第4話


 何となくフラフラと歩いて行くと、水路の側にその姿があった。最近見かけなかったので、思わず妙に嬉しい気持ちになってしまった。歩いて行くと、いつもの距離で相手は気づいた。あっ、と吸っていた煙草を捨てる仕草。別に吸っててもいいのに。

「いいんだぞ。別に、お前いつも律儀に俺が来ると煙草捨ててるけど。俺が後から来てるんだし」

「いえ……」

 イアン・エルスバトは王太子ジィナイースの言葉に、笑った。

「? なんだ?」

「士官学校時代、校舎の敷地内では禁止されていたので、人が来ると捨てる条件反射が出来てしまってるみたいですね」

 禁止されたのに吸ってたんだ。

「なあ、お前騎士館の方に普段いるのにここで休憩してることあるよな。向こうにも休憩場所くらいあるだろ?」

「あー……それは……」

 確かに王宮の騎士館も敷地は広いので休憩場所はどれだけでもある。ここがスペイン駐屯地なら、気兼ねなくどこでも休憩する。

 今の近衛団はイアンが選抜し編成した。だからヴェネトの守備隊にいた者でも、信頼している兵が多い。しかしやはりスペイン兵だけではないのだ。何か休憩中不用意な姿や言動があり、それを王妃側に密告などされてはたまらない。決してそういう人間がいると警戒しているのではなく、イアンは自分自身を戒めているのだ。彼は気さくで、仲良くなった人間の前ではどんどん気を抜いてしまうから、どんなに仲良くしていても勤務中の合間の休憩などは、王宮では一人で取るように気を付けている。何気ない仕草でも、王妃の気に障ったりしたら命取りになるからだ。

 ここは本当に王宮の端で人気がないため、安心出来るのである。

「……殿下の周囲に、煙草を吸うような方はいらっしゃいますか?」

 試しに聞いてみた。

 スペイン王宮では割と吸う人間は多かった。

 母親が煙草を嫌うので、吸うなら場所を決めなさい、と彼女が取り仕切っていたが、決められた場所なら吸えた。父親も煙草は好きで、色んな国の煙草を吸っている。芸術を見る目は全く無い父親だが、酒と煙草はかなり一級品が分かる人なのだ。

 イアンは煙草自体が好きというよりは、吸うのは惰性で、小さい頃から父親や年の離れた兄達が煙草を吸いながら、カードをしつつ、酒を飲み、政や世界情勢の話をするのを扉の影から見て来たから、早く自分もあそこに混ざってあの話の中に入りたいとずっと憧れていたことが関係している。彼は王家では末の弟だったからだ。

 それに煙草を吸っていると、何となく、相手と話の歩調を合わせられる。嫌いな奴とは、もう吸い終わったんで、というように場を離れる理由にも出来るし、好きな相手とは、わざとゆっくりと時間を伸ばしたりも出来る。

 彼の場合、煙草は惰性と、人間を見極めるいい道具なのだった。勿論煙草を吸う者同士だから仲がいいとかではない。フェルディナントは全く吸わないが、あの男とは煙草など無くてもゆっくり長々と話すのは好きだった。煙草を吸ってる時はあんまり物を考えずにぼーっとすることも出来るし、逆に考えに集中したりも出来る。その時々に役立つ。

 だが、幼い頃のそういう憧れの記憶に、彼の場合煙草が繋がっている。早く大人に、父親たちの話に混ざりたかったあの頃の名残なのだった。

 イアンの父親はよく喋る豪気な父親なのだが、時々、王のテラスや庭で一人で吸いながら考え事をしてる姿を見ることがあった。その時の父親の横顔や、後ろ姿がイアンは好きで、ああやって、……国のことを考えているのかなあ、と思ったりした。

 そういう記憶とも結びついているのだ。

「周囲にはいないかな。城に来る貴族の中には吸ってる奴はいるけど、父上も吸わない人だったし。母上も吸わないから」

 王太子の返事にそうですか、とにこやかに笑って頷きながらも、俺はもう王宮ではここ以外では絶対煙草吸わへんぞと誓いを立てる。喫煙者だから気に食わないとかいう理由で罷免されたら残念過ぎる。

「妃殿下は煙草がお嫌いですか?」

 イアンが何を心配したのか、その時王太子は気付いたらしい。

「嫌いとか、そんなことは無いと思うけど……。会議では吸ってる奴もいたはずだからそんな気にしないでいいと思うよ?」

 彼はそう言ったが、頼りない言い方だ。好きならともかく、危うい橋は渡ってはいけない。やはり、駐屯地の方でも私室以外では吸うのは絶対にやめよう。

(あ~~~ほんまここは肩凝るトコやわ。早く俺も王宮の外に自分の家が欲しい)

 そうしたらこんなとこで隠れて吸わんのに。

「気にしてんの?」

 イアンは苦笑した。

「もし、妃殿下が煙草はお嫌いでしたら、こっそり教えてくださいますか? 王宮では吸わないように気を付けますので」

 分かった、と王太子が頷く。

「ここからの景色、好きなのか? よくここで見かけるけど……」

 言われて、イアンは気付く。

 確かにそれもあるかもしれない。

 イアンは海が好きだ。船で寝泊まりしたいというくらい、海が好きな彼は、今駐屯地に用意された私室からは、アドリア海の大海原が見える。丁度市街からは反対側で、遮るもののない海が見えるのだ。本当は嬉しいはずなのに、何故かここから見える海の景色は好きじゃなかった。何にも無くて、寂しく映り、気が滅入って来る。そして王宮の騎士館は全て反対側の海に面してしまっているのだ。

 確かにここからは湿地帯の向こうに続く海が見える。そして弧を描くような湾岸が見え、市街も少し見えた。

 イアンは陽が落ちても夜、時々ここへ来た。

 市街の明かりは確かに、好きだった。

「今気づきました。確かにそうなのかもしれません。いつも何となく、足が向いていました。広い湿地帯に海が見えて、市街も見えるので」

 この景色が好きなのか。

 ルシュアンは王宮にずっといるけれど、好きな景色なんて一つも持ったことが無かった。

 自分の部屋から見える景色も退屈だと思うだけで、全く気に入ってるわけじゃない。

 彼は言われて、そこからの景色を見てみた。

 確かに、王宮に住んでいてもここからの景色は、あの日偶然足を運ばなかったら一生見なかったような角度の風景が見える。湿地帯が見え、海が見え、市街が見える。ルシュアンにはよく分からなかったが、要するに色々なものが見える場所なのだ。

「この湿地帯は確か、王家の狩場なのでしたね? 殿下もよく利用されるのでしょうか?」

「いや。……俺は狩りはしたことないんだ。成人したら、父上に狩りを教えてもらうって話だったけど、しばらく無理そうだな」

「そうですか」

「でも珍しい鳥はよく来るらしいよ。貴族の連中が話してた」

 イアンは湿地帯の方を見遣った。

 ふと、ルシュアンは思いがけず、いい流れの話になったことに気付いた。

 彼は実は最近ここに足を運んでいた。このスペイン将校を探していたのだ。

 駐屯地まで会いに行くほどの大事にはしたくなくて、またここで見かけないかなと密かに期待していた。頼みたいことがあったから。

 剣を教えてほしいということだ。

 この前彼の剣技を見た。

 他人の剣技を「美しい」なんて思ったのは初めてのことで、それまでただでさえ色んな授業を受けているのに、ここにまた剣だの戦術だのなんて講義が入って来たら鬱陶しすぎると思っていたのだが、初めて剣に興味が湧いた。

 こっそりと、剣以外もあいつ使えるのかなあ、なんて出入りする女官に聞いてみると、イアンは弓の腕も相当らしい。若いので全く信じていなかったが、戦場で数々の戦功を立てた将軍というのは嘘ではなかったようだ。

 母親のセルピナは、怪我でもしては大変だと思っているのか、馬も剣も、大きくなるまでは扱わなくていいと言って来た。

 近頃は「成人したら、先生を付けましょう」と言っていたが、しかしそれよりも「貴方は人の上に立つのだから、自ら武器を振り回すことはさほど考えなくていいのです」と言う方がずっと強いので、あくまで護身用、という感じなのだろう。

 セルピナは、先代ユリウスが王宮を出て海にいつも出ていたことを嫌っていた。

「王のすることではない」と、はっきり言っていたのも聞いたことがある。それが彼女の考え方なのだ。王が自ら鍛え、戦えるようになるのではなく、王の為に戦う者たちが周囲に揃えばいいのだと思っているので、さほど王が剣を持つことに彼女は積極的ではない。それでも護身用の剣なら文句は言わないだろうし、それくらいなら必要だと分かってくれるだろう。

 また、いざという時王国一の剣の先生みたいな人が呼ばれても、自分が上達しそうにないことはルシュアンは分かっていた。

 どうせなら、話しやすい先生が一人くらい欲しい。今、ルシュアンの周囲には王国一の立派な方々が呼ばれて帝王学を施しているが、堅苦しい人間ばかりなのだ。しかも勉強に興味がないので、興味のない人間に興味のない話をされても、全く身に付かないのである。

 

「……あのさ、狩りで思い出したんだけど」


 何気なく話題を振るつもりで、ルシュアンが話しかけた。イアンがこっちを見る。

「この前実は、騎士館の方を何となく見に行って、お前の剣を見たよ。庭の船の上で、模擬戦みたいなのやってるやつ」

 イアンは緑の瞳を瞬かせたあと、苦い顔をして額を押さえた。

「あれは……。いえ、騎士館の裏手に古い船があって、あいつらが燃やして捨てようとか言うものですから、船がどんなに職人の汗と涙の結晶体として出来上がったか分かってるのかと説教して……だってヴェネトのあいつら船の部位の名称も知らなければ船の上の戦い方も一つも知らなくてですね……」

「いや、別に文句言ってるわけじゃない。あんたが、戦歴で近衛団の団長に抜擢されたってのは聞いてたけど、実際戦うとこ見たわけじゃなかったから。でも、この前の見て――す、すごいと思ったよ」

 てっきり王太子直々に「あんなとこに船を置いて何遊んでんだこの野郎」とでも言われるのかと思ったので、誉められてイアンはきょとんとする。

「そ、それで……その、……俺成人したから、近々剣の練習も始めるんだよ。どうせなら、あんたに習いたいなって思って。俺に剣を教えてほしいんだけど」

「剣ですか? それは――、」

 別に構わないけど、と思ってイアンはハッとした。言葉を濁す。彼の顔を見ていた王太子は、はっきりと表情が曇ったのが分かったようで、首を振った。

「あ、いや……そうだよな、あんただって多忙だし、いいんだ別に、思い付きで言ってみただけだから……」

 今まで居心地が良かったのに。突然気まずくなった。部屋に戻ろうと思った時。

「殿下」

 イアンが呼び止めた。

「いいんだよ、無理しないで。出来ないことは、出来ないって言ってくれ」

「殿下。実は……。私が貴方の近衛隊長に抜擢された時、妃殿下が、あまり貴方の側に、軍人めいた人物を配置することを嫌ってらっしゃるということをお聞きしたことがあります」

 ルシュアンは振り返る。

「だから、私を推挙していただいた時、驚きがありました。私は本国でも軍を率いている。軍人です。母上は、王になる貴方にはラファエル・イーシャ殿のような、社交的な人物に補佐についていただきたいと望んでおられるようです。剣の指南と言っても、王太子の剣術指南役は宮廷にも通じる方が務められる要職です。その……、言いにくいのですが、私が貴方に剣を教えると、お母上はご不興に思われるかもしれません」

 その話は、ルシュアンは知らなかった。つまり、自分の剣術指南役にイアンがなると、母親が不満に思う可能性があるということだ。

「そうなのか?」

「あまり、軍人が殿下に張り付かれるのを好まれないようです」

「でも、あんたを近衛隊長にしたのは母上なんだから、あんたのことは信頼してると思うよ」

 その言葉には、イアンは小さく笑んで見せたが、何と言えばいいのか……という表情にも見えた。

 そうか。剣術指南役ってのはそんな思い付きで自分で決めてはいけないものなのかとルシュアンはその時初めて気づく。知らなかったのだ。母親が剣に興味がないので、剣術指南役など適当に自分が決めていいと思い込んでいた。

 事情が分かったので、改めて聞いてみる。

「……あのさ、なら……俺から母上に話してみる。あんたに剣を教えてもらいたいから頼んでもいいかって。俺が母上には言っておくから、母上が別に構わないって言ったら、俺に剣を教えてくれるか?」

 恐る恐る聞いてみると、王妃の許可があればという言葉が出ると、イアンは安心したようだ。

「妃殿下のお気に障らないのなら、喜んで」


(笑った)


 イアンからすると、王太子が母親に話を通してくれれば何の問題も無かった。夜会に来いだとか、貴族付き合いをもっとしろだとか、そんな話ならきついが、剣はイアンにとって得意の領分である。教えるくらいなんともなかった。それなら出来るわ~と安心したように微笑ったイアンの顔を、思わずルシュアンはまじまじと見つめてしまった。

 この顔は初めて見る。

 この人物は、自分の前だとやたら媚び売ったり、猫を被るような人間とはどこか会った時から違ったけれど、あれも相当、自分の立場に身構えた表情だったのだと初めて知った。

この顔が本当に笑った時のイアン・エルスバトの顔なのだ。

 それよりもルシュアンが気に入ったのは、たった一人の王太子の守り役や教育係などを任された人間は、もう少しの失敗も許されないのだ、という感じの緊張した面持ちや、身構える顔をするというのに、イアンはそういったものを一切見せなかったことだった。

 王妃が嫌がるかもしれないというのは、確かにイアンからすれば気にせずにはいられないのは当然だ。事前に「軍人が張り付くことを嫌っている」などと聞けば、尚更である。

 そういうことを、もっと気を付けてやらないとダメなんだなとルシュアンは理解する。

 剣術指南役を頼んで、そのこと自体にイアンが難色を一切示さず、いいですよと快く引き受けてくれたことが、彼はとても嬉しかった。


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