第10話「気味の悪い紋章じゃったわい」
「さて、これが……例の場所か」
ネイマンは、ゲルムントの街からそう遠くない沼地のほとりに立っていた。
ここへ来るまでに、夜明け前の闇をかき分けるように進んだが、ひんやりと湿った空気が肌を刺す。その先には、打ち捨てられたような小さな木造の小屋がぽつんと建っている。
「ネイマン様、お気をつけください。先ほど偵察に出した者も、この小屋に近づいた瞬間に嫌な気配を感じたそうです」
そう声をかけてきたのは、衛兵隊長のヤナック。
いつもの鎧姿に加えて、今日は厳めしい顔つきで魔除けの護符まで首に下げている。同行する衛兵たちも皆、ピリピリとした空気をまとっていた。
彼らがわしに払う特別な敬意は相変わらずで、「ネイマン様」と呼ばれるのが居心地悪いくらいじゃが、まあ背に腹は代えられん。
「隊長、あんまり緊張しすぎても疲れてしまうぞ。わしも一緒におるから大丈夫じゃ。……もっとも、中で何を見つけるかは分からんがのう」
「はい……しかし、ここで黒いローブの連中に繋がる手掛かりが見つかれば、街に巣食う脅威を断てるかもしれません。どうかお力添えを」
そうだ。呪いの紋章の源流を探るためにも、今回の探索は避けて通れん。
わしは杖を握りつつ、ヤナック隊長や衛兵たちを引き連れて、木造の扉へと近づいた。ぬかるんだ泥沼のほとりを踏みしめるたびに、ぐちゅぐちゅという音が足下から響く。
「……失礼するぞい」
きしむ扉を押し開けると、中は薄暗く、埃まみれの古い室内が広がっていた。外の湿気が入り込んでいるせいか、床には苔まで生えている。
灯りは、わしらが持ち込んだランタンと魔法の灯火だけ。薄明かりの中で、隊長や衛兵たちが周囲を警戒しながら一歩ずつ進んでいく。
「これは……壁に何か描かれてます。ネイマン様、ご覧ください」
衛兵の一人が指差す先を見ると、むき出しの木材に黒い塗料で奇怪な紋様が描かれていた。どこかで見覚えのある――そう、研究者が持っていたあの“紋章”に似通った模様じゃ。
「ふむ……かなり大きいのう。しかも点々と複数、部屋のあちこちに描かれているようじゃ。これは儀式魔法の跡かもしれん」
「やはり、ここで黒いローブの連中が怪しげな呪術を行っていたんでしょうか」
隊長が低く唸り声を上げる。わしも黙って目を走らせてみるが、床にも干からびた血痕のようなシミがこびりついている。なにか生贄めいた行為があったのかもしれん。
その時、部屋の隅から妙に鼻を刺す臭いが漂ってきた。
「ん……この匂いは、薬剤の成分かのう。まるであの研究者の薬瓶に似たケミカル臭じゃ。衛兵よ、そこを照らしてみい」
わしが合図すると、衛兵がランタンを掲げて部屋の角を照らしだす。すると、粗末な机と壊れかけた棚があり、その上には金属製の器具や、小瓶の破片が散乱しているのが見えた。
隊長が慎重に足を運び、器具を手に取る。
「こ、これは……クチバシのような形状ですが、先端に注射針めいた穴が……一体、何に使う?」
「たぶん、血液を抜き取る道具かもしれん。ワイバーンや魔物からサンプルを採取していたのと同じ類じゃろう。こいつで採った血を、薬剤に混ぜ込んで怪物を作る実験を……」
それを聞いた衛兵たちは唖然とした顔を見合わせる。やはりここで“研究”や“儀式”が行われていたのは間違いなさそうじゃ。
わしはひとまず周囲を確認し、扉をもう一枚見つけた。小屋の奥に続く仕切り扉じゃ。
「隊長、こちらにも部屋があるようじゃの。調べてみようか」
「はい……皆、気を抜くなよ!」
仕切り扉を開けると、そこはさらに狭く、埃とカビの臭いが強い。
中央に簡易な祭壇のようなものがあり、ロウソクが溶けきった跡や、人型の人形らしきものが踏み荒らされていた。
なにより目を引くのは、祭壇の床を覆うように描かれた円形の“陣”だ。例の紋章が円環状に繋がっていて、やはり血のようなシミが付着している。
「……こりゃあ、なんとも気味が悪いのう。黒いローブの連中が、この陣を使って呪術を強化していたのか」
「恐らく。やはり紋章を中心に、怪物化の力を増幅させる儀式だったのでしょうか」
ヤナック隊長が警戒を解かずに辺りを見回すなか、ひとりの衛兵が「隊長、これを!」と声を上げた。見ると、床の隅に何やら一枚の紙が落ちている。
紙には魔法陣の構造を示す走り書きのような文が並び、奇妙な文字列も書き込まれていた。その下には“紋章”を示す絵図が記されている。
「これは決定的じゃな。あの研究者が言っていたとおり、黒いローブたちが主導でやっとる儀式に間違いないわい。ここで“呪印”を施し、外部から魔力を送り込む形が完成すると……」
「奴らはゲルムントの街中に紋章を持つ生贄を送り込み、怪物を増やしたり破壊活動を起こさせたりできる、ということでしょうか」
うむ、まさに厄介極まりない仕組みじゃ。
敵本体はおそらく別の拠点に潜んでいるが、ここが彼らの仮拠点として機能していたことは確実。となると、この“祭壇”を破壊し、儀式の核を断つ必要がある。
「隊長、すぐにこの陣と祭壇を処分しよう。痕跡だけはきちんと調べ、必要なら城の学者に解析させるといい。わしも少しだけ封印魔法をかけておくがのう」
「かしこまりました、ネイマン様。皆、急いで陣を検分するんだ! 必要なメモや破片は持ち帰るぞ!」
衛兵たちは手分けして部屋をさらい、写真代わりの簡易魔法で記録を残しつつ、使えるものを集め始めた。
わしは杖を振るい、円形の紋章に“封印の念”を刻み込む。これで簡単に再起動はしないじゃろう。もし黒いローブの連中が戻ってきても、儀式をやり直すのに手間取るはずじゃ。
「ふぅ……厄介な連中じゃが、謎はだいぶ解けてきたのう。紋章が何を目的としているのか、その大枠は掴めた」
わしが呟くと、ヤナック隊長が「まったくです」とうなずく。
黒いローブの奴らの本拠地こそまだ不明じゃが、ここを見つけられたことは大きな前進。あとは奴らがこの小屋に来るタイミングを狙うのか、あるいは徹底的に罠を仕掛けて殲滅するか……。
「ネイマン様、とりあえずこれで紋章の謎はおおよそ解けたと言ってよろしいですよね。ゲルムントを怪物騒動に陥れていたのは、ここで行われていた儀式と薬の実験だった、と」
「うむ。逆に言えば、敵がここを通じて街に呪いを仕込み、怪物を送り込む道筋が立っていたわけじゃ。それを断ち切ったのは大きい。……もちろん完全解決ではないがのう」
わしは祭壇を見下ろし、心の中でつぶやく。――次にやるべきは、ここへ戻ってくるであろう黒いローブをどう封じるかじゃ。
隊長や衛兵たちは皆、「これで街が少しは落ち着くはずだ」と安堵の表情を浮かべている。しかし、どこかに“本拠地”がある限り、いつかまた奴らは動き出すだろう。
「本拠を叩くにはもう少し確かな情報が要るのう。あの研究者から絞り取れるだけ絞るしかないじゃろうが……ま、わしは今のうちに酒の在庫を補充しとくか」
呑気に思えるかもしれんが、行商で活躍するわしには“ネイマン酒”こそが本業。これから先、さらに騒動が大きくなったら、街の者たちに少しでも笑顔を取り戻す手段が欲しいんじゃ。
ヤナック隊長が「ネイマン様、どうなさいました?」と心配そうな声をかけてくる。
「いや、大丈夫じゃ。わしは行商人じゃからの。あまり戦いばかりじゃ疲れるじゃろう。少しは街を和ませんとな、フフッ」
「……ネイマン様は不思議な方ですね。戦闘では鬼神のごとく、しかし普段は穏やかで……。そのお心遣いが、本当にありがたい」
隊長はしみじみとした口調で言う。衛兵たちも口々に「ネイマン様のおかげで救われた」と賛辞を述べてくる。
わしは恐縮しつつも、祭壇に最後の確認の杖を振る。ひび割れた木材の隙間から、長い黒い布が見えたが……それ以上に有用なものはなさそうじゃ。
調査を終えた後、わしと衛兵たちは火と風の複合魔法を使い、祭壇を含む小屋の主要部分を徹底的に破壊することにした。再び儀式を使われるのを防ぐためじゃ。
床に残る血痕や呪符をすべて燃やし尽くし、壁に描かれた紋章も焼き払うように指示しながら、わしは外へ出る。激しい炎とともに小屋はみるみる炎上し、沼地の夜空を朱に染めた。
「ふう……これで一応、紋章の秘密は暴いたと言えるかのう」
「はい。あなたのご尽力がなければ、ここまで来るのは無理だったでしょう。これから街に戻り、捕らえた研究者を改めて問い詰めます。黒いローブの本拠の居場所やリーダーの名を聞き出せれば……」
ヤナック隊長がうなずきながら、視線を遠くに向ける。燃え盛る火は黒煙をともない、あたりに刺激臭を撒き散らしている。
わしは燃え落ちていく小屋を見ながら、ぽつりと漏らす。
「これで悪魔族や黒いローブが完全に諦めるわけではなかろう。いずれ大きな衝突があるかもしれん。……街の防備を強化し、いつでも動けるように備えたほうがええのう」
「ええ、もちろんです。……ネイマン様も、何かあればいつでも申しつけてください。あなたには我々衛兵ができる限りの支援をいたします」
隊長が深く頭を下げ、衛兵たちも口々に「ネイマン様、今後ともよろしくお願いします!」と敬礼を送る。
わしは苦笑いでその場を収めながら、内心ではもう一つの心配を抱えていた。――バイスの傷も癒えてはいないし、宿屋の試飲会や街の治安維持も手伝わにゃならん。忙しいのう。
「よし。じゃあ行商人としても出費がかさむから、もうひと頑張りして稼がんと。ハハっ、酒が売れれば財政も安定するじゃろう」
軽口を叩いてはみたものの、正直黒いローブの本拠との戦いを考えれば、まだまだ前哨戦にすぎんのかもしれん。
だが、ともあれ紋章の謎そのものはほぼ解き明かされた。祭壇も破壊できたし、街を襲っていた怪物の元凶が一部潰えたのは間違いない。
「さて、帰るかの。夜明け前のうちに宿へ戻れば、朝にはまた別の用事が待っておるじゃろう。次はどんなことが起きるか、分かったもんじゃないが……フフッ」
「ま、どんな困難が来ようとも、わしは酒と仲間を守るだけじゃ。そのために、まだまだ老骨には鞭打たねばならんのう。よし、張り切るとするか!」
わしの独り言に、ヤナック隊長が「お疲れさまです、ネイマン様!」としっかり声を合わせて応える。
朝焼けに近づく空を見上げながら、わしは宿へ急ぐ足を速めたのだった。
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