。

 その光景に、長い間忘れていた大切なことをほんの少しだけ思い出せた気がした。



 

 ぷつん、と。糸が切れるように、急に限界がきた。急にと言ったが予兆がなかったわけではない。

 少しずつ夜が眠れなくなり、眠気を感じなくなった。それに気付いたときには目眩や吐き気を覚えるようになり、ときどき胸が詰まるような息苦しさを感じた。

 学生の頃から好きだったものにときめくことなく、情報を追おうとも思えず。そして、物事に無関心を抱かなくなった。頭が上手く回らないのだ。ぼうっと思考が鈍り、ただただSNSを眺めて一日を終える。

 いつからこうなったか、明確な時期や決定的な瞬間があっただけではない。しかし、原因は分かっている。

 疲れたのだ。日勤と夜勤が交錯する不規則な勤務。経験年数が長くなるにつれて仕事量と責任が増す。当然、残業も多くなる。しかし、給料は増えない。

 人手不足が深刻化している現場の状況などお構い無しで理想を掲げる看護局。指導をされる度に暴言を吐く患者。治療のために必要な身体拘束を行った結果、ADL低下を招いて入院前の状態に戻せと退院拒否をする患者家族。心身ともに磨り減っていった。

 急性期病院という治療の場で働いているので、辛いことばかり起きているわけではない。重症化していた患者が回復し、元気に退院していく後ろ姿を見て喜んだ回数は数え切れない。


「ありがとう」

「看護師ってすごい仕事ね。本当に助かるわ」

 

 と、何かをする度に感謝の言葉を口にしてくれる人もいる。総体的に見ると、そういう人の方が多い。

 そう分かっていても、心身ともに疲弊した身では良いことよりも悪いことばかり目につき、記憶に刻まられる。その度に、看護師でいる意味を考えてしまう。そして、これから先、何十年もこの生活をしなければならないのかと、背筋が寒くなった。

 それでも、奨学金の返済があるから。せめて、病院へのお礼奉公が終わるまでは。そう言い聞かせて踏ん張っていた。そうしている間に同期が一人、また一人と退職していく。ある人は結婚、ある人は好きなことをするために。皆、素敵な笑顔を浮かべていた。目が開けられないほど眩しく見えた。同時に、昼も夜も働くことで心も身体も、そして肌もボロボロになっていく自分が惨めに見えてきた。


 

 

 こうして、看護学生時代に抱いた夢や希望、そして患者に対する情熱を失った看護師、折戸おりとすばるは退職を決意した。せめてきりがいいところまではと踏ん張ってきたが、急に限界が来た彼女は年の終わりに退職することを希望した。そして揉めた。


「退職希望は四月までに申し出てくださいとあれほど言ったでしょう。急に言われても無理です」

「先輩看護師がそうして辞めていったというけれど、前の師長の対応が間違っていただけだから」

「有給とは一年間勤務することを前提に与えられるものです。12月に辞める人が貰えるわけないでしょう」


 等々、配属部署の師長に散々な言われ方をした。

 欲しい情報も不要な情報も、SNSで手軽に入手できる現代の情報社会で生きる折戸はこの言い分を鵜呑みにすることはなかった。しかし、自分が知らないだけで地方公務員特有の制度があるかもしれないと考えて人事部にひっそりと確認を取った。そして、有給は年度内退職者であろうと前年度の繰り越し分も合わせて使用可能という回答を得た。

 身体的にも精神的にも限界だった折戸は人事部に確認した上で最後の一ヶ月は余った有休を使わせてほしいと改めて相談した。


「人事部で何を言われたか知らないけど、看護局の決まりで駄目だから」


 そして、この返事である。

 なるほど、退職代行サービスの需要が高まるわけだと。12月の退職を許された代わりに、配属部署の師長から冷たい態度を取られるようになった折戸は他人事のように思った。他の看護師の態度は変わらなかった。むしろ、現場の状況に対する不満に共感する人、師長からの扱いに同情する人の方が多かった。


「……揉めに揉めた退職だから、こういうの貰えないと思っていました」

「あー、まあ。12月退職する人に渡せる余裕なんてうちにはない、なんて言われたけどね」

「ですよねー」

「でも、折戸さんだってちゃんと年間の病棟会費支払っているし、何より五年間この病棟に貢献してきた人だからね。何もなしはありえないでしょう」


 そう言われて渡されたものはメッセージカードを挟んだ貼るタイプのアルバムと某コーヒーショップのギフトカード。恒例の収納に困る色紙や管理をしなければならない花束ではなかったことに驚き、そして今回の担当者はセンスがあると感心した。

 メッセージカードは病棟看護師や看護助手だけでなく、主科となる医師。そしてやりとりの多い栄養士やリハ科のスタッフの分まであった。想像していたよりもずっと丁寧に作られていた。

 揉めに揉めて円満とは言えない退職だった。それでも、このアルバムによって病棟に尽くしてきた五年間が少しだけ報われた気がした。




 折戸は余暇をどのように過ごせばよいのか分からず、時間を持て余していた。

 退職直後に行ったのは大掃除。そして、年越し蕎麦を食べながら歌番組を見て、初詣に行く。大晦日と正月という名の季節の行事を感じることだった。

 入院患者のいる病棟に勤務していれば年末年始はあってないようなもの。12月31日に仕事納めをして、1月1日に仕事始めというのはまだいい方で、年越し夜勤なんてした日には年が変わった実感が湧かない。折戸は社会人になって数年ぶりにちゃんとした年越しを送ることができた。

 一緒に年を越す相手がいないので、家族や恋人、友人と過ごしている人々を見て孤独感が増したり。大掃除で断捨離を行おうとしたら、自宅と病院を往復する数時間のためだけに着た似たような衣服ばかりで、ときめかない衣服を捨てようものなら明日から着る服がなくなりかけたり。久し振りの年末年始は虚しさを煽るばかりであった。

 年末年始を過ごし終えた折戸はこれといってやることがなかった。正確にはやりたいと思うことが浮かばない。朝起きて、遅めの朝食を摂って、テレビもしくはSNSをぼんやりと眺めているうちに二度寝して。目を覚ましたら夕食を食べて、またぼうっと過ごして深夜を過ぎてから眠りにつく。外出は食材の買い出し程度。起きたら洗顔、寝る前にシャワーという今までのルーティーンを崩すことなく過ごしているおかげで、人間らしい最低限の生活を送れていると感じ始めたところで折戸は危機感を抱いた。

 馬車馬のように働いた五年間。蓄積した疲労により仕事だけでなく私生活に対する情熱も削がれていった。なので、ようやく手に入れた空白の時間でやりたいことが思い浮かばず、時間を無駄にしていく日々。学生の長期休暇という名の空白の時間があったはずだと、折戸は夏休みをどう過ごしていたかを振り返った。そして、友達と遊ぶため、趣味のためとバイトをしてお金を稼いでいた。友達とプールやらテーマパークやらと遊びに行った。夜通しカラオケという日もあった。暇な時間なんて一切なく、夏休みなんて瞬く間に終えたことを思い出して息苦しくなった。


「仕事で心に余裕がなくなって関係を蔑ろにすれば、どんだけ仲の良かった友達でも離れていくんだよなあ」


 本当に限界だった。一刻も早く辞めたかった。だから、今後のことなど考える前に退職をした。本当は退職までの3ヶ月間で転職活動をする予定だった。しかし、想定外に揉めたことで今まで以上に心の余裕がなく、転職活動をする余力がなかった。

 これまでが忙しすぎたせいで、何もせずに一日を終える毎日に焦燥感を抱き始めた折戸は転職活動をしようと転職サイトを開く。しかし、登録した転職サイトのアドバイザーとのやりとりをしている中で、辛かった日々を思い出してモヤがかかったように思考が鈍る。求人内容を眺めていると吐き気に襲われる。次第に、アドバイザーとのやりとりが億劫になった。

 どうしても疑ってしまうのだ。アドバイザーに狙い目の病院とやらを紹介される度に、そんなうまい話があってたまるか。どこの病院も人手不足であるこのご時世に、こんな好待遇があってたまるか。何か裏があるはずだ、と。

 今必要なのは急いで新しい職場を探すのではなく、ゆっくりと休息をとることだと自覚はしている。しかし、そう思っていてもこれまでずっと自分の体調が悪かろうと他人の看護をしなければいけない状況に身をおいていたせいで、身体が動くのに何もしていない状況に罪悪感を抱いてしまう。

 人を社会の歯車として例えるのであれば、自分は歯がボロボロに欠けて他の歯車とは噛み合わなくなり、それでも無理矢理回り続けた結果真ん中の穴が広がって転がり落ちた歯車だ。使い物にならなくなった欠陥品。使い物にならないゴミ。


「ダメ人間だなあ」


 なんのために看護師になったのだろう。これからどうやって生きていけばいいのだろう。そもそも、自分は生きていていいのだろうか。考えれば考えるほど気持ちが沈んでいく。

 こういう状態になるのは初めてではない。夜勤が続けば必ずといっていいほど、これから何十年もこのような生活が続くなんてぞっとする、早く人生を終わらせてしまいたいと追いつめられるような気持ちに何度もなった。しかし、職業柄、自ら命を絶とうとして生き延びた人たちを何人も見ているので行動に移すことができなかった。中途半端な形で終えた場合、生き地獄が待っていることを知っていて、どうして実行できようか。

 

「……いったん寝よう」


 このまま思いに耽てもいいことはない。

 折戸は手にしていたスマホをベッドに投げ捨て、大掃除以来カバーを交換していない枕に顔を埋める。目を瞑って、深呼吸を繰り返す。羊を数えてみたり、楽な体位をとろうと寝返りを打ってみたり。どうにかして眠りにつこうとするが、やればやるほど目が冴えてくる。

 そわそわと気持ちが落ち着かず、何度目かの寝返りを打ったところで瞼を上げる。投げ捨てたスマホに手を伸ばす。それから、いつものようにぼんやりとSNSを眺める。


「深い夜を照らす幻想的な光。冬に灯る小さな命。鉛のように重たくなった心が少しだけ軽くなる場所がここに、か」


 ほっこりと心温まるエピソードから鉛を飲み込んだような気持ちになる不景気な愚痴まで、多岐に渡る話題を流し読みしていると突然浮かんできた広告アイコンを誤タップする。アイコンの画像が表示される前に触れてしまったが、どうせいやらしいものだろうと憂鬱な気分になってページを戻ろうとする。しかし、実際に開いたサイトは折戸が想像していたものとは異なっており、ブラウザバックを押そうとした指を止める。

 青みがかかった漆黒を背景に画面の下から上へと揺らめく淡い黄緑の光。光がゆっくりと消えると、浮かび上がってくる文字。文章をなぞるように呟き、鼻で笑う。こんなに怪しい文言に釣られる人がいるわけないだろう。バカバカしい。そう思って笑ったのに、サイトをスクロールする指が止められなかった。


「なんだ。これ、民宿のサイトか」


 読み進めているうちに広告から飛ばされたサイトはスピリチュアル的なものではなく、とある民宿のサイトであることが判明する。住所は見たことも聞いたこともない場所で、地図アプリで確認すると折戸の住まいから随分と遠いところであった。

 車だろうと公共交通機関だろうと、片道で何時間もかかる。そんなところに行ける余裕なんてない、と。サイトを閉じようと、タスク管理ボタンを押してブラウザアプリをスライドしかける。


「……そっか。今の私には余裕があって予定がないんだ」


 スライドしかけたブラウザアプリを開き直す。そして、サイトの一番下に表示された予約ボタンを親指の腹で撫でる。

 これからの予定はない。生きる気力すらない。なら、怪しい文言に流されたところで困ることはないじゃないか。

 そう、静かに呟いて予約フォームへと進んだ。

 


 予約した民宿がある町に向かうバスは一日に数本しかなかった。数少ないバスにも関わらず、乗車している客が自分一人しかいないという状況から、そりゃあ本数も減るだろう。ガタンゴトンと不規則に揺られながら、そのようなことを考えているとバスはゆっくりと減速する。ガタンと大きく揺れて停車し、運転手の掠れた声がマイクを通して車内に響く。目的地に到着したことを確認した折戸はドアが軋む音を耳に残してバスを降りる。

 無色透明な雪の匂いが鼻腔をくすぐり、冷気が露わになったわずかな肌を刺す。折戸の息遣いとぎゅっぎゅっと雪に埋もれた道を踏みしめる足音以外何も聞こえず、まるで息を潜めて世界から隠れるように存在している町だと思った。


「宿は……こっちかな」


 地図アプリを駆使して予約をした民宿まで向かおうとする。しかし、町には点在する民家と使用用途の分からない建物しか見当たらず、目印になるようなものがない。雪で隠れたでこぼこな道に足を取られながら、折戸は進んでいく。

 よく言えば自然豊か、悪く言えば何もない。そんな田舎町なので、どれだけ歩いても風景が変わることはない。ゆったりと時間が流れていく感覚が肌を撫でる。忙しい現場にいたからか、その感覚に未だ慣れることができない折戸は歩調を速める。


「折戸様ですね。ようこそいらっしゃいました」


 雪が降り積もった田園風景眺めながら歩いておよそ一時間。何度も道を間違えては戻ってを繰り返し、ようやく予約していた民宿に到着する。

 色褪せた木材にて覆われた民宿に年季を感じる。玄関前の石畳には雪が積もっておらず、難なく歩くことができた。木が軋む音を立てながら玄関扉を開くと、薄暗い廊下に続く。天井から吊るされた煤けたランプが外から吹き込む冷たい風に揺られる。

 扉の開く音を聞きつけて、奥から一人の老婆が現れる。折戸が名乗る前に断定形で名前を確認され、そのまま部屋まで案内される。その振る舞いから今日の予約者は自分一人であることを察した折戸は少しだけ不安を抱く。


「ときどきね、あなたのように若い人が遠路はるばるこの宿に訪れてくれるんですよ」

「そうなんですね」

「こんな何もない田舎町の宿ですが、ゆっくりしてらしてね」

「はい」


 足元には年月を経たしっとりとした木の床が無骨に広がっており、老婆の案内を受けて廊下を歩いている間、ギッギッと抱いた不安を煽る音が鳴り続いていた。ところどころ亀裂の入った木の板の壁を横目で見ながら、老婆の話に相槌を打つ。

 ふと、結露に濡れた窓から森が見える。枝に雪を乗せ、白く塗られていた。

  

「あの、この窓から見える森って」

「ずぅっと昔からある場所だね。綺麗な小川が流れていて、とても気持ちの良いところですよ」

「この季節に入っても大丈夫ですか?」

「そこまで深い森でもないから大丈夫だけれど……」


 老婆は足を止めて振り返る。折戸の姿を観察するように上から下へ、下から上へと目をやって険しい表情を浮かべる。その目には心配の色が宿っていることに気付き、折戸は苦笑を浮かべる。

 彼女の言う通り、この町には何も無い。民宿もバス停から降りて徒歩一時間以上かかる。そこを一人で訪れた草臥れた顔をした女。森に行って何をするのか、よろしくないことが思い浮かんでも仕方がないことだろう。

 そういうつもりは今のところないのだが、余計な一言で疑惑が深まるかもしれない。折戸が言葉に迷っていると、老婆は目元の皺を深くして優し伝える。

 

「温かい晩御飯をたっぷり用意しておくからね。ちゃぁんと帰ってきてくださいね」




 老婆の助言を受け、防寒具をしっかり身につけた折戸は森の中へ入っていく。冷たい空気が一際鋭く、つんと鼻を刺す。鼻先と頬は赤く染まり、マフラーで覆った口から白息しらいきが漏れる。

 雪を乗せた木々はその重みに耐えられず、枝を垂らしている。何かの拍子に落ちてくる危険性を考慮し、折戸は雪の積もった木から離れて歩く。

 目に付いた森になんとなく入ってみたが、目的地などない。慣れない森、しかも雪が積もって地面が見えない環境は歩きにくく、訪れたことを早くも後悔していた。

 少し歩いたら戻ろう。そう思っていたが、冬の日の入りは思っている以上に早いもので。少し歩いているうちに辺りは真っ暗になっていた。これはまずいと方向転換をするが、右を見ても左を見ても同じような木ばかり。雪の積もった地面だとしても足跡が上手く見つけられない。来た道を見失ったことに気付き、手袋で覆われている指先が冷たくなっていく。

 慌てて周囲を見渡すが、木々の隙間から覗くのは暗闇。どちらに進めばいいか分からず、恐怖心がじわじわと迫りくる。

 呼吸が荒くなり、足元が覚束無い。注意力が散漫となり、雪で隠れた木の根に躓く。雪のクッションがあるとはいえ、勢いよく転倒をすれば痛いものは痛い。幸い、頭部を打つことはなかったが、状況が状況なだけに立ち上がる気力が湧かない。


「なんか、もう、どうでもいいや」


 雪に体温が奪われ、思考が鈍くなっていく。唯一熱を感じるのは目の奥から溢れ出そうになる涙を隠すように両手で顔を覆う。厚手の手袋はしっとりと濡れているが、それを不快だと思う余力すら折戸には残っていなかった。

 乱れた呼吸を整えるように大きく息を吸う。凍てつくような空気が肺を満たす。血液に紛れて体内を巡って温まり、白息として口から吐き出る。

 両手を顔から下ろし、大の字になるように腕を広げる。白息が薄らと視界を曇らせる。視界を晴らすように瞬きをしていると、柔らかな温もりを感じる淡い光が目の端に揺らめく。え、と音にならない声を上げて淡い光を目で追いかける。


「ほた、る?」

 

 右も左も分からない暗闇を照らす小さな命。ひとつ、またひとつ。冬の心を掬いあげるように浮かび上がってくる。

 ゆらりゆらりと揺らめく光がどこへ向かうか分からない。ただ、迷子の足元を照らして、優しく導いているみたいだと思った。


「冬なのに、蛍が飛んでいるなんて……」


 身体の芯まで冷えきった身体を起こし、淡い光を追いかける。足に力が入らず、よたよたと危うい足取りとなる。

 淡い光は折戸の足元を照らすように集まり、道案内をするように前を飛ぶ。


「……わ」


 突然、視界が開ける。木々の隙間から漏れる微かな月光によって小川がきらきらと煌めいている。折戸が声を零したと同時に無数の淡い光が舞い上がる。

 蛍だ。雪が降り積もる真冬であったが、その淡い光は間違いなく蛍である。


「きれい」


 蛍は空へ舞い上がる。夜空を踊るように揺れ、周囲を照らす。地面に降り積もる雪に、さらさらと流れる小川に、蛍の淡い光が反射する。

 暗闇を照らすように、凍りついた心を優しく包み込むように、蛍の光が存在する。


「冬に灯る小さな命、か」

 

 冷たい空気。雪の静けさ。そして、蛍の温かい光。刹那を生きる命がこの瞬間に凝縮されていた。

 その光景に、長い間忘れていた大切なことをほんの少しだけ思い出せた気がした。



 突風が吹き、折戸は目を瞑った。その間に蛍は姿を消した。代わりに、煌々と照る月が道標となり、折戸は無事に民宿へと戻ることができた。

 

「折戸様、おかえりなさいませ。……あらまあ、鼻先まで真っ赤にして。お外は寒かったでしょう。先にお風呂に入って身体をくださいな」


 老婆に言われて風呂に浸かり、それから遅い夕食を摂った。指先までぽかぽかと温まり、心地の良い満腹感が身に染みた。

 長い間、どれだけ熱い風呂に入っても温まった気がしなく、どれだけ食べても満たされることがなかった折戸にとって、久しぶりの感覚であった。気付けば大粒の涙を零しており、下膳に来た老婆を驚かせた。


「森から戻られた際、ここに来られたときよりもすっきりとした顔をしていました。森で良い出会いでもしましたか?」

「そう、ですね。……世の中には、私が見たことのないものがまだまだたくさんあるんだって思いました」


 老婆は下膳を後回しにして、折戸が落ち着くまで背を撫で続けた。長い年月を刻んだ皺くちゃな手の温もりに折戸は肩の力を抜き、深呼吸をする。ストーブで温められた空気が肺を満たし、血液に紛れて体内を巡る。身も心も冷え切っていたことが嘘のように火照っていた。

 民宿に訪れたときは草臥れた顔をしていた折戸の表情が和らいでいることに老婆は気付き、ふくふくと穏やかに笑う。

 

「人生は長いのだから、一つのことに囚われず。時には全部投げ出すことも大切ですよ」

「でも」

「特定の誰かが何かを成さなければ社会が回らないなんてことはありません。必ず、代わりを立てることができます。穴を埋めることはできます」

「……」

「けれど、自分の代わりを立てることはできません。だから良いのですよ。辛いときは全部投げ出して、ゆっくり休んでも。それで、誰かのために何かをしてもいいなと思えたら、そのときに頑張れば良いのです」

 

 静かで、柔らかい声は心地が良い。ささくれだっていた心に響いた。

 ああ、そうか。全部投げてもいいのか。ゆっくりと休んでもいいのか。頑張ることをやめてもいいのか。

 ゆっくりと休息をとるべき状態であると自覚をしていたが受け止めることができなかったことを、ようやく飲み込むことができた。


「あの、ありがとうございます」

「こちらこそ、晩御飯を食べに帰ってきてくれてありがとうございます」


 折戸が落ち着いた頃合いを見計らって、老婆は下膳の仕事を始める。お膳を持って部屋を出ていく丸まった背に頭を下げ、もう一度お礼を言う。

 老婆が出て行ったことで室内はしんっと静まり返る。その静けさに身を委ねるように目を瞑り、確かにこの目で見た幻想的な光景を思い出す。

 刹那に生きる命があそこにあった。残り短い命を燃やしていた。なぜ、冬の森に現れたのか。どうして灯っていたのか。理由は分からない。確かなことは、あの場には尊い命があり、懸命に生きている無数の生き物がいたということ。

 

「明日は、何を見ようかな」


 仕事への情熱を失って、何がしたかったのかを忘れて、もう全てがどうでもよくなっていた。どうでもいいと投げ出すのであれば、見たことのない世界に触れて回るのもいいかもしれない。

 そう思えた折戸は小さくだが、久しぶりに声を上げて笑うことができたのだった。

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