第5話
その日は晴れていて、陽射しは温かかった。
「ラファエル」
朝から何となく着替えた姿で、部屋で過ごしていたラファエルは、いつの間にかベッドの上で昼寝をしていたようだ。それでもその声が聞こえた時、ハッと意識が醒めていた。
目を覚ますとネーリがそこにいて、中途半端に開けられた天蓋の布の合間から顔を出して微笑いながらこちらを見ている。
「……ジィナイース」
「少し早く来たよ。久しぶりに君と話せると思ったら楽しみで」
ラファエルの額にかかる金色の髪を、どけるようにして、優しく額を撫でた。
数度青い瞳を瞬かせてから、ラファエルは嬉しそうに腕を伸ばしてネーリを抱き寄せた。
「起してごめんね」
「夢かと思った。今、夢で丁度昔の、ローマの城の夢を見てた気がしたから。ジィナイースが起してくれるなんて、ここは天国かな?」
ネーリは声を出して笑う。幼い頃は本当に、こうやって二人で庭や、ソファの上で一緒に昼寝をしてた。ラファエルは、ネーリにとっても幸せだった少年時代の記憶と結びついている。
一緒に寝よう、という風にラファエルが招くので、ネーリは彼の側に寝そべった。
すぐにラファエルの手がネーリの頬に触れる。
……大きくなったなあ。ラファエルの手。
そんなことを実感する。
彼の剣技も見た。ここでは口に出して褒め称えられないのが残念だけど、本当に彼は強くなった。驚くほどに。
(ほんとうに君はすごいよ、ラファエル)
「……嬉しいな。本当にこういう暮らしを夢見てた。君がこうやって、昼寝してる僕を起こしてくれる。目覚めて、一緒に昼下がりのお茶を飲むんだ」
この世の何もかもを手に入れているように見えても、ラファエルの願いは素朴なものだ。
でもその些細な願いを本当に心の底から願ってる。ネーリは小さい頃から、ラファエルのこういった純粋で優しい魂が好きだった。
ネーリが優しい顔で、ラファエルが喋ることを聞いてくれる。
十年間、ずっとフランスで焦がれてた時間だ。
ラファエルは心の底から今、幸せだった。
「ジィナイース。……ね、俺がもし君に言わないことがあっても、それは君を信じてないからじゃないって……信じてくれる?」
ネーリは笑って頷いた。
「信じるよ」
迷いもなく、彼はそう言ってくれる。
「僕も、ラファエルに言わないことがあっても……君を信用してないから言わないんじゃないって信じてくれる?」
ラファエルは明るく笑った。
「もちろん」
ネーリの身体を両腕で大切に抱きしめる。彼の存在を感じると、幸福感があった。
「……ラファエル?」
彼の胸に額を押し当て、目を閉じる。
この前見た、王宮の、悲しい一室を思い出した。
「しばらくこうしてて」
この気持ちが会ったこともないヴェネト王に対する憐れみなのか、何なのか、分からない。でも、ネーリの顔を久しぶりに見ると、やはり心の底から安心した。この人が側にいてくれるとこの世の何もかもから守られている感じがする。
(これを奪おうとする者となら、例えどんな相手とだって、俺は戦えるだろう)
なにか、一瞬泣きたくなった気持ちを飲み込むと、あとは昼下がりの温かな太陽の感覚と、ネーリの体温に包み込まれて、幸せな気持ちだけが残った。
◇ ◇ ◇
「ラファエル、また寝ちゃったみたいです」
アデライードは彼を起さず、部屋から出てきたネーリに感謝を示した。
「……やっぱり忙しいのかなあ……」
「ラファエル様はフランスでは、ここでの生活よりもっと忙しいスケジュールを苦もなくこなされていましたわ。ここでは人付き合いは限られていますし、王妃様はよく王宮にお招きくださいますけれど、ラファエル様のプライベートな時間を尊重してくださいます。
フランス軍に対しても気を抜くことはお上手なお兄さまですから、ご心配ありませんわ。
昨日はお戻りになる予定ではなかったのに、ネーリ様が今日いらっしゃるということで嬉しくて眠れないと遅くまではしゃいでいらっしゃいましたから、お眠いのでしょう」
笑いながらアデライードがそう言うと、目を丸くしてからネーリが吹き出す。
「そうなんですか」
「ええ」
彼女がそう言うなら、なんだか安心だ。
ネーリは料理の用意をしているアデライードの側に立った。
「僕も手伝っていいかな?」
「まあ。ネーリ様はお客様なのですから、ゆっくりしていただいてよろしいのですよ」
「あそこの気持ち良さそうなソファに座ってゆっくりしてたら、絶対眠っちゃいます」
腕まくりをして、彼がそう言えば、アデライードは強く止めなかった。
普通の客には手伝いなどはさせなかったが、ネーリは貴族だが、人を手伝うのが好きな人なんだ、とラファエルから聞いていたからである。
「ネーリさま。わたくしこの前、ミラーコリ教会に行って参りました。ラファエル様が、ネーリ様の絵を見て来るといいと言って下さったので……アトリエを見ました。私はお兄さまほど美術を見て、上手く品評は出来ませんけど……本当に美しい絵ばかりでした。素晴らしいですわ」
アデライードが誉めてくれたので、ネーリが微笑む。
「ありがとう」
「駐屯地で今大きな絵をお描きになっているとか。何の絵を描いていらっしゃるのですか?」
「神聖ローマ帝国に、竜が放し飼いされている、王家が管理する王家の森というものがあるんです。ぼく昔、貿易商だった祖父に連れられて友人を訪ねた時、その時は分からなかったけどその場所を訪れていたみたいで。不思議な所なんですよ。静かで、緑豊かで……なんか、聖堂のような空気が満ちた所なんです。今までずっと忘れてたけど、神聖ローマ帝国軍の駐屯地で竜を見るうちに、少し思い出して来たから描いてみたいなと思って」
「そうなのですか。それでは、お祖父さまのお仕事の関係で、パリやローマにもいらっしゃったことがあったのですね」
「はい。アデライードさんはフェリックスに会いましたよね。怖くなかったですか?」
「大きく立派で驚きましたけど。あの子はネーリ様にとても懐いて大人しくしてくれていましたから、全く怖くなかったですわ。可愛らしかったです」
「良かった。大丈夫かなと思ったから。フェリックスは人一倍好奇心があってああやってトコトコついてくるんですよ。でも……やっぱり竜が一番迫力あってカッコイイ瞬間は飛び立っていく時ですね。鳥と飛び方が違うんです。風の掴み方が。鳥は前方に進みながら徐々に高度を上げるでしょう? 竜って真上に飛び上がるんです。戦闘時では翼の風圧でも攻撃したりするって聞いたことあるけど、本当にすごいんですよ下にいると。だからこのくらいの足場でも、竜はそこから羽搏けるみたい。真上に飛び上がって高度を上げて、見えない空気の壁を蹴るようにして加速して飛び立つんです。スピードに乗ると、竜って鳥よりも早いんですよ」
手にした人参で、びゅーん、と飛んでいく竜の飛び方を再現して見せてくれたネーリに、アデライードは声を出して笑った。
◇ ◇ ◇
ラファエルは一時間ほどして起きてきて、楽しそうに話しながら料理をしている二人を見つけると、自分も混ざって手伝った。ネーリもアデライードもきっと、その時ラファエルがどんなに幸せで嬉しかったか、知らなかっただろう。
怨恨というものが何一つない、縁の薄く今まで生きてきた妹と、この世で一番大好きな友達が自分の家にいて、三人で仲良く話しながら、暮らす。
孤独な少年時代を生きて来たラファエルが、心の底から望んだものが、その時そこにあった。
(ああ。ここがフランスで、僕の城で、こんな日々が続いたら。僕は他に何もいらないよ)
妹とネーリを優しい眼差しで見つめながら、ラファエルは思った。
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