第6話


 食後はラファエルが、アデライードに部屋で少しゆっくりして来なさいと優しく声を掛けた。二人が手伝ったとはいえ、食事の大部分は彼女が朝から一人で仕込み、準備を進めて作ったものだからだ。

 ネーリもラファエルと一緒に優しく頷くと、彼女は「分かりました。ではお言葉に甘えさせていただきます」と言って、自室に下がった。ラファエルが、二人きりでネーリと話したいのだろうことが分かったからである。

「素敵な人だね」

 二人きりになると、ラファエルと一緒に食器を洗いながら、ネーリが言った。

「そうなんだ」

 ラファエルが頷く。

「小さい頃から母親とも別れて修道院暮らしをしているのに、大らかな優しい娘に育ってくれた。修道院には感謝しないとね。……俺もあまり神を信じているとは言い難いけれど、ジィナイースともこうやってこの地で再会出来た。神は見えないことが多くても、決していないというわけではないらしい」

 ネーリはラファエルを見る。

「ね、ジィナイース。僕にもし何かあった時は、君にアデライードのことを頼んでいいかな。フランスにもそういう時、彼女の後見人になってくれる人は数人見つけてあるけど、僕としては君が彼女を守ってくれたらこれ以上なく安心出来る」

 数秒、彼の顔を見上げていたが、ネーリは笑って、綺麗に洗った皿をラファエルに渡す。

「もちろん。彼女が幸せになるまで、ちゃんと見守るよ」

「ありがとう」

 ラファエルがそっと頭を寄せて来る。

「ジィナイース。実は、俺は今までの立場と少し今後は変わって来るかもしれないんだ。

王妃と話して、信頼された面が多い。今後は多くを、城で過ごすことになる。アデライードは身の回りの世話をする人はいらないと言っているから、この家に一人になるんだ。時々、気にかけてやってくれる?」

 うん、と頷いた。ラファエルの剣技を思い出す。あれは王妃も見たはずだ。きっと、あの一件が理由で何かまた、大きく信頼をされたのだろう。あの剣の腕ならば王妃や王太子の護衛も出来る。

「きっと君の人柄を好ましく思ってるんだね。おめでとう、ラファエル」

「ありがとう……それでなんだけど、来週城で夜会が行われるらしいんだ。仮面舞踏会で、素顔を隠して全員参加するらしい。いつもは推薦状とかを見せて、城に出入りできるけど、この時は城の関係者が同伴して、入城の際に許可をする。ジィナイース。君は城に忍び込むって言ってたけど、これならきっとその必要はなく城に入れる。

 ……ただ、【シビュラの塔】に関しては、俺が王妃に掛け合って、側までは行けそうなんだ。どうであったか、君に伝えるよ。だから塔の側に行くことは、諦めて欲しいんだ。

 君はユリウスの血を引く者として、あの塔をどうにかしなきゃいけないと、強く思っていることは分かる。――俺を使って欲しいんだ、ジィナイース。君の力になれるなら、俺はどんなことでもするから。だから君は……あまり危ないことには関わらないで欲しい。

良かったら、この家に住んでくれても全然構わないよ」

「ラファエル……」

「別に……誰があの塔の蛮行を止めたっていいんだろう? なら、別に君である必要はない。俺は幸運に恵まれて、王妃の側に立つことが許された。彼女の信頼も受けてる。なら俺がそういうことはすればいい。俺たち二人であの塔を止めよう。世界が脅威を与えられているから、あの塔は触れてはならないものだと、王妃を説得し、管理権を手放してもらう」

「……君から見て、王妃様はそういうことが出来る人に見える?」

 ネーリの方を見ると、澄んだ瞳がじっと、自分を見ていた。この目に見つめられると、自分を偽ることなんかきっと出来ない。

「……わからない。……でも可能性が、ゼロではないと思う」

 ネーリは小さく息を飲んだ。それから、自分はあの人を前に、そこまであの人を信じることは出来なかったと思った。

 ラファエルは彼女と日々会い、会話を重ねている。

 彼は人を見る目がある。

 その彼がまだ望みがあるというのなら、あるのかもしれない。

「ごめん」

「……?」

 何を突然ラファエルが謝ったのかと思った。

「きっと、人を悪戯に悪く言わない君のことだから、王妃との間にあったことを全部俺には話してないんだろう? 君は王宮にいたんだ。そこから出てきた。ローマの城のこともそうだ。ローマの城にいるなら命の保証をし、暮らすことを許してやると、きっと酷い言葉もたくさんかけられたはずだ。そんな人間を信用出来なくても、仕方ない。俺は君に比べればきっと、まだ彼女の本当の残酷さの半分も見てないんだと思う」

「……。」

 セルピナ・ビューレイが自分に向ける、憎しみの眼差し。

 ネーリだって全てが分かっているわけじゃない。

 いや、まだ何も分かっていないのだと思う。

 彼女の望み、怒り……。

「【シビュラの塔】のことを、少し王妃から聞いた。俺が探りを入れたんじゃない。彼女が自分から話してくれたんだ」

 扉を開く者のことは、さすがにネーリにも話せなかった。『彼』の存在は、今や、世界を揺るがす価値がある。明るみに出ればヴェネトは自分の手中に収めようとするだろうし、他国が存在を知れば、それぞれが自分の利益の為に、自分の管理下に置きたいはずだ。

「ジィナイース。君との話は決して王宮の人間には話さないし、王妃にも勿論伝えたりしない。ユリウスから何か、【シビュラの塔】の起動に関して、聞いたことがないか?」

「おじいちゃんに……?」

「うん。世界は【シビュラの塔】が三国を消滅させるまであの塔が破壊攻撃に使えるとは一切知らなかった。でも、本当に誰も知らなかったのかな? ……ユリウスは本当に何も知らなかったのか? 俺は彼をよく知ってるから、そこまで迂闊な奴だとはどうしても思えない」

 ネーリの脳裏に、開扉したシビュラの塔を前に立つ自分を、驚く表情で見上げた、祖父の顔が思い出された。彼がネーリを城から連れ出したのは、あの直後のことだった。

 でも幼いあの日、シビュラの塔は開いたが、光を放ったわけじゃない。

 だから扉を開いただけで破壊活動を行うわけではないのかもしれない。

 あの中に何か、秘密があるのだ。

 扉を開く者と、撃つ者は、別であってほしい。

 ネーリが扉が開いているのを見たのは二度。

 しかし最後に開いているのを見た時から、三国に攻撃を与えるまで、時間は掛かっている。その間、扉が開き続けていたかどうかは分からない。


(扉を開く者)


 そうだ。ユリウスが自分を城から連れ出す時、扉はどうだったのだろう?

 自然と閉じたのか、誰かが閉じたのか、とにかく二度目に見た時は扉は閉まっていた。

 あれを閉じたのがユリウスならば、ラファエルの言う通り、祖父は何かを知っていた可能性がある。

 自分に何も残さず、死んだ祖父。

 残すべきではないと、考えたから?

(おじいちゃんは、僕がヴェネトから離れて、遠く離れて、関わりなく生きていくことを願ったのかな)

 ネーリはそうしなかった。離れなかった。

 もし、二度目にネーリが開いた扉を城の者がそのままにして、中に入り、何らかの方法で砲撃するに至ったというのなら。

(僕の故郷だからと、この地に拘って、居続けた僕が間違っていたことになる)

「ジィナイース」

 ネーリが水に手を付けたまま押し黙ったので、ラファエルが彼の手を水から取り出した。

 急いでタオルで拭く。彼の手は冷え切って震えていた。

「ごめん。君はユリウスが自分に何も残していないことにも戸惑うくらいだったのに、聞き過ぎたよ」

 一端作業を止めて、ラファエルは暖炉がある居間のソファにネーリを連れて行き、座らせた。温かい紅茶を淹れて持って来る。

「手が冷えてる。熱いから気を付けて」

 ありがとう、とネーリは小さく笑ってくれた。

「……ラファエル……本当に、君にお願いしても、君が無理したり、命の危険があるようなことはない?」

 ラファエルは頷く。

「王妃とは、一種の協定のようなものを結んだよ。なんていうかな……お互いの立場を望みと共に明確にしたものだ。何をすれば相手が自分を裏切るのか、その取り決めをしたんだ。だから俺は、王妃が何を望んでいるかを知っているし、俺がどんなことをすれば彼女が俺を憎み殺して罰そうとするか、分かるようになったんだよ。向こうも同じだ」

 ネーリは驚く。

 あの王妃とそんなに冷静に、協定を結べる人がいたなんて。

「ラファエルの望みは……、ヴェネトにおける、君の望みがあるの?」

「俺の望みはそんなにたくさんはないよ」

 ラファエルは笑った。

「俺を幼い頃、一族の中で唯一庇ってくれたお祖母様がいたのは知ってるだろ。亡くなった彼女の形見の指輪を小さい頃からしてた。あの指輪の内側に、ジィナイースと別れてから、君の名前を刻んだんだ。願掛けのつもりだった。行方も分からなかったから、きっと再会できるようにって。その指輪を、王妃に渡したよ。内側に、俺がこの世で一番大切に思う人の名が刻んであると。その人を貴方が害したり、命を奪うようなことをすれば俺は貴方を裏切って敵になると、はっきり言った」

 ネーリはもう一度驚いた。

「じゃあ……」

「王妃はその気になれば、今すぐにでも君の名前に気付くだろう。でも、俺を信頼するなら、そして本当に価値ある望みを抱いているのなら、俺の望みを貴方が打ち砕くようなことはないはずだと言って釘を刺しておいた。

 三つの国を滅ぼした国の王妃でもね、不思議なことにあの人には誇りというものが全く無いわけじゃないんだ。俺の予想でしかないけど、それでも、彼女は指はまったあの指輪の内側を悪戯に見ようとはしないはずだ。それは、俺を疑い、自分の誇りを貶めることと同じだからだよ。

 自分の弱さを認めることなど、彼女は簡単には出来ないだろう。

 周囲の人間に依存などしていない、それが彼女の誇りだからだ。

 ジィナイース。心配しないで。仮に彼女が君の名前を知ったって、君を殺すなんて間違っていると、俺が必ず彼女を説得してみせる」

 強い瞳でラファエルは言った。

 きっと彼はそうするだろうと、信じれる強さがそこにあった。

 ネーリは強張らせていた表情を緩める。温かいカップのおかげで少し温まった手を、ラファエルの手に重ねた。

「うん、信じるよ」

 微笑んだネーリの表情を見下ろすと、ラファエルは何故か少しだけ苦し気な表情をして、彼の手を握り締めたまま、目を閉じた。

 ヴェネト王妃からは、きっと命に関わる脅威を受けているのに、彼女にジィナイースの名を知るすべを与えた自分を、こんなにも簡単に信じ、許してくれた。

 彼のこの寛容さと、心の広さこそ……偉大な王と今なお語り継がれるユリウスから、ジィナイース・テラに伝えられたものだ。

 ユリウスは自分の一族よりも、周囲の貴族たちよりも、共に戦う者たちを信じた。

 守るべきヴェネトの民を。

 共に船に乗り、戦う者なら、国の違いなど関係はなかった。

 見えない絆を、何もかも、腕を広げて信じ抜くこの、信じる力。


「ジィナイース。俺が感じたことだが、セルピナ・ビューレイは恐らく、父親のユリウスを強く憎んでいる」


「えっ?」

「まだはっきりと分からないけど、感じるんだ。彼女は何かを強く憎んでいて、それは、父親のユリウスなのではないかと。彼の何が、セルピナをそんなにも怒らせ、居たたまれない気持ちにさせるのかは分からない……。君とユリウスに、幸せな記憶があるように。

セルピナとユリウスには、二人しか知らない記憶があるのかもしれない。

 ……家族というものは。

 家族に幸せな記憶しかない者には、大したことのないもののように見えるものなんだ。

 最初からそこにある、神に与えられた自分の護り、幸せ。迷いなく、普通は感謝できる。

 ――でも家族がもし、自分を攻撃し、信用できないものだとしたら。

 俺はその人がこの世で初めて目にする地獄のようなものじゃないかと思う。

 大袈裟に聞こえるかもしれないけど、愛せない家族と一緒にいなければならないということは、その気持ちを知っている者にとっては、とても苦しいものなんだよ。

 血が繋がってるから、簡単に逃れられないし、

 何かにつけて、ついて回る。

 愛せない他人が持っていない、残酷さがある」

 ぎゅ、と手を握り締められた。

 ラファエルはそれを感じて、表情を緩めた。確かに、自分はその苦しさをよく知ってる。

 自分が彼を勇気づけるつもりだったのに、いつの間にか、支えられている。

 ありがとう、と笑いかけてから言葉を続けた。

「俺は、王妃が君を排撃する理由は、ユリウスにある気がするんだ。もちろんユリウスが彼女を攻撃したのではないかもしれない。ただ彼女が、ユリウスの何かを一方的に強く憎んだのかもしれないし。そんなものでも、彼女には世界を滅ぼしていい理由になるのかもしれない。彼女は今、まだ理性的な範囲にいるように俺には見える。だから協定も結べる。

俺の王宮での使命は、彼女を理性的な状態に保って置いておくことだ。その中で、【シビュラの塔】などは持つべきではないと、そういう方向に持って行きたいが、どうなるかは分からない。あくまでも拘るなら……俺が例え黙っていても、他の二国が黙っていないかもしれないし。

 ……俺の望みは、本国の自分の城で、君と穏やかに暮らすことだ。

 でも自分の望みに関わらず、今は強大な運命の渦の中に立っているのを感じる。本当はこんな場所にいるのは嫌なんだ。逃げ出したいよ」

 ラファエルは笑った。ネーリの手を握り締めたまま、前を向く。

「……でも、そういうわけには行かない。こういう逃げたくなる気持ちを、小さい頃から君やユリウスの生き方が、いつも押さえ込んでくれた。

 ジィナイース達と、一緒に生きたかったから。逃げちゃダメだと思えた。今もそう思うよ。……君に魂を支えられてる。君がヴェネトにいるなら、俺もここに残って戦ってみる」

 ラファエルの身体をネーリは強く、抱きしめた。

「無理はしないでね、ラファエル……。

 アデライードさんのことは、心配しないで。

 何かあった時は必ず僕が彼女を連れ出して、君の城に連れ帰るよ。もしそこまで戦火が及ぶなら、平和な暮らしが出来るところまで、どこへでも」

 ラファエルもネーリの身体を抱き、腕に力を込めた。

「ありがとう」

「ラファエル。一つだけお願いしてもいい?」

「なんでも言って」

「【シビュラの塔】の扉が開いているかどうかだけは、どうしても知りたいんだ」

 ラファエルは抱きしめたままそっと目を開いた。

「君がもし、なんの危険もなくそれが分かるなら……それを見て来てほしい。でも、少しでもそのことが、王妃との協定にヒビを入れる行為になるなら、そうはしないで。僕が自分で見に行く。約束して」

「分かった。アデライードと舞踏会においで。それまでにその時に、結果を教えるよ。他に何か知りたいことはある?」

 王宮に、他に知りたいことはないと思ったけど、ふと思い出した。

「どうしてもっていうわけじゃないけど、お兄ちゃんはどんな人か、見てみたい。会ったことがないんだ。僕たちは双子だから生まれた時は一緒だったけど、記憶にはない」

 ネーリが小さく笑ってそう言うと、ささやかな願いに、ラファエルは微笑んだ。

「王太子なら、王妃の側にいつもいる。簡単に会えるよ。

 仮面舞踏会って王妃様たちも仮面するのかな?

 まあ彼女の場合仮面してたってどこにいるか一発で分かるだろうけどね。

 大丈夫だよネーリ。王太子が仮面してても、殿下、仮面に大変なゴミが……とか言って誤魔化して俺が外させてあげるよ。じっくり顔を見るといい。まあ顔は、俺はあんまり君とは似てないなって思ったけども」

 ラファエルがそんな風に言ったから、ネーリは思わず吹き出してしまった。


◇   ◇   ◇


 絵を描いた。

 その日は夕食後、駐屯地に帰るはずだったのだが、ラファエルが、早く自分がネーリの為に用意した城を見せたいと言って、詳細を話し始めたのだ。それを何気なくネーリがスケッチしていると、段々夢中になってしまって、話を聞きながら城の絵を描いたのだ。そうしているうちに、もう暗くなったから泊まっていきなよと言われたので、言葉に甘えることにした。ネーリが泊まって行くことが決まってラファエルは嬉しそうだった。

 窓の形、建物の形も、ネーリが正確に聞き取って描くので、彼も楽しそうに、ずっとネーリが絵を描くのを見ていた。

 ローマの城での思い出と共に話しながら描き続けてしまった。

 もう夜が更けた頃、アデライードがまだ話してるのかな、とそっと部屋を覗いて見ると、暖炉の前で毛布に包まって、ラファエルとネーリが一緒に身を寄せ合って眠っていた。

 兄弟のような存在なんだ、とラファエルは言っていたけれど、本当に仲のいい兄弟のようだと彼女は思った。。余程楽しかったのだろう、話しながら寝てしまったらしい。

 くすくすと笑いながら、そっとアデライードはもう一枚毛布を持って来て、二人の上にかけてやった。


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