第3話


 フェルディナントの副官、トロイ・クエンティンは守備隊本部で夜勤を行っていた。数日前に王都ヴェネツィアで捜査を行った。その時押収した資料に目を通している。フェルディナントと交代で、この捜査は数日のうちに早々に結果を出すつもりだ。すでに一つの調査が行われていて、トロイは今、何か見逃したものがないか、確認の意味で資料を見ていた。

 夏場は開けっ放しだったが、さすがに冬に入って来て、本部として借りている教会の扉は閉め切っている。開くと、冷たい風が吹き込んで来た。巡回部隊が帰ったのかと思ったら違った。

「トロイ隊長」

「また襲撃です」

 トロイは立ち上がった。

「西の、ダリオ宮の側の通りです。すぐにお越しください。例の矢がまた使用されています」

 ここを頼む、と残っている騎士たちに命じて、彼はすぐに本部を出た。

 冷たい風がすぐに喉元に入り込んで来る。

 ――襲撃はしばらく落ち着いていたのだが。

 例の矢が出たということは【仮面の男】がまた出たということだろうか?

 今、もう少しで警邏隊を私物化している上級貴族の名に辿り着けそうなのだ。事態は動かないで欲しかった。


◇   ◇   ◇


 次に目を覚ますと、明け方だった。

 身じろぐと、ごく自然にどちらも目を覚ましたので、着替えて少し駐屯地を散歩しようということになった。ちゃんと上着は着てきたが、建物から出ると冷たい朝の空気が頬に触れる。もうマフラーも手袋もあっていい。

「あの倉庫も、もう冷えるだろ。今からでも騎士館のダンスホールに絵を移動させてもいいんだぞ」

 ネーリは首を振った。

「確かに寒くなったけど、あったかくして描くから大丈夫だよ。ミラーコリ教会だって、干潟の家だって、冬はいつも寒かった」

 白い息を吐きながらネーリが微笑っている。

「そうか……確かに、そうだな」

 特に干潟の家は海辺だから、風も強いし、更に冷えるだろう。

「ぼく冬は寒いから昼夜が逆転しちゃうの。日の出てる日中にブワーって絵を描いて、早朝や夜中は描かない。冬は市街にいた方が温かいから、遅くまで開いてるバーや、教会に行けば、火には当たらせてもらえた。そこで絵を描きながら、ヴェネトを歩き回ったりしてたよ」

 きっと、大変なことだ。帰る家がない。冬はどこへ行っても寒く、ジッとしていられないから夜通し歩き回っているなんて。とても辛いはずなのに、ネーリからは悲愴感が少しも伝わってこない。そんな暮らしでも、ヴェネトの絵を描いていられることが嬉しいのか。

彼の、絵を描くことが好きで好きでたまらないというこのパワーには、本当に圧倒される。

「……風邪を引いたりしたらどうしてたんだ?」

 寒いのにかこつけてネーリの手を握り、上着のポケットに仕舞い込み、フェルディナントは聞いてみた。また白い息が零れる。

「ぼく、風邪引いたことってホント無いの。いつも寒い~~って思ってても、熱出たことない」

「そうなのか? ……こんなに細いのに、丈夫なんだな」

 お互いの身体を確かめるように、触れ合って、抱き合ったまま眠ることがある。

 そういう時、圧倒的に自分の心を奪い、才能ある画家として崇拝させ、こんなにも豊かに自分を安堵で包み込む人だから、何となく平時は彼には安心感や、力強さや鮮烈さを感じているのに、ネーリを抱きしめると、その細さに本当に驚くことがある。この身体でよくもあんな自分の背丈以上あるキャンバスに挑んでいけると思うのだ。

「小さい頃からそうなんだ。おじいちゃんもよく、お前は丈夫だなーって頭撫でてくれた」

 幼いネーリが冬の凍えるヴェネトを歩き回りながら、熱を出して震えていたらと思うと、本当に居たたまれないから、そう言われて安堵した。

「そうか……それだけは、良かったな」

 寒さから、熱を帯びようとして赤くなっているネーリの頬を、そっとフェルディナントは撫でた。

「うん」

 彼は笑ってくれる。

 ……今まではとても孤独だったと思うけど。もう二度と、帰る場所がないなんて暮らしは絶対にさせない、と心密かにフェルディナントは思った。


(俺がおまえの、居場所になるよ)


 ポケットの中の手を握り締める。

「そうだ、フレディあのね、今日夕方に街の方に出掛けて来るね」

「教会か?」

「ううん。フレディ、ラファエルに会ったことあるんだよね?」

「ラファエル・イーシャか?」

「うん。ラファエルの家がコルネール宮の近くにあるの。夕食久しぶりに一緒に食べようって手紙もらったから。少し遅くなるかもしれないけど、馬で真っ直ぐ帰って来るから」

「……そうか。お前は……あいつとは、小さい頃からの……」

「おじいちゃんの船がイタリアにいた頃、ローマで会ったんだ。しばらくそこで商いをしてたから、ローマのお城を借りて。ラファエルは療養で、お祖母さまの屋敷に来てたみたい。僕のおじいちゃんがラファエルのこと、とても可愛がってたから一年くらいだけど、一緒に同じ城に寝泊まりとかしてたの」

 確かに、そう言えばローマの城がどうとか言っていた。フェルディナントは思い出す。

それにあいつはネーリの本名を知っている。自分は知らないことを、ラファエルが知っているというのは、面白くはない。

「ネーリ」

「?」

 歩いていたフェルディナントが足を止めた。

「今、俺が、本名を教えてくれと言ったら教えてくれるか?」

「えっ」

「別に、本当に聞き出そうとしてるわけじゃない。お前の気持ちが知りたいだけだ。あいつは、お前の本名を知ってるんだろ。俺は知らない。それは気に入らないから、俺にも教えてほしいと俺が今言ったら、教えてもいいと思ってくれるかどうかを聞きたい」

 ネーリは目を瞬かせた。

 フェルディナントは真剣な眼差しでこちらを見つめてきている。

「……う、うん。そういう理由なら全然いいよ。別に僕の名前は、君に対しての秘密じゃないから……」

 ネーリが戸惑いながらもそう言うと、真剣な表情だったフェルディナントの瞳が、明らかに輝いて彼は嬉しそうな顔をした。

「そうか」

 手を握り締めて、また歩き出す。もう気が済んだらしい。きょとんとしていたネーリがしばらくして、くすくすと笑った。子供みたいなことをしてる自覚はあるが、別に自分の方が信用されてないから話してもらえないんだ、などという理由じゃないと分かっただけでこんなに嬉しいんだから仕方ない。

 いいんだ。

 別にネーリが話したくなくて話してないのでないなら、話してくれる時まで全然待てる。

 多分、彼の本名は自分にとっての【エルスタル】のようなものなのだ。フェルディナントはそう、理解した。

 自分も別に、エルスタルのことはネーリに対しての秘密じゃない。でも、何となくだがそのことを話していなかった時期がある。滅ぼされた国だから話すことが辛かった、そういう理由は少しはあるけれど、大部分は今、自分がエルスタルの王家の人間であることを名乗っても意味がないから話さなかったのだから。

「俺も今日は夜警だから街にいる。馬もいいけど、でもあまりに遅くなるようなら馬車で送ってもらえ。あいつならそれくらい、持ってるだろ。寒くなって来たし。……いいな?

あいつが幼馴染だからみたいな感じでお前をぞんざいに扱ったら、すぐ俺に言うんだぞ。

俺が思い切り文句を言ってやる」

 フェルディナントがこんなことを言うのは、非常に珍しいことだった。

 ネーリはあまり見ない様子の彼を楽しく思いながら、優しい声で言った。

「うん。ありがとう。でもラファエルは昔から、僕にはとても優しくしてくれるから大丈夫だよ。今、彼の家にはアデライードさんって女の人がいるんだけど、彼女は片方の血が繋がったラファエルの妹さんなんだって。とても料理が上手な人で、優しい人だよ。

 僕、実はラファエルの家族に会うのは初めてなんだ。家族っていうか、兄妹かな……。

 ラファエルは兄弟がたくさんいるけど、あまり幼い頃から仲は良くなかったみたいなんだ。でも、嫌い合ってるとかじゃなくて……。

 ラファエルはすごく小さい頃から家族や兄弟を大切に想っていて、彼らといたがってたのを僕は知ってるんだ。けど、あまり家族の方がそう思ってくれなかったみたい。今は全然そんなことないって聞いたけどね。だからかな……あのアデルさんって人のこと、妹さんとしてラファエルがとても大切にしてるの分かるんだ。ヴェネトについて来てくれたのも、彼女だけみたいだから。ラファエルの文を届けに来てくれたのもアデライードさんなんだよ。さすがに女の人だからって、僕が駐屯地の外まで会いに行ったんだけど、フェリックスが興味持ったみたいでついて来ちゃったんだ。入り口のところから覗いて見てたの。初めて見る竜にすごく驚いてたけど、嫌がったり怖がったり、彼女はしてなかった」

「それは珍しいな」

「うん。珍しいよね。女の子ならやっぱり、最初は怖いと思うのかなって。でもフェリックスに笑いかけてた。優しい、芯の強いひとだよきっと」

「そうか……。そういう人がいるなら、お前も安心なのかな」

 ネーリは頷く。

「イアンが、ヴェネトでの生活を、やっぱりすごく苦労してると思ったから。ラファエルには一人でもそうやって側にいてくれる人がいてくれて、良かったと思ってる……」

 ネーリに大切に想われるラファエル・イーシャに全く嫉妬が無いと言えば噓になるが、彼らを繋いでいるのは過去、共に過ごしたという切れない縁だ。こればかりはフェルディナントにはどうしようもない。

 俺ももっと早くネーリと会いたかったなどと思ってもそれは無いものねだりだし、

 ……なにより、ネーリは心優しいひとだが、

 不思議と、孤独な人生を歩んで来た人でもある。

 彼にとって数少ない知り合いや友人は、きっとかけがえのなく思うものであり、それぞれが心の支えであるはずだ。それなら自分も、それを悪戯に邪魔扱いしたり、嫌ったりはしたくない。何か理由があるならともかく、何となく嫌だ、はダメだ。

 ラファエルとネーリは十年、会うことはなかった友人同士なのだ。ヴェネトで奇しくも再会し、嬉しく思うのは当然だった。

「最近ずっと集中して描き込んでたからな。たまにはゆっくりするのはいい」

「うん。ありがとうフレディ」

 ネーリが微笑いかけてくる。

 丁度、薪の倉庫の側までやって来た。「フェリックスはまだ寝てるみたいだね」と二人で話していると、ひょこ、と顔が覗いた。顔を見合わせてから二人で吹き出す。

「おはよう! フェリックス」

 ネーリが駆け出していく。すぐにフェリックスの胴に寄り添った。

「あったかいよー やっぱりフェリックスの体ポカポカする」

 嬉しそうにフェリックスの身体に頬をくっつけているネーリに、フェルディナントは声を出して笑った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る