三
「……そうだったのか。嬢ちゃん、大変だったんだな」
鬼は刀自売の話を一通り聞いて、深いため息をついてみせた。
閻魔庁へ続く長い隧道を、二人は今歩いている。いや、正確には刀自売の方は魂なので「二人」と勘定するのは正しくないのかも知れぬが。
のみを額の真ん中に打たれた刀自売は、のみの持つ力により即死した。そして今その魂が躰を離れ、閻魔王の許へ連れて行かれようとしているのである。
「そんな話聞いたら、後ろめたさがますます増すじゃないか。それでなくとも自分のやらかしを隠すってだけで心がとがめて仕方ないってのに」
このことであった。
実は刀自売があのように奇妙な目に遭わされたのは、元はと言えばこの閻魔王の使いの鬼のせいである。
閻魔王は多くの鬼を使い、その日死ぬ者の魂を迎えに行かせる。現代で言えば西洋の死神のようなものと言えば分かりやすいだろうか。
この日、閻魔王は山田の刀自売の命が尽きるからと山田郡に鬼を遣わした。
しかし何とこの鬼、人手不足で獄卒から無理矢理引き抜かれた者である。地獄のことは知り尽くしていても
このため讃岐国に行くことすら困難を極め、山田郡に着いた時点で疲労困憊となっていたのである。
とにかく腹が減って仕方なくなっていたのだが、地獄の鬼はみだりに此岸の物を食べてはならぬという掟があったため、野に生える草一本も食えぬ。
鬼も閻魔庁に勤めれば官吏同然、下手を打てば左遷を食らうのでまじめに守って耐えたのだ。
だが山田の刀自売の自宅の門前に来た途端、その忍耐がぷつりと切れてしまう。
何と門先に、どこの畏き神仏を祀るのかと思うほど豪華な料理が山ほど供えられていたのだ。
(馳走を作れば病が治ると思っているのか?面妖な……)
鬼は一瞬いぶかしんだが、そう思った直後に手が出て貪り食ってしまう。
食ってしまって、真っ青となった。
(しまった……!これは
実は鬼が先ほど考えたことは半分当たっていた。
布敷の家には人が死にそうになると、門先にこのような大量の料理を作って供える習慣がある。
ただし供えることで治すのではなく、迎えに来る鬼に食わせて賄賂とすることで魂を持って行かせまいとするためだ。とりあえず魂さえあれば命だけは助かる、そのような必死の思いが生んだものである。
鬼もこの役目につくに当たり、閻魔王や先達から一切無視して手をつけぬようと言われていた。それも初歩の初歩として教えられたものを、すっかり頭から抜け落としてしまってこのざまである。
しかも困ったことに此岸の魑魅魍魎である鬼と違い、閻魔庁の鬼は閻魔王に
(これじゃ連れて行けないじゃないか!望みを訊かれて死にたいと言うやつはいないからな……!)
まさにこれだ。こうして板ばさみとなり仕事にならなくなることを見越してのことだったわけである。
困り果てた鬼は塀の陰に身を隠して悩んだ末、何とか策を立て山田の刀自売の枕許に立った。
既に躰から抜けて魂となっていた山田の刀自売が、鬼を見てすくみ上がる。
「驚かせてすまない、俺は閻魔庁の鬼だ。……嬢ちゃんが布敷刀自売だな?」
「そ、そうだけど、一体何の用?」
「お前さんの魂を連れに来た……と言いたいところなんだが、門先の膳を全部食ってしまってな。俺たちの掟ではこういう時膳を出したやつ……つまりお前に恩を返すことになってるんだが、何か望みはあるか?」
「え、それなら見逃してほしいんだけど……」
本来なら頭を抱えるところだが、今の鬼にとってこの答えは想定内である。
「分かった、そうしよう。ただ俺にも仕事がある、何とか連れて行かないとまずい。……それで、だ。お前の一族郎党に同じ名前の女はいないか?『刀自売』というのは多いみたいだからな」
鬼が考えた策とはこれだ。獄卒として亡者を責めていた際に同姓同名の者を責めてしまう事故が何度かあり、その辺りの知識だけはあったがゆえである。
これに山田の刀自売はぱっと顔を明るくしたかと思うと、
「いるわよ。鵜足郡に住んでる同名の従姉妹なんだけど」
にたりと十五の女とは思えぬほど陰険な笑みを浮かべて言った。
「そ、そうか……鵜足郡か、少し離れてるな」
「心配ご無用よ。父様が言ってたんだけど、一家総出で今日辺り見舞いに来るんですって。もうそこの山かもう一つ奥の峠辺りまで来てるんじゃないかしら」
嬉々とした様子で口達者にしゃべるこの少女に、鬼は何とも恐ろしいものを感じる。
悪意だ。純然たる悪意がそこにある。
思わず拒絶したくなったが、自分が言い出したことだ。何より掟を破ったことを閻魔王にも他の仲間にも知られたくはない、我が身がかわいい。
「……分かった。面相を教えてもらえば大体の場所は割り出せる。あとは一緒に来て案内してくれないか」
「いいわよ。恩に着るわ、死ななくて済むだけじゃなく邪魔者も始末出来るなんて」
またもや見えた悪意にびくりと身を震わせつつ、鬼は何とか刀自売のいる山を割り出した。
そして山田の刀自売の手引きで刀自売の許へたどり着き、あのように無理矢理魂を奪ったのである。
「それにしても、お前さん全然抗う素振りもなかったな。普通なら身代わりに死んでくれなんて無茶を言われれば、半狂乱になって騒いでもおかしくないのに」
「まあそうね」
「そうねって……」
刀自売は躰から離れて魂となった後、驚きはしたものの黙って従った。
逆に事情を説明している鬼の方があせっていたくらいで、余りに素直なのに拍子抜けする始末である。山田の刀自売の魂を帰すのにつき合わせても、何の動揺も見せなかったのにはさらに力が抜けた。
「いつかはこうなるんだから、ちょうどよかったわ」
「……閻魔庁としてはちょうどよくないんだが」
淡々と言う刀自売に、鬼はすっかり困惑しきっている。
人間の立場ならそれで済むのだろうが、閻魔庁では此岸の人間全てに死ぬ年月日と順番を定めているため、本人がちょうどよいと言っているからと死なせるわけには行かぬ。
そもそも十五の少女というのに達観しすぎだ。老若男女が泣き叫んで苦しみ、あるわけもない慈悲にすがって無駄に救いを求める声の響く地獄にいた鬼としては、山田の刀自売とは別の意味で気味が悪い。
「門が見えて来たけど、あれが閻魔様のいらっしゃる場所?」
「ああ、閻魔庁の正門だ。非常に
「大丈夫よ。怖くとも正しく裁くお方なのなら、それだけでありがたい話だから」
「………?」
何やら含みのある言葉に鬼は首をかしげたが、もう門前ゆえ威儀を正さねばならぬ。
他の鬼たちが魂を連れて並び閻魔王の前へ向かい裁きを受ける中、鬼は替え玉が露見しはしないかとそればかり気がかりで脂汗を流していた。
一方、刀自売は閻魔王の膝許へと近づいているというのに非常に静かな顔をしている。
どれだけ豪胆なのかと思ったが、よく見てみるとそうではなかった。ただただありのままを受け容れよう、いやもっと言えばあきらめきったようなものがそこにはある。
「次の者、入りませい」
「誰かと思えば汝か。随分と遅かったではないか」
「申しわけもありません、地理にうといがゆえ迷いまして」
「汝は役についたばかりゆえ、こたびは許す。以後なきようにせよ」
「はっ」
黒の笏を持ち、炎のごとく赤い顔から金の眼を光らせつつ閻魔王は威儀を正して言う。ただでさえ臟腑が震えるのに今回はやましいことがある、鬼は初めて胃の腑に痛みというものを感じた。
「さて、讃岐国山田郡の布敷刀自売とな」
閻魔王はそう言いながら手許の帳面――いわゆる閻魔帳をめくったが、すぐにいぶかしげな顔となる。
「……合わぬ。十五の女子ということは合っておるが、それ以外がまるで合っておらぬ」
瞬間、鬼はびくりと震えた。一発で露見してしまったのである。
そもそも冥府の裁判人として四海に名を轟かす、この閻魔王を騙すことなぞ出来ようもなかった。
「汝、人を間違えたな?『刀自売』はよくある名ゆえ」
「そのようです……」
「そのようも何もない。この者は同じ『布敷刀自売』でも鵜足郡に住まう全く別の者ぞ、郷や村ならまだしも郡を間違える者があるか」
どこから取り出したか別の閻魔帳を開いて言うと、鬼をじろりと
「あきれた話よ。遅れた上に人違いとは」
「も、申しわけございません……」
鬼はもはや豆になりそうなほどに小さくなっていた。
閻魔王はひとつため息をつくと、隣の刀自売の方を向く。
「娘よ、こやつが迷惑をかけたな。すぐにでも帰してやりたいところだが、その前に本人が来なければならぬ決まりでな。少々時間がかかるがよいか」
「構いません。ここに一生置かれたとしても、私としては何の異存もございません」
しれっと答える刀自売に、閻魔王は珍しく眼を見開いた。
「こ、こら!何を馬鹿なことを、失礼だろう!」
鬼があわてて起き上がり注意する。腹いせに嫌味を言ったと思ったようだ。
「騒ぐでない、小娘の言うことよ」
閻魔王はそれをさっとたしなめると、
「
早速とばかりに人を呼んで事情を話し、刀自売を連れて行かせる。
鬼はそれをぽかんと見つめていたが、ややあって、
「何をしておるか、早く本人を連れてまいれ!」
閻魔王に叱りつけられ、大あわてで閻魔庁を飛び出して行った。
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