第6話 かなで

 小さい頃、夏休みのある日。

 サーカスに行く話は、だいぶ前から決まっていた。


 母さんがチラシを見つけて、「ほら、すごいわね!」と、興奮してた。

 父さんも「お前も行ったら驚くんじゃないか?」なんて、ちょっと調子に乗ってた。


 そのときは、「ふーん、まあ行くのは悪くないか」くらいに思ってたけど……その日が近づくにつれて、なんだか気が乗らなくなっていった。


 理由は――お気に入りのおもちゃの車をなくしたこと。

 自分のせいなのは分かってたけど、それでもどうしても悔しくて、気分がずっと晴れなかった。


 車に乗り込むと、すぐにタバコの匂いが車内に広がってきた。

 窓を少しだけ開けて「もっと開けてもいい?」と頼んだけど、父さんは「埃が入るからダメだ。あとちょっとだ、我慢しろ」と軽く言っただけだった。


 車はどんどん進んでいく。

 気持ち悪くなってきたけど、あと少しって言葉を信じて耐えてみた――けど無理だった。


 「車、止めて……。」


 ドアを開けた瞬間、吐き気が襲ってきた。

 父さんがすぐに車を止めてくれて、背中を軽く叩いてくれた。


 「大丈夫か? 無理するなよ」


 母さんはタオルを持ってきて、僕の口元を拭ってくれた。


 「ほら、お水飲んで。少し楽になるわよ」


 差し出されたペットボトルを受け取って、一口だけ飲む。

 それでもまだ気持ち悪くて、不機嫌なまま車に戻った。


 駐車場で奏たちと合流する。

 奏は両親に手を引かれながら、「おそいよ!」と小さく怒っていた。


 「ごめんな、ちょっとトラブルがあってな」と父さんが苦笑いを浮かべると、奏が「とらちゃん、だいじょうぶ?」と僕の顔を覗き込んだ。


 「うん……」と答えるのが精一杯だった。


 遠くからでも目を引く赤と白の大きなテントがそびえ立ち、その非日常的な雰囲気に、少しだけ心を奪われた。周りには人がいっぱいで、甘いポップコーンやチュロスの匂いが漂っていた。


 母さんは「ほら、すごいでしょ!」と満面の笑み。

 父さんも「これなら来て正解だろ?」って、ちょっと得意げな顔をしてた。

 僕は「まあ、うん……」と返したけど、まだ気分はスッキリしなかった。


 奏のおじさんとおばさんも「楽しみだな」と話していて、奏は「はやくみたい!」と無邪気に笑っていた。


 テントに入ると、土ぼこりと湿った布の匂いが鼻をくすぐった。

 奏が「すごいね!」と僕に話しかけるたび、少しずつ心がほぐれていった。

 

古い木の板の観客席がギシギシ鳴る中、ショーの幕が開く。ピエロが観客を笑わせ、大道芸人が火の輪をくぐるたび、もうすっかり魅入っていた。


 そして――猛獣ショーが始まった。

 中央に大きな檻が運ばれてきて、ライトが一斉に注がれる。そこに現れたのは、白い毛並みが輝くホワイトタイガーだった。


 鋭い爪。

 牙。

 そして歩くたびに浮き上がる筋肉。


 その一つひとつが檻越しでも圧倒的で、息を飲んだ。

 

 目が合った気がした。

 その瞬間、全身が固まった。


 その目の奥には何か揺るぎないものがあって、怖いのに、すごく綺麗で――なんだか胸の奥が熱くなった。


その動きには、ただの動物じゃない『何か』が宿ってる気がした。


 帰りの車の中、窓に頬を寄せながら流れる街灯を見つめていた。

 その光が、虎の目に重なって見える気がした。その輝きが、心にずっと焼き付いているようだった。


 父さんと母さんが前で何か話してたけど、僕の耳には入ってこなかった。

 頭に浮かぶのは、あの檻の中の虎。目も、筋肉の動きも、全部が焼き付いて消えなかった。


 おみやげで買ってもらったポケットに入れた小さな虎のぬいぐるみを握りしめながら、僕はそっと目を閉じた。


 それが、両親との最後の思い出だった。




 事故で両親を失った僕は、祖父と二人で田舎の家に住むことになった。でも、どうしても新しい生活に慣れることができなくて、ずっと部屋に閉じこもっていた。


 窓のカーテンは閉め切り、机の上にはサーカスで買ってもらった小さな虎のぬいぐるみが置かれていた。それを握りしめながら、僕は何度も両親のことを思い出していた。


 ホワイトタイガーの美しさ、父さんと母さんの笑顔――その全てが、今では遠い夢みたいに感じた。


 「なんで僕だけが……」って考えるたび、胸が苦しくなって、体が動かなくなる。


 そんな僕を心配してか、祖父が奏を連れてきた。


 「ほら、奏ちゃんだぞ」と祖父が玄関を開けると、奏が元気に「こんにちは!」と入ってきた。


 「一色さんたちも心配しててな。子ども同士で話した方がいいだろうって。」


 祖父がそう言うと、奏は「また会えてよかった」と笑った。

それから奏はちょくちょく家に来るようになった。


 僕は初めのうちは布団の中でじっとしていたけど、奏はそれを気にせず話しかけてきた。


 「今日はね、学校でこんなことがあったの」とか、「また天気が良くなったね」って、ただの話。



 ある日、奏が何度も何かを言おうとして、結局言葉を飲み込むような仕草をしていた。

 けれど、意を決したように、もう一度僕の方を見つめると、口を開いた。


 「―――とらちゃん。サーカス楽しかったね。」


 僕は少し迷ったけど、何も答えなかった。


 でも、奏はそのままそばに座り続けた。しばらくの沈黙の後、僕はポツリと呟いた。


 「……あの白い虎、すごくカッコよかった……。」


 「……でも、ちょっと怖くて……。」


 奏は何も言わず、ただ僕の方をじっと見ていた。その視線に押されるように、僕は次々と語り始めた。


 サーカスに行くことが決まった日のこと、車の中で酔ってしまったこと。

 父さんと母さんの何気ないやり取りや、サーカスの中で見た光景。


 話せば話すほど、思い出が鮮明に蘇る。


 「…父さんがさ、僕にペットボトル渡してくれて…。」


 「…母さんが拭いてくれて……あの時、すごく安心したんだ…。」


 言葉が震えてきて、目の奥が熱くなった。


涙が止まらなくて、ポタポタって膝の上に落ちていった。


 隣からすすり泣く声が聞こえた。奏が、僕の話を頷きながら聞いて、ぼろぼろ泣いていた。手の甲で目をこすりながら、でも泣き止めず、涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕を見ていた。



 「とらちゃん……」


 「また……、一緒にサーカス行こうね……?」



 その言葉に、僕は堰を切ったように声をあげて泣いた。

 いつまで泣いてたのかわからないくらい、二人で声を出して泣いた。


涙が枯れるまで、僕たちはずっと泣き続けた。

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