第5話 勇気の代償

 「奏を返せ!」


 虎太郎の叫びが虚しく響く。

 震える拳を握りしめ、無動寺に向かって突進する姿には、一瞬の躊躇もない。

 だが、その勇敢な行動は無動寺の目には、滑稽に映った。


「必死ね。でも、その勇気が何になるのかしら?」


 虎太郎の拳は空を切り、無動寺は冷ややかな笑みを浮かべながら軽やかにかわす。そして彼の背後に回り込むと、肩をつかんで体勢を崩す。


「悪い子ね。子どもが……大人に逆らおうなんて。」


 彼女の膝が虎太郎の腹部に深くめり込み、彼は反射的に口元を押さえて膝をついた。


「がはっ……!」


 胃液がこみ上げる苦しさに耐えながら、虎太郎は必死に体を起こそうとする。しかし、無動寺は彼をさらに追い詰めるように、髪をつかみ引き上げた。


「まだ立つ気があるなら、もっと楽にしてあげるわ。」


 無動寺は無造作に片手でそのまま虎太郎を振り回し、地面に叩きつけた。虎太郎の体が鈍い音を立てて転がる。


 痛みに耐えながら、それでも虎太郎は立ち上がろうとする。彼の瞳にはまだ消えない光が宿っていた。


「……やめないぞ……奏を……助けるまで……!」


「本当に、悪い子ね。」


 無動寺は溜息をつきながら、虎太郎の腕を踏みつけた。骨がきしむ音が響き、虎太郎は声を押し殺しながら地面を叩いた。


「抵抗するたびに痛い目を見るだけなのに、それでもやるのね。偉いわ。」


 無動寺は虎太郎の苦痛に満ちた表情を見下ろし、冷笑を浮かべる。そして、彼女の足が虎太郎の右脚に向けられる。


「もう立てないようにしてあげる。」


 乾いた音が響き、虎太郎の叫びがその場にこだました。


「ぐあああっ!」


 右脚が折れ、虎太郎は完全に地面に倒れ込む。彼の体は限界を迎えつつあった。


 瓦礫の影で息を潜めていた黒田は、その光景を見て歯を噛みしめた。


(このままでは……少年は……。)


 いくらなんでももう、命を奪うまではしないだろう――そう思って少年を放っておくには無動寺の存在が不気味すぎた。黒田の眉間に深い皺が刻まれる。


(だが、この状況で奴ら全員を止めるのは無理だ。)


 黒田はポケットから小型の円筒を取り出した。それは強力な煙幕弾だった。彼は一瞬その重量を確かめながら、これを使用するリスクと目的を再確認する。


(これを使えば、少しでも気をそらせることはできる……が……。)


 わざわざもう一人いることを知らせるようなものだ。

 自分も狙われるのは明白だった。


 だが、少年の事を抜きにしても、どちらにせよこのままでは自分の目的も果たせそうにない。


 黒田は慎重に狙いを定め、虎太郎と無動寺の間に向かって煙幕弾を投げた。

 煙幕弾が地面で破裂し、濃い灰色の煙が辺り一帯を覆い尽くす。


「また!何なの!」


 無動寺が煙に包まれた瞬間、鋭い声を上げた。視界が奪われ、周囲の状況を確認できなくなる。


「鈴、大丈夫か!」


 手力の声が煙の中から聞こえる。


 無動寺は一瞬身を固め、即座に状況を判断した。


「その子を確保したんでしょう?撤退するわ。」


 その間に、黒田は素早く煙の中へ飛び込み、倒れている虎太郎に手を伸ばす。


「くそ……足が……!」


 苦しげな声を漏らす虎太郎を、黒田は無言で引きずり起こし、瓦礫の陰に移動させた。


「おい、生きてるか?」


 黒田が問いかけると、虎太郎はうなずくのが精一杯だった。


「静かにして、奴らが去るまでここでじっとしていろ。いいな?」


 無動寺は煙の中で立ち止まりながら、冷静に周囲を探る。


「はぁ……。考えるのは時間の無駄ね。行くわよ。」


「おい、まだケースが残ってるだろ!」


「ほうっておきなさい。もう充分よ。」


 無動寺と、奏を抱えたまま手力は、煙の外へ向かって動き始めた。


 瓦礫の陰に隠れた黒田は、虎太郎の肩に手を置いた。


「命拾いしたな、もう動くな。」


 その言葉に虎太郎はわずかに顔を上げたが、視界にはまだ混濁した煙と、自分の痛みに苦悶する現実が広がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る